ここは、人通りの少ない細い路地。
この奥には小さな宝石店が一軒。
本日も営業中。
『Jewelry shop 4968』
貴石
「お客様のご予算でしたら、こちらのグレードはいかがでしようか」
柔らかく流暢な声が店内に響く。
白いスーツに身を包んだ店主がずらりと並んだダイヤの裸石の内の一つを指さす。小首を傾げる年若い女性客にスーツと同様の純白の手袋をはめた指が繊細に動き、その目的のダイヤを取り出す。
「こちらは0.30カラット。カラーはF、これ以下のランクはお勧め出来ませんね。クラリティーVS1というのが、少々気になりますが、0.30カラットでこのお値段となりますとこれが限界ですね。もちろん、カットはエクセレントですよ」
デイライトの下で輝く裸石(ルース)を食い入るように見つめる客に店主はうっとりするような甘い声で囁きかける。
「如何でしょうか?純プラチナ台にこのダイヤを組み合わせれば、立派なエンゲージリングになりますよ……」
新一は、少し離れた所で二人のやりとりを聞くこともなく聞いていた。
路地の奥の小さな小さな宝石店。
こんな誰もやって来ないような場所に店を構えて客が入るのだろうかと人事ながら多少は心配していた新一だったが、それは杞憂に終わった。
もちろん、繁盛しているとは言い難いが、ぽつりぽつりと来る客に快斗は自慢の営業スマイルで口説き落として買わせていく(ように新一には見えた)
この業界、大概の客は女性だ。
気障な台詞で甘い言葉と讃辞を吐けばどんな客でも、躊躇う事なく購入する。
こんな宝石店で客相手にするより、ホストでもしていた方がかなり稼げるのではないかと内心考えながら、手元に積み上げられた推理小説の山から一冊引き寄せて頁を開いた。
快斗が接客している間、この場所で本を読むのが日課となって早数週間。
気が付けば、暇な時はこの場所で時間を過ごすのが日常となってしまっていた。
この店は、何故かとても居心地が良い。自分の家よりもこっちの方がくつろげるなんて、少し信じられない気もするが、事実だから仕様がない。
もちろん、この店内の内装その他は快斗が新一の為にあつらえた空間であるのは、本人には知らぬ事。
「放っておいて悪かったな、新一」
客が切れたのか、椅子の背ごと抱きしめるように手腕を回してきた快斗。
「別に……」
新一は内心の驚きを微塵も見せずに淡々と頁を捲って見せた。
「拗ねるなよ」
「……何で、オレが拗ねなきゃならないんだ?」
至って冷静に言葉を吐く新一の頬に掠めるようなキスをする。
「だってさ………そんな鷹揚のない声は、自分の気持ち、押し殺している証拠だろ?」
嬉しそうに言う快斗に新一はあからさまにうんざりしてみせる。
「客……帰ったのか?」
「当たり前だろ。………でなきゃ、こんなコトしねーよ」
くいと顔を自分の方に向かせ、その形の良い口唇を奪ってみせる。
「ちょ………んっ……」
抗議の声は言葉になることなく消えて、快斗は思うままに新一の口唇を味わった。
「かい……とっ……苦し……っ!」
無理な体勢で貪られて、手の中にあった本が床へと滑り落ちる。
新一の抗議の声も聞こえぬふりしてより深く重ねる快斗だったが、思いっきり頭を叩かれ、ようやく渋々と言った体で名残惜しげに口唇を離した。
「……ったく、油断も隙もありゃしねぇ」
無理に捻らされた首をくきくきと回して悪態を吐く新一だが、その目元がほんのりと朱に染まっているのを確認した快斗は満足そうに微笑んだ。
「営業中にやる事じゃなかったかな」
「たりめぇだろ」
紅く濡れた口唇が、ぶっきらぼうに言葉を紡いだ。
「で?さっきのお客さんには、ちゃんと買ってもらえたのか?」
「当たり前だろ?……オレが勧めて買わない客なんていやしないよ」
当然、と言った表情で快斗は答えた。
「しかし何だな。婚約指輪にするのに、高々0.3カラットのダイヤしか買えないなんて、最近の男って甲斐性ないよなぁ」
嘆かわしい、とため息をついた快斗だったが、新一はその手の感覚はよく分からない。
「……普通じゃないのか?」
「まぁ、予算が30万じゃあ仕様がないよな」
30万でもなかなかの掘り出し物を勧めたつもりだけどな、と言う快斗に新一は小さく頷く。
「そうだな……。婚約指輪は給料の3ヶ月分って良く言われるよな」
確かにそれを考えれば、一生の記念に30万は安すぎるかも、と呟く新一に快斗は首を振った。
「それは、間違い。金額はともかく、今も昔の石のグレードは変わらないよ」
価値が下がった……と言ってしまって良いものかどうかは分からないが、例えば昔60万で購入したダイヤのグレードは、現在なら20万前後で買える。
「昔の人の給料3ヶ月分がいくらくらいを指していたのかは知らないけど、それくらいの金を出さなきゃ、良いダイヤは手に入らなかったんだ」
それでもやはり、本当に価値あるものを手に入れようと思ったら、最低でも1カラットの重さは必要。
カラーもクラリティーも上級。
カットは絶対最上級は外せない。
「カットは人の手によるものだからさ。腕の良い職人の手にかかれば、わずかなキズのついたダイヤモンドでも気にならなくなる。やっぱり最終的には、理想的なプロポーションにカットされて、なおかつ完璧に研磨されているかに尽きる」
宝石は、僅かなキズでも価値は下がる。
「宝石の種類によってはキズつきやすい脆い性質のものもあれば、人間の手の汗で艶を無くすものだってあるからな。最高の硬度を誇るダイヤだって、同じダイヤ同士がぶつかれば当然キズがつくし、ついた時点で、1ランクから2ランクはグレードが下がる。……総じて扱いにくいものだからな」
「そう言えば、工業系の切断する際に使われているのは工業用ダイヤだって言うな」
カラットあたりのダイヤが装飾品なら50万円。工業用なら100円。しかし、当然ながら硬度は変わらない。元は同じ。
「何だよな。……結局、見栄えの善し悪しで価値が決まる良い見本みたいだよな」
美しさの価値をイマイチ認識しきれない新一にとって、表面だけで全てを決するような事には納得しかねるように呟いた。
そんな新一に快斗は嬉しそうに頷く。
「新一は、中身も外も最上級だからさ、言うことなし」
「……またバカな事を」
ため息の新一に快斗の腕が伸びる。
「真実、だぜ?新一」
肩を抱き、さりげなく引き寄せる。
新一はそんな快斗の行動にもう一度ため息をつくと、そのまま身を任せた。
「さて、今日はそろそろ店じまいとするかな」
「……まだ、夕方にもなってないじゃないか」
「いいんだよ」
こうして、二人きりの午後を静かに過ごすのも悪くないし。
「夜になったら夕食を食べに行こう。おいしいイタリアンの店を見つけたんだ」
「………しゃーねーな」
そう呟いた新一の声がまんざらでもない風であることを読みとって、快斗は満足気に微笑んだ。