東の名探偵の専門は主に殺人事件である。
今日も馴染みの警部に協力を請われて、半ば喜々として現場に向かう。
難解な殺人。
動機のない殺人。
証拠のない殺人。
一見、そう見える殺人事件の中、誰もが見逃すような些細な証拠を名探偵は見付け出し。
そして、完全犯罪のような殺人事件の真犯人を導き出す。
それは、東の名探偵工藤新一にとってはありふれた日常の一コマに過ぎない。
フォルス・ネーム
警視庁。
その日新一は、警察にとって少し厄介な事件を解き明かし、更なる事件を求めるかのように、警視庁に足を踏み入れていた。
被疑者の事情聴取にかこつけて、新たな事件が発生しないかと、危険な期待に胸膨らませて。
そして、その期待は、新一の予測しなかった方向からやって来た。
「怪盗KIDの予告状!?」
警視庁捜査二課。
普段は足を踏み入れることのない課に新一の姿はあった。
仏頂面の茶木警視にこれまた輪をかけたような苦い表情の中森警部。
それを取りなすように宥めている目暮警部。
「つまり、この予告状の暗号を解けば良いんですね」
新一はコピーされたその予告状を手に取り、そう言った。
民間人の手は借りない、と常々豪語していた二課の二人は相変わらず苦虫を噛み潰したような顔でむっつりと黙り込んでいた。
予告状が警視庁に届いて既に3日経過している。
これ以上の時間的ロスは避けたいのだろう。
彼等にとって、民間人に助けを請うのは苦渋の選択だったのだろうと、新一は心の中でそう思った。
元々、泥棒なんて犯罪者など興味なかった。
謎解きは好きだが、だからと言って現場にまで足を運ぶほどヒマでもなかった。
レトロな怪盗の相手をしているより、好きな推理小説の世界にどっぷり浸かっていたい。
一日の終わりは読書で締めくくる。
これが新一の生活スタイルであり、殺人事件を解決する事に次いで至福の時でもあった。
しかし。
工藤新一は至福の時間を放棄して、とあるビルの屋上で、内心苛々しながら奴を待つ。
上空を吹き荒ぶ風が新一の髪を嬲り、夜空にかかった厚い雲を凪ぎ払う。
その雲と雲の隙間から美しく縁取られた三日月が瞬き、新一の足下を仄かに照らした。
今頃は、新一が解いた予告状に則って、厳戒な警備体制が敷かれていることだろう。
新一は屋上から数百メートル先で煌々と照らされている完成したばかりの博物館を眺めながら、そんな事を考えていた。
もちろんここからは何も分からない。人々の声は聞こえないし、照らしているライトの光も屋上までは届かない。
現場の喧噪とは隔絶された空間。
新一は腕時計を覗き込み、怪盗KIDの寄越した予告状の時間が迫りつつあることを確認する。
怪盗KIDが狙った獲物は『イブニング・エメラルド』と呼ばれる宝石。
しかも、それを所有する博物館は先日オープンしたばかりで、突然の災難に頭を痛めている。
新一は、そこの館長との面識はないが、利益第一主義の御仁らしい。
もし盗まれ、戻ってこなかったなら、あの博物館は貴重な目玉の一つを失う事になる。
しかし。
奴はきっと易々と宝石を盗み出すだろう。
そして、喜々として脱出した後、こちらに向かって飛んでくるはずだ。
そう確信しているからこそ、新一はこの場で待ち続けているのだ。
泥棒に興味ない。
それは、現在も変わらない。
なのに新一は請われもしないのに、こんな所でKIDを待っている。
何故自分がこんな所に居なければならないのか、自分の心が分からなくて気分は最悪だった。
暗号の謎を解いたら自分の仕事はそれで終わりだというのに─────。
苛つく原因が見えなくて、余計に苛ついて、忌々しげに舌打ちする。
風が今までにも増して大きく彼の髪を巻き上げた。
その時だった。
薄闇を切り裂くように白い影が塔屋に舞い降りたのは。
風の音の乗って、自身の気配を完全に隠して新一の前に現れた影。
「………KID!」
緊張と興奮で、新一の胸が熱く沸き立つ。
雲の切れ間に姿を見せた三日月を背景にその白い衣装を身に纏ったレトロな怪盗が冷然とした姿で立ちつくしている。
風が二人の距離を埋めるかのように渦巻いた。
「これはご機嫌よう、名探偵」
人を食った物言いは、初めての邂逅以来変わらない。
逆光で表情はよく見えないが、きっといつもの皮肉めいた笑みを浮かべているのだろう。
声のトーンでだいたい分かる。
人の神経を逆撫でするようなその態度。
堪らない。
「今宵も貴方にお逢い出来て、光栄ですよ」
「……てめぇのそんな台詞は聞き飽きた」
無言で睨み付けていた新一の口から漏れる言葉。
KIDはあからさまに嬉しそうに笑った。
「何が可笑しい!?」
「それはもちろん─────貴方の声が聞けたので」
貴方のその姿も表情も全てが私に向けられている喜び。
そして、その麗しい声も私の為に放たれたのなら……これに勝る喜びはないでしょう?
そう言葉を繋げるKID。
どこまでも冗談としか言いようのないその台詞に新一の理性が切れかける。
何時も……何時だって、こいつは自分をからかってばかりで…。
自分は、言葉に出来ない感情を持て余し続けているのに───!!
「とっとと盗んだエメラルドを置いて帰るんだな」
押し殺した声がKIDに向かって放たれる。
「おや?らしくない台詞ですね。……私を捕らえるのではないのですか?」
KIDの問いに新一は忌々しく心の中で答えた。
捕まえられるのなら、とっくの昔に捕まえてる。
「今夜は見逃してやると言ってるんだ。オレの気の変わらない内に姿を消せ」
冷たく言い放つ声にKIDが苦笑するのが分かった。
「見逃す……ね。……しかし、私は逃げるつもりはありませんよ」
そう言いながら、ゆっくりと新一に向かって近付いてくる。
迷うことなく、まっすぐに。
そのKIDの態度に新一の頭の中が警鐘を鳴らす。
何かが危険だ。……KIDが近付く毎にその感覚は強くなっていく。
動きをとめないKIDに半ば恐怖にも似た思いで、新一は後ずさった。
「何を怯えているのです、貴方は」
「お、怯えてなんか……」
「そうですか………なら」
後退しようとする新一を制するかのようにKIDの腕が伸びる。
「逃げる事はないでしょう?」
気付いた時は、彼の腕の中に捕らわれていた。
「は、離せっ!!」
突然身動きが出来なくなって、パニックに陥りかけた新一の頬にKIDの掌が触れる。
その行動に新一はびくりと身体を強ばらせ、視線がKIDを捕らえる。
その掌の感触が、怪盗KIDらしくなく優しく触れてきたから。手袋越しに感じる熱が新一の身体に伝わる。
「キッ………ド……?」
信じられない、と言った風に目を見開いて見つめてくる新一に、KIDは小さく苦笑を漏らした。
「………オレは何時だって、お前に優しくしたいと思ってるぜ?」
頬に触れていた手をそっと首もとへと撫で下ろす。きっちりと締められているネクタイをそうとは気付かせずに解くと、シャツのボタンを外してするりとその中に滑らせる。
「ちょ……っ」
手つきがいやらしくなっているような気がして、思わず手をはね除けようと藻掻く。
しかしそれより前に、KIDは新一の口唇を求めた。
「な………んっ…」
相手の口唇が新一の息を奪うかのように口づける。
咄嗟に頭を振って逃れようとするが、KIDはしっかりと新一の顎を掴んで、ぴくりとも動かせなかった。
否応なく集中させられるそのキスに、新一は耐えきれずくぐもった声を上げる。
薄闇の中、ぼんやりと目の前に映るのは、自分の口内を犯す秀麗な男の顔……。
「は………あっ……」
巧みなキス。こんな風にキスされるのはもちろん初めてで、抵抗しようにも、何をどうすれはば良いかすら分からない。
流されまいと必死になって見開いている潤んだ瞳。
その瞳で見つめられて……それではKIDの行為に拍車がかかる結果になる事には気付かない。
「…………悪いな。────もう止まんねぇ」
名残惜しげに口唇を離し、耳朶を噛むように掠れた声で囁く。
「な………に…」
口唇が痺れているのか、うまく声を発する事の出来ない新一に更に思考を攪拌させるべく耳から首筋へと口づけを落としていく。
と同時に背中に回した手が背中から腰へと艶めかしく移動する。
「ばっ……やめっ……!」
足に力が入らなくなりつつある身体を懸命に支えようとするが、既に新一一人では無理な事で、KIDの腕がなければとっくに崩れ落ちているのは確実なのだが、新一はそれに気付かず、それでもこの状況から逃れようと、必死に手足を動かそうとした。
「無理だって」
闇雲に身体を動かそうとする新一に苦笑して、KIDが支えを解いてやると、その身体は何の抵抗もなくそのまま床に崩れ落ちる。
倒れ込む一歩手前で再び支え直し、しかしそのままゆっくりとコンクリートの床に横たえた。
「だから、無理だって言っただろ?」
面白そうにそう言うKIDに新一は相変わらずの潤んだ瞳で睨み上げた。
「……ちくしょうっ」
どうしてこんなに身体の自由が利かないのか。そんな事を考える前にKIDは先手を打つかのようにシャツのボタンを全て取り払うと、彼の滑らかな肌を撫で上げた。
「………っ!」
「我慢なんてしなくたっていい」
苦しいだろ?そう甘く囁いてくる言葉に一瞬新一の思考が溶けかける。
その甘い誘惑に屈服した方が、ずっと楽になれるはず……。
「……なあ、新一。今晩はどうして此処に居た?」
首筋から鎖骨へと、巧みに舌を這わせながらそう尋ねてくる。
「オレに逢いたかったからだろ?……新一」
「……んな訳っ」
言葉は途中で途切れた。KIDの口唇がそれ以上の言葉を紡がせる事は吉とはしなかったからだ。
「んっ……んんっ」
新一の口の中に抵抗なく入り込んでくるKIDの舌が、深く貪る。その動きに新一は無意識のうちに必死になって応え始める。
何度も角度を変えて、そのあまりに執拗な口づけに頭の中が甘い痺れに支配されて、抵抗を示していた新一の腕が、無意識のうちにKIDの首に回る。
それに気付いたKIDが、何時ものKIDらしからぬ微笑みを乗せてキスに没頭する。
(オレのコト……好きって言えよ、新一)
愛撫の手を休める事なく新一を追いつめるKID。
今や固く瞳を閉ざし、与えられる快楽にまつげを震わせている新一。
行為どころかキスすら、きっとマトモな経験などないのだろう。素直に縋ってくる新一の負担にならないように優しく、そして忘れられない程の快楽を刻み込む。
白い肌にいくつもの紅い花びら。
鮮やかに色付くそれは、いわば所有者の証。
KIDは次々と痕を残しながら心に誓う。
何人たりとも、手にしたものは離さないと─────。
三日月が、間もなく西の彼方へと姿を消さんとする時刻。
穏やかな夜風と、身体に包まれている居心地の良い暖かさに新一は瞼を開いた。
ぼんやりとした視界に、自分が今どこにいるのか咄嗟に思い出せなくて眉を寄せた。
「気付いたか?」
突然頭上から降ってきた声に顔を上げる。
その人物を見て……次第に記憶が戻ってくる。
「……………」
彼らしからぬ、不安気な表情で見下ろしてくるKID。
何時もの様にモノクルで顔は隠されているが、マントもシルクハットも着けていない。
新一はそんなKIDをぼんやりと見つめた。
ふと視線を逸らせば視界の端にシルクハットが転がっているのが見えた。軽く身じろぎして気付けば、新一の身体がマントで包み込まれている。その上にKIDが壊れ物を扱うような繊細さで新一を抱きしめているのだ。
「…………新一」
普段の皮肉まじりとは違う、労るような響きを持つKIDの声に新一の視線は再び彼を捕らえた。
その瞳を見たら、何故か全ては予測された結果のような気がした。
ここに今こうしているのも、新一の中にある感情に決して嫌悪感がないのも。
逢う前までは、あんなに苛ついていたのに、それはすっかり喪失してしまい、残ったのは彼の腕の中でまどろむ、穏やかな安堵感だけだった。
つまり……そういうコトなのか。
新一は傍にいるKIDに気付かれないように小さく微笑んだ。
「………謝んじゃねぇよ」
「え………?」
ぽつりと呟かれた言葉の意味を計りかねて、KIDは首を傾げた。
「………謝って、全てをなかったことにするんなら、オレが今すぐ監獄にブチ込んでやる」
俯いたまま、ぽつりぽつりとそう言う新一の言葉の意味を理解したKIDは、思わずぎゅっと抱きしめた。
「新一……好きだ」
「………ばぁろ」
遅ぇんだよ……言うのが。
ぶっきらぼうに言い放つ新一だが、それでもKIDは嬉しかった。
「好きだよ、新一……ずっと」
新一に促されるままにキッドは己の過去を語って聞かせた。
自分の事は何も知らないはずの新一。そんな自分を受け入れてくれた事が嬉しくて、今まで秘密にしていたことも、表の顔も裏の顔も全部。
そんなキッドに新一は少々呆れ顔で苦笑した。
「おいおい、いいのかよ。そんな事までオレにしゃべって」
オレは探偵だぜ?…そう告げる新一にキッドは笑って見せる。
「いいんだよ。……裏切られたら、オレはそれまでの男だってコトだから」
いや、もう十分満足している。
だから、新一の口から警察に真実が漏らされたって後悔はしない。
これくらいの覚悟がなければ、東の名探偵工藤新一を手に入れる資格などないと。
「『パンドラ』か……」
新一は呟く。
怪盗KIDの目的は、たった一つの『命の石』。
「あ…そうだ」
「何だ?」
「お前が盗んだエメラルド……パンドラじゃなければ返せよ」
「エメラルド?………ああ、これか?」
キッドは内ポケットから取り出した。
しっとりとしたオリーブ・グリーンの宝石。
キッドの手の中のそれは、夜の暗闇の中でも妖しい緑の光を放っている。
ふと、新一は妙な違和感に捕らわれた。
「あれ……?」
頭の中で何かが引っかかる。新一はキッドの手の中にある宝石に手を伸ばした。
ビックジュエルにしては少々小振りではあるが、それだけではない。
「これって………」
何か違わないか?
そう聞かれたキッドは少し面白そうに微笑んだ。
「新一、この宝石の名前……覚えているか?」
「名前……?ああ。確か、イブニング・エメラルドとか言ったよな」
「そう」
「でも……」
オリーブ・グリーンの光を放つ宝石。
「これって、エメラルドか?」
高価なエメラルドならばもっと緑色で…しかも宝石独特のエメラルドカットが普通だ。
この宝石は、非常に脆い。角に軽くぶつけただけでも欠けたりする、非常にデリケートな宝石。だから、カッティング泣かせの代表格で。
なのにこれは、綺麗な楕円形…。
「新一、『イブニング・エメラルド』って言うのはな、フォルス・ネームなんだよ」
「フォルス……?何だ、それは」
聞いたことのない単語に首をひねる。そんな新一にキッドは微笑む。
「フォルス・ネーム……そのまま直訳で良いんだよ」
「じゃあ、…『偽りの、名前』?」
新一の答えにキッドは頷いた。
つまりエメラルドの名をつけられてはいるが、エメラルドにあらず。
しかし、偽物と呼ぶにはあまりにも可哀相でもある。この宝石(いし)にもちゃんと名前はあるのだから。
ただ、エメラルドと名付けた方が響きも良いし、高価そうにも見える。
安価な宝石をその響きだけで高価な宝石のように見せかけて購入意欲を持たせる、宝石業者が勝手に名付けた名前なのだ。
「この宝石の本当の名は、ペリドット。暗闇を吹き払い、知恵と分別を与えてくれる宝石として、古代エジプト人はこの宝石を愛用したくらい、歴史のある宝石なんだぜ」
キリスト教では「黙示録」に登場している。
聖都エルサレムの城壁の土台に飾られた12の宝石の1つで、誕生石はこの12の石をもとに決められた事もあり、ペリドットは8月の誕生石にもなっている。
決して値段の高い石ではないが、由緒正しく歴史のある宝石なのだ。
「お前って…結構物知り」
「そりゃ……一応『仕事』に関する知識だからさ」
少し、小馬鹿にされたような物言いの新一に不機嫌な声で言い返す。
「にしてもさ……何であの博物館では、わざわざ『イブニング・エメラルド』なんて、ややこしい名前で公開してんだろ」
「そりゃ……ペリドットよりはエメラルドの方が価値ある宝石に聞こえるからだろ?これだって、正真正銘の宝石でさ、しかもこれだけの大きさなら、それほど安くはないはずなのに、わざわざあんなフォルス・ネームで客を呼びやがって…」
忌々しげに吐き捨てるキッドに新一は眉を上げた。
もしかして……。
「この宝石狙ったの、それが原因なのか?」
ビックジュエルと言うには少々小振りかなとは思ってはいたが…。
「そーだよ。……そりゃあ、別に騙している訳じゃないけど、博物館に展示するくらいならちゃんと正式名称で展示しろ、って」
「言いたかった訳だ」
新一は笑った。キッドの素顔が垣間見えたような気がして、何だか気持ちがずっと近付いた様な気がした。
そしてつい、からかい半分にこんな言葉が新一の口から零れる。
「そんなに知識が豊富ならさ…いっその事、宝石商にでもなったらどうだ?」
「宝石商?」
「そう。宝石に精通しているのなら、十分可能だろ?……それに、そういう世界の人間になれば、今までよりずっと……」
情報が入ってくる。
それは即ち、『パンドラ』を探し出すのに有利なのではないか。
冗談めいた新一の台詞。本人も本気で言った訳ではもちろんなかったが……。
「それは…………イケるかも」
「え?」
キッドの呟きは新一の耳には届かなかった。
数週間後。
一枚の葉書が新一の元に届けられた。
白を基調とした美しい装丁のそれには一言、こう書かれていた。
『Jewelry shop 4968 OPEN!!』