Infinity 3





もう、その刻は二度とやって来ない。





初めて、逢えなかった週末。
もしかしたらの危惧が現実となった週末。

キッドは彼の来ない廃ビルで、一晩中ぼんやりと時を過ごした。
……次の週も、また次の週も。


新一はキッドの正体は知らないが、キッドは彼の事を知っている。
彼がやって来ないその理由が判らなくて、ある日彼の姿を盗み見た。

学校の帰り道。新一は、彼の持つ記憶のままの姿で、元気そうに微笑っていた。
幼なじみと交わす会話は、キッド……快斗の耳には届かない。しかし、他愛のないものなのだろう、彼女の歩調に合わせゆっくりと歩きながら、話しかけていた。

心配していたカゼは全快したようだった。体調の不調など微塵も感じさせずに、二人は快斗の近くを通り過ぎた。

ふわりと、新一の前髪が北風に揺れて、ほんの少し寒そうに柳眉を寄せたあどけない仕種が、快斗の瞳の中に焼き付いた。
……相変わらず美しく綺麗で、快斗の心を捕らえて離さない。


彼を見る度に、何度でもこの恋を実感させられる。

新一の方もキッドに対して満更でもなかったはずだ。
想いを口にした事はなかったけれど……心は等しく通じ合っていたはず。
なのに。


どうして彼は逢いに来なくなったのだろう……。


何か、彼の気に障る様なことしただろうか。……考えてみても、何も思い当たらなかった。

もしかしたら、己の立場に気付いたのかも知れない。
探偵が怪盗と人目を忍ぶような逢瀬を繰り返していた事実の不自然さに。
……でも、今頃になって……?

快斗は、頭を抱え込むとその場に座り込んだ。


逢いたい。
逢って、自分を見つめて欲しい。あの深く澄んだ蒼い瞳で……。
声が聞きたい。
あの透き通った艶のある声で名前を呼んで欲しい。
それが偽りの名前でも構わないから……。


冬の到来を告げる風は日増しに冷たくなって、快斗の身体の体温を奪うかのような強さで吹き付けた。
凍えてしまうかも知れない。……身体も心も。




しかし、暫くして……快斗は小さく笑った。




これで、良かったのだ。
快斗……KIDにはやり遂げなければならない事があったはず。
その為に大切な人たちを欺いて、今を生きている。
そんな自分に新一を想う資格なんて、元々砂粒ほどもありはしないのだ。

最初からそんな夢のような事、考えてはいけなかった。
自分を戒めていた、初めの頃を思い出す。

彼に心を奪われてはならない。しかし、それは無理な相談だった。
彼はその存在だけで人を惹き付ける力がある。

月の光だけが下界を照らす中に、凛と佇むその姿を目の当たりにした時、彼は全てを捕らえられ、抗う事は許さない。
月の光の粒を浴びて、気品高く開いた大輪の華のようなその姿を見た瞬間、月下の奇術師と謳われる怪盗KIDでさえ、彼には敵わないと感じた。


だから、心奪われてしまうのは仕方の無い事。
だけど……だからこそ、これ以上求めてはならないのだ。

己は彼には相応しくない。
罪を重ね続け、その行為を止める事の出来ない『KID』など、これ以上彼に相応しくない相手はないだろう。


だから彼の為に、自分の為に、これで良かったのだと思わなければ。


頭の中で必死にそう言い聞かせて、快斗は立ち上がった。
心の奥が耐えられないと言うように悲鳴を上げていたが、それに気付かない振りして、軽く頭を振った。

自分の前でなくてもいい。彼がこの先ずっと微笑んでいてくれれば良いと思った。幸せであり続けてくれれば良いと思った。
忘れることなんて一生出来ないけれど、愛しさも切なさも、何時かもっと別の……柔らかな暖かい気持ちに変わっていく事を、快斗は心の奥で願い続けた。








それ以上、拒む事は出来なかった。





久しく姿を現さなかった怪盗が沈黙を破り警視庁に予告状を寄越したのは、師走に入ってすぐの事だった。
怪盗確保に燃える警視庁捜査2課の捜査主任である中森警部は、執念の炎を燃やし警備対策へと張り切っている。


「慌ただしいですね」
警視庁内の廊下で捜査一課の警部と歩いていた新一は訊ねる風もなくそう呟いた。
「ああ……久しぶりに怪盗KIDが予告状を送り付けてきたようだ。……我々の管轄ではないがね」
目暮警部の言葉に、新一の心臓は一瞬凍った。

だが、すぐにそれは溶けて、いつもの新一に戻る。

密室での殺人事件の解明にかり出された新一にとって、同じ警察のそれであっても、彼が関わる事件ではない。
元々捜査2課の人間とは折り合いの良くない新一だった。無理に首を突っ込む事もないし……何より、あそこには新一以外の探偵が居る。
だから、彼の口出しする機会などない。

歩き慣れた廊下から一課に足を踏み入れて、今回の事件の概要の説明を受ける。
しかし、真剣に聞き入っている新一の胸の内は、何処か曖昧だった。



引きずられまいと強く念じてみても、胸の奥に真っ白い姿が浮かんでくる。
思い出そうなんて露ほども思っていないのに、意志に反して鮮やかに姿を現すそれを、新一は懸命に押さえ込もうとした。

「どうかしたかね、工藤君」
普段とは違う雰囲気を感じ取ったのか、怪訝な声で目暮警部が声を掛けてくる。

「いいえ……何でもありません」
書類から顔を上げて、微笑ってみせる。目暮警部はそれ以上の言及を避けたが、納得行かないような表情をして見せた。
「本当に何でもありません」と、もう一度答えると、事件の矛盾点を次々に挙げていく。


粗方の助言をし終えると、新一は出されていたコーヒーに口を付けた。
紙コップの中のコーヒーは既に冷めていたが、喉を潤す為だけならばそれで充分だった。
目暮警部は部下に指示を出して、新一に礼を言ってから言葉を続けた。

「……気になるんじゃないのかね?」
意味深な言葉に首を傾げる新一に目暮警部は言う。
「『怪盗KID』の件だよ」
KIDの予告状が届けられた報を聞いた時の新一の様子を、警部は見逃さなかったのだ。

そんな目暮の言葉に対して、新一の声は冷静だった。
軽く首を振り、何でもないというようにそれを否定する。

「ボクの専門は主に殺人事件です。……泥棒には興味がありません」
「しかし、……ほら、以前君に言われてヘリを出した時……そう、時計塔の事件の時は何かと張り切っていたじゃないかね」
数年前の話、……新一とKIDの最初のニアミスの話を持ち出した目暮に新一の表情がけぶる。

あの頃の自分には、名前も知らない怪盗など、取るに足らない存在だった。

そして現在も……そう思いたかった。


「……いくつも事件を抱えられるほど、ボクのキャパは大きくはありませんよ」
一課の事件だけで手一杯ですよ、と言って新一は立ち上がった。
もう、これ以上此処に長居する必要はない。
つられて立ち上がる目暮が家まで送らせると申し出てくれだが、それをやんわり断ると一課を後にした。

一人になりたかった。……一人になると考えたくないことを思い出してしまいそうになるが、それでも一人になりたかった。
しかし、表まで送るという目暮の好意を断るのも憚って、並んで廊下を歩く。靴音が小さく響く事にすら苛立ちを感じて新一は内心溜息をついた。

その時だった。


「工藤君……!」
突然背後から呼び止められ、ギクリと歩みが止まった。

聞き覚えのある声。思い出したくないものを思い出させるその声。

「……白…馬」
隣にいる目暮に不審がられぬ様振り向いた先には、先日会ったきりの白馬探の姿があった。

あの時の事が脳裏にまざまざと蘇る。
新一は胸の奥から迫り上がってくるモノを必死の思いで押さえつけた。そして、表情を消して白馬を見つめる。

「……何の用だ」
固い、しかし鋭さに欠ける声が新一の喉元から発せられた。そんな彼の態度にも白馬は動じる事なく、向かってくる。

「お帰りですか?」
白馬の問いかけに答えたのは目暮だった。
一課での用が済んだことを知ると、新一に向き直る。
「……もし、この後予定が無ければ、手伝って頂きたい事があるのですが」
「………」
「『怪盗KID』が不遜にも警視庁に予告状を送り付けてきたことは、工藤君もご存知でしょう?……実は、その暗号でどうしても解けない一文があるんですよ」

その彼の言葉を聞いても、新一はこの事件には関わりたくはなかった。
しかし、側にいる目暮の手前、無下に断る事が出来ないのも事実だ。

「どうかね、もし時間が良ければ彼を手伝ってみては……」
新一の嗜好を心得た目暮がそう口添えをしてくる。
確かに謎や暗号といったモノが好きな新一にとって『怪盗KIDの予告状』は魅力的なものには違いなかった。

しかし……もう関わりたくなかった。KIDにも、目の前の白馬にも。


断る言葉も言えずに躊躇する新一の腕を白馬がとる。
「ほんの少しの時間で結構です。せめて、予告状だけでも目を通して頂けませんか?」
……まるで、先日の事などなかったかのような、新一が知っているいつもの白馬の態度に戸惑う。

だが、「私からも頼むよ、工藤君」と、目暮にまでそう言われ、これ以上躊躇する事は出来なかった。
白馬は目暮に向かって軽く一礼すると、新一を目の前の会議室へと引っ張っていく。

新一は、成すがままに連れて行かれるしかなかった。




会議室に入ると、そこには誰一人居なかった。しかし、室内の空気がほんの少し前まで此処に複数の人間が居た事を新一に教えた。
空調完備されていても、煙草の匂いが鼻につく。
白馬は安物のパイプ椅子を引くと腰を降ろす。新一はその様子を無表情に眺めていた。

椅子を勧める白馬を無視して新一は冷たく言い放った。
「今更一体、何の用だ」
「ボクが言ったこと、聴いてなかったのですか?」
「暗号が難しくて解けない?……バカにすんな。例えそれが事実であったとしても、おめーがそんな弱音を堂々と目暮警部の前でなんか言うものか!」
その言葉に白馬は満足げに頷いた。

「そうですね。もちろん暗号は解読済みです」
「なら……!」
「彼が狙う宝石も、予告日時も全て解りました。後は、警察の動き方次第です」
白馬は立ち上がる。
「……けれど、問題はその『警察の動き』です。兼ねてから、捜査主任である中森警部の敷く警備及び追跡体制には些か穴がありすぎると感じてきました。……工藤君も、そうは思いませんか?」
「……そんなこと……当の本人に言ってやりゃあいいじゃねーか」
「言って聞き入れるような人なら、とっくに変わってますよ、彼は」
苦笑しつつ答える白馬に新一も内心頷いた。確かに、数少ない関わりしか持たない新一にとっても彼への評価はそうだった。
仕事熱心だが、頑固。
本気で怪盗確保に執念を燃やしているのにも関わらず、その性格故か、取り逃がす事数えきれず。
決して無能な人物ではないのだ。……でなければ、何年もKID専属で追い続けられるはずがない。

無言に聞き続ける新一に白馬は肯定の意をくみ取って、話を続けた。

「彼にあれこれ指図したとしても、ボクの思い描くように動いてくれた事はありませんし、もうそんな事に労力を費やすにもくたびれました。……そこで、少しやり方を変えようと思いまして」
無言でその先を促す新一に白馬は微笑んだ。
「申し訳ありませんが、中森警部以下2課の方々はこの際無視させて頂いて、今回はボクの独断で行動する事にしました。警察の顔を立てつつ、協力するにも限界がありますし……それに、ボクにはもう時間がない」
「……」
「来年早々にもイギリスに戻らなければならなくなったのですよ。……解決してたはずの事件が妙な方向に再び動き出したものですから」
「……だから、それがオレとどう関係があるんだ」
話の先が読めず、苛ついた声で言い放った。
「単刀直入に言いますが、……KID確保に協力して頂けませんか?」
「……えっ?」
「ボクも出来れば一人でヤツを追い詰めたいというのが本音ですが、生憎ボクには時間がない。今回の件を逃せば、暫くはヤツを捕らえる機会がなくなるでしょう。───ボクにとって、これが最後のチャンスになるかもしれないのです」
突然のその申し出に、新一は言葉を詰まらせた。
「正直、一人でヤツを捕らえることが出来るなんて自惚れは、とうの昔に消えました。だけど工藤君、……君となら、勝算はある」
「勝手な事を言われても困る」
「君は、KIDには興味ありませんか?……殺人も窃盗も犯罪には違いはありませんよ」
「犯罪の一つ一つに構っていられない。───そんな泥棒の事……オレは、知らない」
最後の言葉は声にならなかった。白馬が怪訝な表情で目を眇めた。
しかし新一はくるりと向きを返ると、相手の言葉を待たずに会議室を出ようとした。扉のノブに手を掛ける。

「工藤君!」
思わず身体が動いて、白馬の手が新一の腕を掴んだ。

「───っ、触んな!」
腕を振り上げて、強く拒絶する新一に白馬の顔が僅かに曇る。

「……済みません」
一歩引き、素直に謝られて、新一は些か過敏に反応した自分にほんの少しだけ後悔した。
しかし、新一にとってあの時から白馬に対する気持ちは変わってしまったのだ。
相手はそれを知るべきだと、そう思った。

こんな風に話しかけてくるなんて、もう止めて欲しかった。

白馬はそんな新一の心情を理解したのか、もう一度謝った。
「工藤君……この前の事も併せて謝ります。……ですから、今回だけはボクに力を貸して下さい」
「……謝るって……何をどう謝るっていうんだよ」
「あの時のボクの行動は軽率過ぎました。その事に関しては謝ります」
そう言って、頭を下げられても……新一にはあの時の事を許せるはずかなかった。

「工藤君。ボクは君に好意を抱いてる。これだけは、どれだけ君に文句を言われても変える事は出来ない。ボクは相手に嫌われてそれで好きになる事をあっさり止められる程ドライな人間じゃない。……けど、君が厭がるのなら、今後一切あのような真似はしない。……誓います」

「だけど……お前、言ったじゃねぇか」

「諦めない」そう彼は新一に言ったのだ。
あの時の言葉には、何が何でも手に入れようとする強引な感情が込められているようで、新一は身震いした。

「諦めたくはありません。……だから、貴方を想うだけは許して欲しい」
「……想う……だけ」
新一の呟くに白馬は頷く。
「ボクは……少し焦っていたんです。あの時には既に来年早々には渡英する事が決まっていて、暫くは日本に戻れないのは目に見えてました。そんな時に貴方が伏せっている事を聞いて、いてもたってもいられなくなった」

二人の関係は、精々警視庁で顔を合わせる程度だった。
友人、と称するには私的な会話をすることも少なく、もっぱら話す事といえば、互いが抱えている事件の事が大半だった。

別にそれでも構わない、と言い切る程、この胸の内は冷めてはいなかったが、彼とこうしてたまにでも一緒に居てくれるのなら……それでも良かった。

だけど……。


「ボクは、貴方の居る日本を離れ難く感じていたんです。……英国(向こう)の方がボクにとっては過ごしやすく居心地が良い場所のはずなのに、貴方と会ってから、日本(此処)が一番になった」
だから、離れたくなかった。
焦っていた。
新一に自分の気持ちを知って欲しかった。
そして、出来れば……彼にも英国に来て貰いたかった。

そんな夢のような、相手の心を無視した幻想を抱いてしまった。


白馬にとって、日本で最も気になるのは二つ。
一つは新一への想い。
もう一つは、怪盗KIDへの執念。


人の気持ちは変えられない。白馬の新一に対する気持ちは変えられないし、新一の気持ちを変えることだって、白馬には不可能なのだ。
なら、せめてもう一つの心残りだけは排除しておきたいと思ったのは、いけない事だろうか。


「これが最初で最後です。……ですからどうかボクに力を貸して下さい」


その真摯な言葉に、新一はそれでも否と答えることは出来なかった。








彼は、只の泥棒だから……。





白馬は、見取り図をテーブルに広げた。
「今回のKIDの標的は、先日ヨーロッパから来日したばかりの極上の粒のエメラルドです」
美術館で毎回行われる宝飾展の為にわざわざ取り寄せた目玉的な宝石だった。

「この美術館の館内及びその周辺は、中森警部の指示で警官隊が警備します」
白馬の指が主に配置される場所を一つ一つ押さえていく。その指の動きを新一は黙って追う。
一通り館内の説明を終えると、次に周辺地図を取り出す。

「KIDの逃走経路をいくつか考えてみたんですけど、今回の件ではどうしても一つに絞り込めないんです」
警察の動きを攪乱するためのルートが一つ。……これは、警察に任せれば良い。
問題は、その後、KIDが逃走するルートだ。

「これまでの彼の行動を分析すると、逃走するに打ってつけのルートが2ヶ所存在します。……無理に絞り込めない事もないのですが、相手もボクの行動は熟知しているはずですから、裏をかかれるかも知れない」
白馬の指先が地図の一点を指した。
「此処が、彼が逃走する際、中継する地点。ボクが最も危惧する場所です。……そして」
次に、彼の指が押さえていた場所とは正反対の方向へと向かう。

「問題の場所は此処です。……今回、彼が逃走するに此処も大変都合の良いルートです。……如何ですか?」
訊ねてくる白馬に、新一は小さく頷いた。
「……だな」

「恐らく、ボクが動かなければ、最初示したルートを使うはずです。……その方が彼にも都合が良いはずだ」
「……その根拠は?」
「色々調べた結果です。データを分析すると、逃走方向に若干の規則性が浮かんでくるんです」

その時、白馬は一瞬何かを言いたげな表情を見せたが、押し黙った。
その様子の変化に新一は気付かないふりをした。


「……それで、オレは一体何をすればいいんだ?」









月が雲に隠れる。
途端に空は輝きを失う。しかし、目を凝らせば小さく星たちが瞬いているのが見える。
凍ったような冷たい風。
新一は、突然吹いたその風に思わず身を竦めた。

日に日に空気は冷えていく。きん、と張りつめた鋭さを持つ冬の寒さは決して嫌いではない。しかしこの身は少しだけ、暖かい場所を求めているように感じた。

心が温まる場所なんて……もう、何処を捜しても見つからないのに。


新一は静かに自嘲した。
最初から、始められる恋ではなかった。進むことの出来ない恋だった。
だけど……そんな児戯のようなものでも、心はふんわり温かくて優しくて────切なくて愛しかった。

新一は我が身を抱きしめると再び空を見上げた。
今夜……怪盗KIDは、美術館からビックジュエルを盗み出すと言う。

二つに分けられたルート。その最も可能性を高いルートには、白馬が赴いた。
新一の居るこの場所は、保険のようなものだ。あの泥棒が白馬の推理の裏をかくかも知れない。彼はそう危惧していたが、その事に新一は納得はしていなかった。

何故、白馬はそう思ったのだろう。
新一も最初は、彼がKIDとの数知れない対決の中で分析した結果がそうなのだろうと思った。
しかし、彼の犯行は華麗且つ鮮やか、そして大胆で、優雅に彼等を翻弄してみせる。

その短い邂逅の中で、KIDが「白馬探偵」をどれだけ理解出来るだろう。
彼の性格や行動その他のデータを収集したとしても、それだけで彼を理解し得るだろうか。

ふいに……白馬とKIDの間に何か、自分の知らない関わりがあるのではないかという思いが、新一の脳裏を掠めた。

しかし、それを新一は頭を振ってすぐに否定した。


コートの裾がパタパタとはためく。新一はポケットに手を突っ込んで、その中にあるモノを確認した。
白馬から手渡されたモノ。それは、小さな追跡装置だった。

二人は探偵で、犯人を逮捕する権利はあれども、警察に対する手前、あくまで協力するのが立前だ。
彼等の領域を不遜に侵す事は、この先関係を円滑に保つ為には、決して行ってはならない。

それを踏まえた上での「追跡」なのだろう。


確かに、KIDのアジトが判明すれば、事態は一気に解決へと向かう。
そうすれば、世紀を跨いた正体不明の大怪盗は、白日の下に晒されるだろう。


─────捕まってしまえばいい。新一は思う。
それと同時に捕まって欲しくないとも思った。
混在する思いと混乱する想い。

考えるだけでこうも心を乱されてしまうその人物に、新一はどうしようもなく溜息をついた。
これ以上自分をかき乱して欲しくないと願う。

彼を待ち、この寒空の下で佇む自分を忘れてそう思った。
こちらには来なければ良い。………全て白馬の杞憂に終わって欲しかった。


僅かな光が新一の横顔を照らした。
月が、雲の隙間から再び顔を出したのだ。


その光に照らされて、新一は小さく首を振った。



嘘吐きな自分に、新一は心の中で自嘲った。


来なければいいなんて、嘘。
姿を現さなければ良いなんて、……全部嘘。


本当は逢いたいくせに。せめて、その姿なりとも見たいくせに。
一瞬でも良い。……彼が存在しているのが分かるだけでも良いから、来て欲しい。

姿を現したら現したで、戸惑うのは新一の方だろうに。
こんな所でこんな風に逢って、困るのはお互いさまなのに。

逢わない方が、お互いの為。
新一がした決心を自らが打ち崩そうとしている行為に気付いている上でそう思った。

滑稽すぎる。

強く求められた事を言い訳にして、新一はこの場所に居るのだ。
二度と逢わないとそう誓ったはずなのに、白馬の要請を最後まで突っぱねることが出来なかったのは、彼を信用したからじゃない。

ただ、KIDに逢う理由を欲していただけ……。

分かっていた。……そんな事、最初から分かっていた。だけど、それでも自分に言い訳をせずにはいられなかった。
女々しすぎる自分は承知している。都合の良い考え方だって事も分かっている。

それでも止められない自分が苦しかった。

人を好きになるとは、こんなにも辛く苦しい事なのだろうか。
ふいに、白馬の言葉が思い出された。

─────相手に嫌われてそれで好きになる事をあっさり止められる程ドライな人間じゃない。

彼はそう言って自らの気持ちを述べた。
そうなのだ。
嫌われることを恐れて関わりを絶った新一だが、それで彼への想いを消去してしまうことなんて出来るはずはない。

求めてしまう。心が何度でも、彼を。
敵だとか犯罪者とか、相手は同性だとか……そんな事で一度好きになった事を覆す程、人間は単純ではない。想いが深ければ深いほどそれは不可能に近くなる。


新一は視線を腕時計に移した。
時刻は、予告時間まであと数分と迫っていた。途端に心臓が大きく跳ねたような気がして、慌てて視線を目地の入った床に向ける。
新一以外、誰もいないこの場所で、まるで自分自身にも言い訳しているような態度に呆れてしまう。

新一は目を閉じると、壁にもたれ掛かった。
このまま何事もなく時間が過ぎてしまえばいい。
そうなれば、きっと自分は失望するだろうが、その方が良いだろう。

逢って……この胸の内を深く知られるのは嫌だ。……知ってしまった相手が自分を軽蔑する姿を見るのは辛すぎる。

時間は刻々と流れていく。時は何時だって一定の長さで刻んでいくのに、新一にとってこの数分が堪らなく長く感じられた。

時計の針が予告時間を指し示し、そして過ぎていく。
此処からは美術館の喧噪は聞こえない。周囲はきっと警官隊とギャラリーがひしめいているだろうとの予想は容易に出来たが、此処は驚くほど静かで、新一が身動きしなければ風の音しか聞こえないほどの静寂の中にあった。


新一はそこで、その短くも長い時間が過ぎ去るのを一人待ち続けた。








まさか自分の心の奥に、こんなにも醜い感情が眠っていたなんて……。





白い翼がビルの屋上に羽を休ませるように降り立った時、白馬は自分の予想が的中した事を確信した。
怪盗KIDは翼を瞬時に収めると、涼しげな表情で天空を仰いだ。
それから徐に胸ポケットから今夜の戦利品を取り出すと……それを月に翳す。
深い緑の透き通る宝石が月光に反射してキラキラと瞬いた。彼のモノクルも鈍く反射する。

その一瞬の静寂の後、KIDは顔を伏せ……その宝石を握りしめた。
小さな溜息は白馬の元には届かなかったが、彼にも明らかに落胆の色を見て取った。

「………何時まで、そんな所に居るのです?」
突然KIDは背後に声をかけた。
「女性に見つめられるのならまだしも、貴方の様な人に見つめられても、少しも嬉しくありませんよ」

あからさまな溜息と共に振り返る。その僅か数メートル先に白馬は居た。
「───怪盗KID」
「はい、何でしょう?」
純白のマントがひらりと舞って、小馬鹿にしたような声で訊いてくる。その態度に白馬の眉間が僅かに寄る。

その僅かな対応に、何処か不自然な空気を感じた。
何となく、様子がおかしい気がする。
漠然と白馬はそう思ったが、表情に出すことなく、にやりと笑った。

「相変わらず……鮮やかな盗みだったようですね」
一歩ずつ、KIDに近付いていく。
「あの警備体制で私が手こずるとでも?………冗談もほどほどにして頂きたいですね」
大仰に首を竦めてみせる。
そんなKIDを忌々しげに見つめつつも、白馬は怪盗との距離を縮めていく。
「いい加減に貴方の活躍が続くのも飽きてきましたよ。そろそろ捕まったら如何です?」
「警察の面々はそうかも知れないが、ギャラリーはそうではないと思いますけどね」
ゆっくりと近付いてくる白馬にKIDは目を眇めつつ、それ以上の接近は許さないと言うように右腕を白馬に向かって差し出した。

その態度に思わず歩みが止まる。

「何か……企んでますか?」
KIDの問いかけに白馬は笑ってみせる。
「そうですね……そうかも知れませんよ?」
こうして、此処で相見えた好機を易々と逃す程、白馬は愚かではない。

しかし、この場で彼を捕らえる事は非常に困難である事は嫌と言うほど知らされていた。
白馬は、右手の指の間に挟み込むようにして持ち続けていた小さな装置の質感を確認する。
一円玉よりも薄く、大豆よりも小さなそれは、相手に取り付けたとしても、気付かれることはないだろう。

「それは困りますねぇ」
KIDは白馬の心情など素知らぬ振りして答えた。
「今晩は、ご挨拶に寄ったまでです。……貴方の事だから、きっと此処に網を張っているだろうと思いまして。……それに」
「……?」
「しばらくは、貴方ともお会い出来ないようなので、ね」
「……それはどういう事ですか」
「私は、私に関わりのある人物についての情報はリアルタイムに把握しているのですよ」
だから、貴方が年明けには日本から居なくなるということも知っている訳です。

KIDはそう言って笑った。
白馬は相手の事を知らない。正体を掴みかけてはいるが……彼がそうだと決め付けてしまうには、証拠はあまりにも貧弱だった。
だが、KIDは違う。彼が関わっている警察、その関係者等、正体を隠す必要のない人物達のデータを探る事は容易だろう。

白馬は、全てを知られている様な気がして、言葉に詰まる。
そんな彼の態度などKIDは別段気に留める風でもなく不遜な笑みを見せると、彼はその手の中に握りしめていた宝石を放り投げた。
白馬はそれを空中で受け止める。
「何時も返却、ゴクロウサマ」

KIDは皮肉気に笑って背を向けた。そのまま躊躇うことなく下界へとダイブする。

そのあまりにも鮮やかな動きに一瞬出遅れた白馬だったが、すぐに屋上の端に駆け寄る。
今正にハンググライダーの翼を広げようしているKIDに向かって、手の中の物を投げつけた。

真っ白な翼を広げたそれは、風を受けて優美に飛び去った。
白馬はその姿を一時見つめていたが、すぐに所持していた小型のモバイルノートを開いた。
周辺地図が瞬時に浮かび上がると、白馬はパットを操作し、現在地を確認する。

発信機が正常に作動且つ移動しているのを見て、それがあの怪盗にうまく取り付けられた事を確認する。
ディスプレイに赤く点滅するそれを満足気に追っていると、しかし、ふいに白馬の予想していたルートを外れて行くのを見て脳裏に引っかかりを感じた。

眉間を寄せて、暫く考えて──── 一つの危惧が浮かぶ。


「………まさか」
白馬は慌ててポケットから携帯電話を取り出した。







腕時計の針が無情に過ぎていくのを見て、新一は、はぁっ、と息を吐いた。
真っ白い息が冷えた空気中に浮かんで消える。
安堵と落胆が入り交じった吐息は、その何度も吐き出され……新一は、そんな自分に気付いて表情を曇らせる。

結局自分は期待していたのだ、堪らなく。

馬鹿馬鹿しいほど初(うぶ)な心だと新一は思った。
そして、自分勝手な我が侭な人間だと思った。
何でも自分の都合の良い様に動くことを期待していたのかと、己を叱咤する。

そうして自分を叱りつけてみても……やはり、心は思い通りに静まってはくれなかった。


もうどうしようも無いことだと新一が諦めかけた時だった。
突然、ポケットの中に忍ばせていた携帯電話が強く振動した。慌てて取り出して、相手を確認すると躊躇わずに出る。
『──一工藤君!?』
相手は白馬だった。
『工藤君、今何処に!?』
「何処って……お前の言われた通りにB地点の屋上に居る。────そろそろ引き上げようと思っていた所だ。………KIDは、そっちに行ったんだろ……?」
此処に現れなければ、白馬が張っていたA地点に姿を見せたはずだ。そう思い訊いてみるが、電話の向こうは慌てているようだった。
『現れる事は現れましたか、しかし……!』
「何だ、うまく行かなかったのかよ」
『────そうではなくて、工藤君!』
要領を得ない、彼らしくない会話に首を傾げる。

「だから、おめーは一体何を……」
ふいに顔が影が掛かって、新一はまた月が隠れたのかと思った。
無意識に視線が月の方向へと向けられる───と同時に人の気配を感じて、思わず辺りを見回した。


見回す迄もなかった。……彼は、目の前に居た。


「………キッ…」
持っていた携帯電話が落下し、鈍い音を立てて床の上を跳ねた。


どうして、どうして────!?
突然の事に新一の頭は混乱した。
何故、何故、此処にいる!?
どうして、ここに現れる!?
KIDは、白馬が張り込んでいた場所に行ったのではなかったのか……?


新一の混乱など、相手は気にも留めていない風だった。
何時もの、冷然とした姿で佇んでいる、人。


新一の身体が……震えた。
視線は彼に注がれたまま、びくとも動かない。否、動けない。
逸らすことが……出来ない。

逢いたくて逢いたくて、二度と逢ってはならないと誓った相手。
この心の内を知られる事を強く拒否した相手。


なのに、今の自分はどうだろう。
そんな戸惑いも躊躇いも吹き飛んで、感じる心は、制御出来ぬほどの愛しさと、まるで少女のようなときめきだった。
理性は沈黙して、身体と心が、強く彼を求めていた。
あの、週末に重ねた逢瀬の時とは明らかに違う、『怪盗KID』としての冷涼として凛とした姿。シルクハットを目深に被ったその姿は、新一からは完全に表情が隠れて見えなかった。
その姿は怪盗としてのKID。

それでも新一は感じるのだ。この五感が強く強く、彼を求めている事に。
もう、彼の姿以外に新一の目は何も映さなかった。
音も光も、この凍てつくような寒ささえ、全て消し飛んでいた。


何時も感じた、ふんわりとして優しい感情などではなく、────心の深淵に溜まっていたのは、激しい独占欲。

そんな醜い感情があることを……新一は今、気付かされた。








許されなくとも……連れ去りたかった。





馬鹿馬鹿しいほど単純な警備網に呆れるどころか怒りさえ覚えてしまう。
KIDは美術館の周囲をオペラグラスで観察しつつ、そう感じた。
意味もなくムカついた。苛ついている己の感情は止められなかった。


そして、予想通り仕事はあっさりと片が付き、KIDは冬空へと羽ばたく。警察の無能さにはもう何も言うことはない。警察はKIDをバカにしているのか、それとも警察が堕落しているのか。
盗みを犯す事、罪を重ねる事。軽い高揚感の中に身を研ぎ澄まし、決してミスをおかす事なく鮮やかに、正に芸術的ともいえる技で目的の宝石を盗み出す。
称賛の声は聞き飽きた。
本当は……そんな声なんて聞きたくない。そんな言葉は求めていない。
己は、たった一つの目的の為に世間を騒がせている……只の愉快犯に過ぎない。
ハンググライダーは風に乗って、滑るように飛行する。

胸の中にしまい込んだ宝石の重みを感じつつ、KIDは心の何処かで寂しさを感じていた。
愚かなな警察の相手をするのも、本当はその寂しさを紛らわせる為なのかも知れない。
この最近、白馬は頓にKID確保に積極的だった。理由は判っている。彼には、もう自分を追いかけていられるだけの時間的余裕が限られているのだ。
これが最後という訳ではないが、それでも今後暫くはKIDの前に顔を出すことはないだろう。

別にヤツの考えている事はお見通しだった。頭の固い彼は怪盗KID=黒羽快斗だと信じて疑わない。
……それは確かに事実なのだが、その真実を逆手に取って翻弄する事など極簡単な事だった。

だから、今白馬が何処で何をしているのか、その予想は容易につく。

当然自分はその裏をかいてやるつもりだった。何時までも、相手になってやる必要はない。……でも。

つまらなかった。スリルを味わいたい訳じゃない。そんな物ない方がきっと楽なんだろう。だけど。
寂しかった。何をしていても、心の中に小さな穴が空いていて、それはKIDの思惑など全く無視してじわじわと広がっている。
それを何かで埋めたかった。……だから、彼の思惑通りにあの場所に姿を現してやった。
それで、ほんの少しでもこの気持ちが抑えれられれば良いと思って。


予想通りにヤツは居て、相手をからかってやれば少しは気持ちが紛れるのではないかと期待して、だけど、それはあっさりと裏切られた。
白馬の姿を見た瞬間────何故だか無性に虚しくなった。

それは相手が悪いのではなくて、……KID自身の所為。
虚しさを心に押し隠して逃走を図ったのに、しっかり「何か」を取り付けられて。
ハンググライダーを広げた瞬間、手元に伝わる僅かな振動に気付けた自分を誉めてやりたい。
心ここにあらずでも、五感はしっかりと異変を告げてきた。

気のゆるみから来る失態に舌打ちしつつ、旋回し近くの着地出来る場所へと向かう。その場所は、当初使おうとしていたルートで、人気も人工的な明かりもない事はリサーチ済み。
遠回りになるそのルートに、それでも当初の予定通りだと言い聞かせて、KIDは目的のビル屋上へと静かに降り立った。


気を許していた。
誰もいないと踏んでいた。
少なくとも白馬があの場所に居た限り、此処に来られるような人間は居やしないと。


だから……その人物を見た時、KIDは都合の良いモノを見ているのだと思った。
自分が心から望んでいたモノが具現化した、幻だと思った。

……だって、そうでなければ説明は付かない。


彼は、主に一課を中心に力を発揮している探偵で、泥棒に関わる事などほとんど……あの夜の邂逅以来一度も……。

泥棒には興味なさそうな探偵。
泥棒には興味なくても、KID(自分)には興味を持って欲しいと願った探偵。

そして……突然、一方的に関わりを絶ってしまった、探偵。



しかし、突然響いた音に、KIDは目の前の幻が、現実のものである事に気付かされる。
床に落ちた乾いた音。
彼の手の中にあった携帯電話が、床に転がる音。

柔らかな髪が、この冷えた風にふわふわとあおられている。寒さにはめっぽう弱そうなその身体を思わず抱きしめたくなる。
暖かく、包み込んであけたい。そんな事、決して許されるはずがないのに、無意識の内にそう思ってしまう。


────偽れないのだ。
相手がどれだけKIDを拒否していたとしても、自分の心は偽れない。
諦めようと、これで良かったのだと思い込んでみても、心は納得なんてしていなかった。


「………キッ……ド」
新一の口唇が、己の名を形取った。言葉は声になることはなかったが、それでも自分を呼んでくれたのがKIDには判った。


たったそれだけの事なのに、KIDの心は震えていた。
新一が、自分を見つめてくれている。自分の名を呟いて……彼の全てがKIDに釘付けにさせている事実に歓喜した。

それだけでKIDの心は一杯になって、心の奥でずっと彼に問いかけていた事すらどうでも良くなる。

何故、突然自分の前から姿を消したのか。
どうして、此処に彼が居るのか。
彼は、己をどう思っていてくれているのか。

突然熱いモノが溢れてきて、何もかも無視して強引に彼を手にしたいと思った。
許すとか許されないとか、正しいとか間違っているなんて判断は全て吹き飛んで、只心が忠実に彼を欲している。

今、ここで手を伸ばさなければ、もう二度と機会はやって来ないかも知れない。
彼をつかまえなければ……二度と逢えないかも知れない。


それは、考えただけでも胸が締め付けられる痛みだった。
もう、どうなったっていい。パンドラの事も、謎の組織の事も、───もう、何も考えられなかった。


冷たい風すら、KIDの身体から吹き上げる熱を鎮める事は出来なかった。
ほとんど無意識に、身体は新一の元へと向かう。
一歩、また一歩と、ゆっくりとしかし確実に二人の間の距離を縮めていく。
新一は、そんなKIDの動きに反応する事なく、じっとその場に立ち尽くしていた。

呆然としているとも、KIDが向かってくるのを待っているとも取れるその態度に、KIDは自分の都合良い方へと解釈した。
もう、相手の気持ちなんて考えられなかった。自分の欲求を満たす為だけに……彼に触れたい。

マントが風にあおられて、軽やかな音を立てている事すら気付かずに、KIDは新一に近付いていく。
胸の鼓動が一歩進む度に大きく跳ねる。想いが膨らんで溢れてしまう。

自分が今何処にいるのかすら忘れてしまったように、目の前の愛しい人しか見えなくて、その姿が近付く度に大きくなる。

だが……。
右手を差し出せば彼に触れられる程の距離まで来た時だった。

「工藤君!」
突然飛び込んできた異質な存在に、KIDの歩みは止まった。
世界は再び刻を取り戻し、身を切る寒さがKIDを襲う。

思わず後ずさりしてしまったのはKIDらしからぬ態度だった。舌打ちするKIDを余所に、突然二人の間に介入していた人物は、新一の両肩を掴んで懐に引き込んだ。

「白馬───!?」
驚きの声を上げる新一だが、白馬は掴んだ肩から手を離す事なく、KIDを睨み付けてきた。

しかし、白馬が視線を投げるより早く、KIDの双眸は白馬に強く険しい視線をぶつけていた。

気に入らない。苛立つ。
何だ、その両手は。
気安く新一に触るんじゃねぇ!


触れたくても触れる事の出来ないKIDの目の前で、さも当然の権利とでも云わんばかりに抱き寄せる白馬に、KIDは嫉妬を露わに睨み付けた。
そして、そんな彼の態度を許している新一にも怒りを覚える。

二人は、それほどまでに近しい間柄だったのだろうか。脳裏にそんな事が一瞬過ぎったが、そんな事を考えている場合ではなかった。
咄嗟に表情を消すと、いつもの傲慢不遜な笑みを浮かべ、靡くマントをばさりと乱暴に掴んで引き寄せた。

「おやおや、これは白馬探偵。こんな所にまでお出ましで?」
掴んだマントに貼りつけられた、小さな発信機を剥がす。

「……!!」
息をのむ白馬に見せつけるように、それを指先で潰す。小さなそれは、大した抵抗もなくあっさりと壊れた。
ゴミと化したそれを、床に投げ捨てる。
「こんなモノを取り付けられて、私が素直に逃げるとでも?」
甘く見られるのにも、程がありますよ?それとも、貴方の考え方が幼稚すぎるのでしょうかね。

嘲るような物言いに白馬の表情がさっと変わる。それでも、彼は新一を離そうとはしなかった。
それが、益々KIDを不機嫌にさせる。

「これで貴方は私を追う事が出来なくなった。……さっさと返してあげた宝石を持って、持ち主の所に戻ったら如何です?」
対峙したまま、KIDは一歩ずつ、屋上の端へと移動する。後ずさりではなく、あくまでも堂々と。

「キッ……!」
そんなKIDを引き止めるように声を発したのは新一だった。白馬に肩を捕まれている彼は、身を乗り出すようにして、KIDを見つめてくる。そんな彼の態度に、思わず動きが止まる。

「工藤君!」
制する白馬の声に頭を振って、それでもKIDを見つめてくる瞳。
「離───!待っ……!!」
まるでこの身を掴もうとするかのように手を伸ばしてくる新一に、KIDの心は揺れた。

「しん……」
新一、と。口唇が震えるように彼の名を呟くが、もう、どうしようもなかった。
強引に連れ去りたい気持ちは、白馬の存在が邪魔して身動きが取れない。

ふたりの間に入り込んだ闖入者の存在が、KIDに理性と現実を思い起こさせたのだ。


KIDは黙って彼等に背を向けるしかなかった。あくまでも泥棒で犯罪者である自分が探偵と……ただの一般人に過ぎない新一との関わりに気付かれる訳にはいかなかった。
それは、KIDよりも……新一自身の為に。

背中を向けたKIDはそのまま勢い良く空中に身を躍らせた。まるで潔く飛び降りたようなその動きに、新一は白馬の制止を振り切って駆け寄った。
屋上から暗闇を見下ろせば、遙か下方で羽を広げるKIDの姿が小さく確認出来た。

無事に飛び立ったその姿に安堵したのか、そのままずるずると座り込む。

そんな新一の姿を、白馬は背後から怪訝な面もちで見つめていた。


後には、凍えるような冷たい風が月の廻りの雲を凪ぎ払い、二人に長い影を落としていた。








彼を出迎えたのは、取り壊された瓦礫の山。





結果がどうであれ、やるべき事は全てやった。
怪盗確保は夢に終わり、疲労の色濃い警察の唯一の救いは、盗られた宝石をすぐに取り戻せた事だけだった。
それだって、結局は白馬の功績ではあったが、当の本人は敢えて口には出さなかった。

結局新一は、悄然と帰途につくしかない。……もう、自分が何を求めていたのかすら分からなくなってしまっていた。
慌ただしい警察の動きに紛れるようにして抜け出そうとしていた時だった。

「工藤君」
白馬が目敏く彼を掴まえる。
「……何だ」
ぶっきらぼうに応える新一に白馬はまるで安心させるように微笑んだ。
「少しだけ、お時間を頂けませんか?お話したい事があります」


夜も遅い時間であると言うことを省いた上でも躊躇したい新一に、白馬は車で送るその車中の時間だけでもと、半ば強引に新一を車に押し込んだ。

英国超高級車の内装は、時に車の性能よりも重要視される。
後部座席のシートに身を預けた新一は、その事を思い出した。使われている皮の材質は最高級で、色も縫い目の一つ一つも申し分なかった。
ぼんやりとそんな事を考えていると、白馬が隣に乗り込んでくる。

ドアが閉まり、車は緩やかに走り出した。
本当は、白馬と一緒に居たくはなかった。あの屋上で、思わず見せた新一の態度に彼は不審を抱いている。
その事を問い質されるのはゴメンだった。しかし、彼を強く拒むことが出来ないのは何故たろう。

新一の頭の中にはその理由がちゃんとあるような気がしていたが、それが何なのか、咄嗟に出てこない。それが少しもどかしくて、軽く瞳を伏せた。

「工藤君」
そう呼ばれて、閉じていた瞼を押し上げる。
「……話って……何だ?」
下らない話なら、聞く耳は持たない。と、そう言った表情を見せる新一に、白馬はほんの少し苦笑を浮かべた。
「ボクは来週、英国へ発ちます」
「来週?」
来年ではなかったのか。
「新年は向こうで迎えようと思いまして……もう、年内は日本でする事もありませんし」
「……そ……か」
新一はそう呟くと、再びシートの背に深くもたれ掛かった。ゆっくりと瞼を閉じられようとする。

「所で、工藤君は今後の捜査には参加しないのですか?」
「……参加って……何の?」
「怪盗KIDの、です」
その言葉に、新一は一瞬息を詰まらせた。

「……そんなの、オレの管轄じゃねーし……」
「……でも、関わりはあるのでしょう?」
ボクの知らない所で、と白馬は付け加える。

思わず身を起こして、白馬の顔を見遣る新一だったが、それは直ぐにいつもの彼に戻った。
しかし、その態度は白馬に己の勘を確信に変えさせるに充分だった。

「………知らねーよ。あんな泥棒……」
一度だけ、それがKIDとは知らす、現場に赴いた事はあった。しかし、表向きに工藤新一が関わった件はそれだけで。
後は自分がコナンだった頃の出来事だけだ。……しかしそれは、白馬であっても知りようのない事実。


「でも……かなり取り乱してましたよね、貴方は」
あの場所で、月下の奇術師を前にして、常日頃の工藤新一とは明らかに違う姿を白馬は見た。
「取り乱す?……『敵』を前にして、少し熱くなっていただけだ」
素っ気なく言い繕う新一。しかし、白馬の目は誤魔化されはしない。
「そんな風にはみえませんでしたけど」
「………」
新一は暫くの間、押し黙ったままだったが、ふいに白馬を見て、また視線を戻す。
「……なら………好きなように解釈すればいい」
新一はそれだけ言うと、この話を打ち切った。顔を背け、窓の外の暗闇を見つめる。

そんな新一の態度に、白馬は大して気分を損なうわけもなく彼もそれ以上暫く何も口を開かなかった。
ほとんど揺れることのない車内で、静かな時間が流れた。

通い慣れた道を走り、車は新一の屋敷の前に静かに停車させる。
新一が手を掛ける前に運転手によってドアは開かれ、促されるようにして降りた。

白馬は何も言わなかったが、新一が振り向いて小さく礼を述べると、嬉しそうに微笑んだ。
そのまま車は来た道を静かに戻っていった。新一は暫くその後ろ姿を見送っていたか、踵を返すと門に手を掛けた。




屋敷に入って、冷えた空気を暖めるべくエアコンのスイッチを入れる。それから風呂に入るべく湯を沸かして……。

────ふいに耐えられなくなって、新一は二階へ駆け上がった。
そのまま真っ直ぐに自室に駆け込むと、クローゼットの扉を開けて、その奥を掻き分ける。

容易には手の届かない程の奥に大切にしまい込んであったそれを新一は取り出した。
真っ白くて滑らかな光沢のあるそれ……。

もう二度と触れたりしないと誓ったそれ。だけと処分する事は出来なかった彼の持ち物。
あの晩秋の夜。新一の身体を暖めてくれた彼のマント。
返さなくても良いかと訊ねた新一に、彼は最初不快を露わにし……そして新一の手元に残してくれた。
遺留品だとか、証拠物件だとか、そんなものは関係ない。新一は探偵ではあるけれど、警察の人間じゃない。

新一はそれを引き寄せて、抱きしめた。
忘れたいと願って願って。嫌われたくないから、もう二度と関わりたくないと本気で思って、……だけど結局、そんな決心は無駄だった。
忘れたいと願いながら、同時に忘れたくないと叫んでいる。
どうしてアイツとあの日出逢ってしまったのだろう。
何故、あの日に限って、泥棒なんかに好奇心をかきたてられてしまったのだろう。
今更何を言っても無駄なのに、そんな事を考える。

白いマントに顔を埋めて、新一は矛盾する己の気持ちに半ば呆れた。
こんな気持ちが辛くて辛くて、いっそ泣き叫んでしまいたいとすら思ったのに……実際口元から零れたのは笑みだった。


こんな自分が滑稽すぎて、悲しくて笑った。









あと数日もすれば、冬休みに入る。
授業らしい授業もなく、最近は早々に学校から解放される。
何の部活にも入っていない新一は、何時も真っ直ぐに帰宅する。たまに本屋に寄る事もあったが、今日は珍しく部活が休みだという幼なじみと一緒に帰り道を並んで歩いていた。

「ねぇ新一。今年のクリスマスはどうする?」
「クリスマス?」
あどけなく訊ねてくる幼なじみに、新一は小首を傾げる。

ああ、そうか。………そういう時期なんだ。

「あのね、今年は園子の家でクリスマスパーティするって言うの。新一もどうせ予定なんてないんでしょ?」
「わーるかったな。予定なんかなくて」
おどけて拗ねて見せる新一に、しかし幼なじみの表情は、すぐれない。

「そっかー、クリスマスねぇ……。ま、事件がなければ行ってもいいっかな」
「………」
「あ、そうだプレゼント!おい、おめー何か欲しいモンある?」
高価いモンは買えねーけど、何か欲しいモノがあればリクエストしろよ。
「………いち」
「やっぱ、アレかな。バックとかアクセサリーとか。おめーも年頃の女だもんな」
空手なんかやってるけどよ。

「────新一!!」
「えっ?────おい、蘭!?」
隣で歩いていた幼なじみが、新一に抱きついてきた。その突然の行動に面食らいつつも受け止めた新一は、どうしてこんな風になったのか、訳も分からす見下ろした。

「蘭………?」
「………新一……どうして」
「……何?」
彼女が何を言いたいのか見当も付かずに訊ねる。
突然往来で抱き合う二人に道行く人々が、ちらりと視線を投げかけてくるのか何とも気恥ずかしかった。
「蘭、あのな……」

「新一……ヘンだよ」
「え?」
「ずっと……ずっと前から、おかしいよ」
何を言われているのか判らなくて、新一は彼女の髪に触れた。

「何?オレの何処がおかしいんだよ」
「だって新一……何時も泣きそうな顔して笑ってる」

クラスで声を上げて笑っていても、巫山戯ていても、何処か悲しげな表情をしていた。
他の誰にも分からない程の些細な揺らぎ。それはきっと親友の園子だって気付いていない。

自分に話しかけてくる時も、笑いかけてくる時も、新一は何時だって機嫌良さそうに振る舞って。
だけど……だからこそ、判った。


「新一……スゴク無理してる。……そうでしょ?」
胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で問いかけてくる。新一は言葉に詰まった。

「私には判るよ、新一。……ずっと一緒に居たんだもの。新一が何かにぶつかって悩んでいる事くらい判るよ」
だけど、今まで色んな表情の彼を見てきたけれど、こんな泣きたくなるような表情の新一は今まで見たことがなかったし、こんなにも無理している姿を見たこともなかった。

それが益々自分を不安にさせる。
一体、何があったのか。彼をこんな苦しい思いをさせる何が……。


「蘭……。おめー、気の回しすぎ。オレは何時もとちっとも変わってねーぜ?」

毎日こうして学校にも通って、事件にも首突っ込んだりしてさ。色んな事を一杯やって、充実してる。だから……。


「新一────誰か、好きな人、居るでしょ」
「え……」
どくん、と心臓が大きく波打って、その問いに応えてきた新一に、幼なじみは自分の想像が正しいことを知った。
その事実は彼女にとって……ほんの少しだけ痛みを伴う事ではあったけど、耐えられないようなものではなかった。

身体を起こし、ゆっくりと離れると、新一も触れていた彼女の柔らかな髪から手を離した。


幼なじみは、小さく笑った。
「やっぱり、そうなんだ」
だと思った。そう言ってまた笑う。

「……ばーろ。……そんな奴、いねぇよ」
「嘘ばっかり」
「ホントにいねーよ……!」
「人を好きになるって……良いよね」
新一の反論に対して、彼女はそう言葉を返した。真っ直ぐ前を見て歩き出す。新一はそんな彼女の後ろを慌てて追いかけた。

「人を好きになれるって、それだけで幸せな事だよね。それまで感じていたものが途端に色鮮やかに映し出されて、全てが新鮮で綺麗で、胸がドキドキするの」
胸の鼓動は全て、その人の為だけに動いているような気がして、そのときめきが愛おしくて。

「人に好きになって得るものは、決して楽しいことばかりじゃないけど……だけど、大切なものばかりよ」
愛しさも切なさも、喜びも悲しみも、全てはたった一人の人から与えられるもの。その人にしか与えられないもの。


「でも、新一は違うよね」
追いついた新一向かって立ち止まり、ほんの少し厳しい表情で見つめる。
「新一は、折角人を好きになったのに、その気持ちを否定して……何処かで忘れようとしているんだよね」
……だからそんなに悲しい顔しているんだよね。
忘れてしまえる程度の想いなら、こんな風にはなりはしない。
忘れられないくらい強く深く、その人の事を好きでいるくせに、どうしてなかったことにしてしまえるのだろう。

「気持ちは元に戻らないよ。忘れた振りしたって……ううん、例え本当に忘れてしまえたとしても、新一は昔の新一には戻らない」
「……蘭」
「無理して笑ってはしゃいでバカやって、そんな風に振る舞ったって余計に辛い思いを背負い込むだけだよ」
だって、誰かを好きなるって、そういう事だから。

真剣な瞳で見つめてくる幼なじみに、新一は全てを見透かされているのを感じた。どれだけ取り繕っても、彼女は騙されないだろう。新一は小さく溜息を付くと、彼女を見る。


「蘭は……人を好きになった事、あるか?」
浮いた噂一つない彼女にも、新一の気付かない所でこんな気持ちになったことがあるのだろうか。そう想って訊ねると、彼女はあっさりと頷いた。
「もちろんあるわよ」
「……知らなかった」
「当然よ。だって、新一には話したことないし」
その時の表情が何だか寂しそうに見えて、これ以上何も言わない方がよいのかも知れないとも思ったが、新一ははどうしても聞いてみたくなった。

「それで……蘭はどうしたんだ?」
新一の問いに、彼女は小さく首を振る。その態度で、彼女の恋は実らなかった事を知る。

「蘭は……辛くはなかった……?」
「辛かったよ。でも、今は辛くない」
「どうして……?」
忘れてしまったから……?

そう問いかけてくる新一に彼女は微苦笑を浮かべつつ首を振る。

「終わらせたから、もう辛くない。……あの時の気持ちは思い出に変わったから」
思い出は、切なさや痛みを柔らかなものに変えてくれる。
そして未来に生きる糧となる。

「じゃあさ……じゃあ、もしも、それが何も始まっていないものだったら……?」
突然そんな事を言い出した新一に、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「始まってない恋なんてないよ。その人の事を好きになった瞬間から、恋は始まっているもの。……別に告白したとか、お付き合いし出す事が「始まり」なんかじゃないよ。想いはね、時に唐突に生まれたりするものよ。だから、始めるって言うより……その気持ちをどういう風に育てていくかが大事なんだと思う」
そして、どいう風に終わらせるのか、がね。と、そう言って微笑った。

人の想いは刻々と変化していくもの。だから人は何度でも人を好きになれる。
もちろん、色々な人と恋に落ちる人もいるだろうし、一人の人と何度でも恋する人だって居るだろう。

「新一って……もしかして、相手に依存していない?」
「え……?」
「好きになったこと、心の何処かで相手の所為にしているような気がする。……そして、自分の都合の良い言い訳を考えて、傷つくことを恐れている」
それは、誰もが考えること。辛く苦しい思いはしたくない。出来れば楽しくて幸せな気持ちで心を満たしたい。だから、例え新一がそう考えていたって、その全てを否定する権利なんて誰にもない。

だけど。

「今の想いを苦しくするのも優しく柔らかなものにするのも、結局は新一が決める事なのよ。……相手次第なんかじゃない、新一次第なのよ」
相手の所為にするは「逃げ」よ。
そう彼女は言った。



彼女の言葉を聞いて、暫く無言で見つめていた新一がぽつりと言葉を零す。

「……オレ、今スゴク気になる奴がいる」
好きとは言えなくて、新一はそう表現した。しかし、彼女は正確に解釈するだろう。
「そいつとは滅多に会えないから、会える日は浮かれてた。……けど、多分そいつはオレがこんな気持ちでいる事に気付いていない。きっと、友達程度にしか思っていない」
別にそれでも構わないと思った。一緒に居られるのなら、どんな関係だって構わないと思った。
「けど、アイツは勘の良い奴だから、いずれはオレの気持ちに気付くだろう。……そうしたら、嫌われるかもしれない」
だから忘れるの?と彼女が訊ねる。新一はこくりと頭を縦に振る。

そんな新一の態度に彼女は呆れたように首を竦めた。

「ばかね。起こっていない未来を危惧してどうするの?そんな所ばかりに頭を回してどうするのよ、新一」
そういう人の事「臆病者」って言うのよ、知ってる?
彼女は少し怒った様な声で鋭く言い放った。

「それに、そんな風に相手を騙していて、新一はその人に悪いと思わないの?」
「騙す……?」
「そうよ。よりにもよって、一番好きな人に心を偽っているのよ?それって、相手にものすごく失礼だと思わない?」
そう言われ、新一は目を見開いた。
「そんなこと……」
考えた事なかった。

そう呟く新一に、彼女は些か大げさに溜息をつく。
「自分が傷つく事分かっていて、忘れてしまおうと思う気持ちを分からないとは言わない。だけど、新一の想いが真剣なら、……それはきちんとそう告げるべきだと思う」
恋は、勉強でも事件でもない。慎重に計算高く進めれば進めるほどに、失敗しやすいものだって知ってた?
「こういうのはね、素直に正直に告げるべきなのよ。……言葉で出来なきゃ、態度に出しなさい。鈍感な相手じゃなかったら、ちゃんと理解してくれる」
そうして、もしそれで相手に拒否されてしまったら……。

「その時は、私が慰めてあげる。私、上手いよ?何たって、恋に関してはセンパイだから」
そう言って彼女はあどけなく笑った。

そんな幼なじみの気遣いに、新一も微笑み返す。
彼女に言われると……そうかも知れないと思えてくるし、その心遣いが嬉しくて、勇気を分け与えてくれた感じがした。

だから新一は心を決めた。
「……ちょっと……頑張ってみる」
そんな新一に彼女は笑って頷いた。





だが、新一の決心はあっさりと崩れ去った。

正体の知れぬ怪盗にもう一度会いたくて、会えるかも知れない可能性を賭けて新一は週末、あの場所に向かった。
しかし、新一を迎えたのは、あの時の廃ビルではなく───既に取り壊された瓦礫の山だった。

一瞬、何がとうなったのか理解出来ずに、ぼんやりとその瓦礫を見つめ続けた。
冷たい風が砂塵を巻き上げ、新一にその存在を深く知らせしめる。

光の灯らないその場所で、新一はようやく一つの答えを導き出した。

信じたくない、考えたくない、けど……。
それはもう二度と彼に会えない事を残酷に告げていた。








屈託のない、少女の笑み。





新一にとって、それが世界の終わりのような衝撃だったとしても、変わることなく時は刻み続けている。
取り壊されたビルの瓦礫は、そのまま新一の心のようだった。彼の決心はガラガラに崩れて、どうすればよいのか分からない。元に戻すことは出来ず、しかし処分してしまうことも出来ない。哀しい心。


どこをどうやって帰ってきたのか。
自室のベッドに腰掛けて、その時ようやく自分が家に戻ってきていた事に気付くほど、新一の心は混乱していた。

「もう、二度と逢わない」が「もう、二度と逢えない」になってしまった……。
逢わないと逢えないのとでは、意味は全く違う。そんな事を今更ながらに気が付いて、新一の心は更に深く沈む。

忘れたくて、忘れられなくて。だからもう一度逢おうとしたのに、それはもう叶わない。
二人は友人なんかじゃなかった。本来ならば、示し合って会う事すら不自然な関係だった。
新一は、KIDの……一切何も知らなかった。

調べようにも情報が少なすぎるし、彼の正体を探るなんて事、する気にもならない。
新一が逢いたいのは『怪盗KID』であって、それ以外にはない。

彼の正体が男だろうか女だろうが、若者だろうが老人だろうが、そんな事関係ない。

新一はKIDに逢いたかったのだ。


しかし、もう、新一から会いに行く術は何一つない。
その事実に今更ながら愕然とした。









一日は、同じ速さでもって過ぎていく。誰かが悲しんでいようが楽しんでいようが全ての人間に平等に。
気付くと、年末の全ての行事は過ぎ去り、終業式で今年の学校生活は終わった。

新一はその間、ただ学校社会の歯車に沿って行動していただけだった。
何も考えることなく……。
まるで心を閉ざしたかのような彼の態度に、同じクラスの幼なじみは心配げに見つめていたが、敢えて何も口出しはしなかった。


新一は……どうすればよいのか分からなかった。だから、只生きていた。
何を求めているのかすら曖昧になてしまった心の中で、真っ白な姿だけが浮かんでは消える。
それが誰かなんて、考える必要はなかった。しかし、時折ちらつくその影を見えない振りして生きるしかなかった。

楽しげに笑い合うクラスメイト。明日からの冬休みを迎えて、クラスは活気に満ちていた。
皆、たくさんの予定やイベントを楽しむべく余念がない。

そんなクラスメイト達を後目に、新一は一人静かに教室を後にした。







玄関の扉を開けると同時に電話の音がフロアに響いた。
家の電話は滅多に鳴ることのない。それを暫くじっと見つめていた後、徐に取り上げる。

電話の主は、新一にとってあまり歓迎すべき人物ではなかった……。
彼は取り上げたことを後悔するかのように、小さく溜息を付いた。



どれだけ想いを告げられても、新一の心は彼には向かわない。
その事を当然承知の上で、それでも白馬は新一を誘う。

もう、どうでも良いような気がして、新一は空港へ向かう。
見送りに来て欲しい、と、彼が言ったのだ。
どんな顔して来いというのだろう。新一はそう思ったが、直ぐに考える事を止めてしまった。

……何かしていないと、心が崩れていく音が聞こえてきそうで、紛らわせる何かがあれば、それが何でも構わなかった。
わざわざこんな所に来る理由は、それだけ。


「工藤君……来てくれたんですね」
仕立ての良いスーツに身を包んだ白馬が目敏く新一を見付けて駆け寄ってくる。
「……おめー、来てくれって言ったじゃねーか」
どうでも良いと言うかのように、新一は呟く。しかし、そんな新一の態度など白馬は気に掛けなかった。

「……見送りはオレ一人なのか」
彼になら取り巻きが居ても良さそうな気がしていたが、実際、彼の周りに人はいなかった。
「来て欲しい人は居たんですけどね。……嫌われてしまったみたいです」
苦笑しつつ告げる白馬に、新一は小さく首を傾げた。

「日本を発つ前に、関係を修復したかったんですけどね」
首を竦め、さして残念そうでもなく呟く。
新一は、別に応える言葉もなく、黙っていた。相手の事情なんて別に関係ない。
そんな新一の態度に気付いた白馬が、彼に笑いかける。

「工藤君とも、こんなギクシャクした関係から少しでも脱せればと思ってお呼びしたのですが……」
「……よく言う。ギクシャクさせたのは、てめぇじゃねーか」」
吐き捨てるように言う新一に、白馬は少し困ったような顔をする。
「原因の一端は貴方にもありますよ。……あんな無防備な姿でずっと一緒にいれば、何時までも紳士的態度をとり続けるのは不可能です」
「馬鹿馬鹿しい」
「そうですね。……男が男に想いを寄せてるなんて、普通は考えもしないでしょうからね」
その白馬の言葉に、新一は一瞬どきりとした。

そうだ。誰だって、同性から想いを寄せられているなんてそんな滑稽な事、思い浮かびもしないだろう。


きっと、彼だってそのはず……。
折角好意的な関係で居られたのに、新一がこんな邪な想いを育てたばかりに、二人の間は汚れてしまった。
相手は新一を探偵として認め、一人の人間として認め、共に語り合えるだけの関係に育てたのに……新一はそれを壊してしまった。

新一は何度でも同じ疑問を繰り返す。
どうして、出逢ってしまったのだろう。
どうして、好きになったのだろう。
どうして、焦がれるほどに強い想いを育ててしまったのだろう。
どうして、どうして、どうして……と。


「工藤君……?」
突然考え込んでしまった彼を怪訝に思って掛けてくるその声に、新一は、はっと顔を上げた。
「どうしました?」
「………いや、何でもない」
頭を振って、それまで考えていた事を振り払う。
そんな新一に、白馬は言うまいと思っていた事を口にする。

「工藤君は……少しはボクの気持ち、判って頂けますよね」
「え………?」
「居るでしょう?君にも好きな人が」
それが誰かなんて、そんな野暮な事は聞きませんが。白馬はそう言って柔らかく微笑んだ。
そんな彼の言葉に、一瞬声を詰まらせた新一だったが、直ぐに何時もの彼に戻るとぶっきらぼうに「そんな奴いねぇ」と呟いた。

「ま……別に良いですけどね。人の恋路に深入りするつもりはありませんから」
でも、そんな表情されると、余計に諦めきれなくなるんですよ。
「……ざけんな」
突き放す新一に、白馬はそれで微笑う。
「どんな事を言われたって、それこそ君がどれだけボクを嫌っても、ボクは君を嫌いになれない。この気持ちを君にぶつけるのは只のエゴですが、……でも、君に受け入れられるように少しずつ変えていく事は出来ると思います」
現に少しずつ変化していると、白馬は言う。
新一には、何を言いたいのか判らなくて、苛立ち気に白馬を見る。

「人の気持ちは、刻々と変化し続けるものだと言う事ですよ。……相手を知れば知るほど、それはめまぐるしく変化する」
同じ好意でも、友達としての好き、異性に働く好きの感情、肉親に抱く想い。好意の形は様々だ。
「あの日、ボクが工藤君のお見舞いに行った日。それまで、ボクの工藤君に抱いていた感情は、闇雲に焦がれていただけでした」
少しでも、機会があれば関係を深めていきたい。その為の手段なんて選んでいられる程の余裕はなかった。
「だけど、あの日を境にして君がボクを見る目が変わった。……それは、少し辛い事だったけれど、君に対する想いを深く知るには却って良かった」
それまで、おそらく漠然とした好意程度の感情しか持たなかった新一が、それ以降、強く白馬を意識した。
白馬に対する負の感情。それは、好きな人間からぶつけられる感情としては最悪のものではあったが、そうなる様に行動してしまったのは他ならぬ自分だから仕方がない。
しかしその事によって、自分の思いを再確認させられた。

憎まれても、忌み嫌われても、白馬は新一を嫌いになれない。
彼がどんな感情をぶつけてきても、白馬が彼に返すのは、好意以上の感情でしかあり得ない。
その事実は、ある意味白馬に自信を持たせた。

相手に拒絶された程度であっさりと諦めきれる程度の感情ではないとの、それは証明。

それを知ると同時に、それまでの闇雲に焦がれれていた感情が少しずつ変化していくのを感じた。

その変化は同じ好意からくる感情であるにも関わらず、決定的に何かが違ってきたのだ。
白馬は、それまでの相手を手に入れるのみで突き動かされていた感情から、相手の幸福を分かち合いたい気持ちへと変化した。


それにはっきり気付いたのは、あの……世紀の大怪盗が世間に姿を見せた夜。

新一が何を求めているのか、ほんの少し垣間見たような気がしたあの夜からだった。


「今でもボクは君の事が好きですよ。……ボクの手で君を幸せに出来るてしたら、このまま君を連れ去りたいくらいに」
穏やかな微笑みでそう告げられて、新一の心が淡く揺らいだ。
「……白馬」
頭から相手の自分にぶつけてくる感情を否定していた新一にとって、その揺らぎは心に小さな灯火のように灯ったのを感じた。
白馬に比べて自分は……とても狭量な人間なのではないかと思った。
「……好きな人には、幸せでいて欲しいですからね」

己の手で幸福にしてあげられないのは判ってしまったから、それ以外の何かで幸せに出来れば良い。
そういう考えは少し偽善的な気もするが、そんな気持ちも芽生え始めてきたのも事実だ。




「お前って………何か、イイ奴だな」
ぽつりと呟く新一に白馬は嬉しそうに微笑んだ。
「そう言って頂けると、何だかとても嬉しいです」
朗らかにそう応える白馬の耳に、搭乗を知らせるアナウンスが飛び込んでくる。


「そろそろ行きます」
「あっ…───あのな」
新一が何かを言いかけた時だった。

「白馬君!」
突然飛び込んで来た声に、二人は揃って声のした方に振り返った。

向こう側から新一の知らない少女が駆けてくる。

「あ……中森さん」
「……?」
呟くように漏れた白馬の言葉に、新一は僅かに眉を寄せる。
中森という名字に、何処か聞き覚えがあったからだ。

息せきって駆けてきた少女は、二人の前まで来ると大きく呼吸しながら息を整える。
「良かったぁ、間に合った」
頬を上気させて白馬に笑いかける。そんな彼女に白馬は目を細めて微笑んだ。

「わざわざ見送りに来て頂かなくても、良かったのに」
「そんなこと……ホントはね、何が何でも快斗を引っ張って来ようって思ってたの。……だけど、絶対行かないって、梃子でも動かないのよ。だから、せめて青子だけでも、って思って」
ホント、友達甲斐のないヤツなんだからっ。と、少し頬を膨らませ、白馬を見上げるその仕種はあどけない。
そんな彼女に白馬は微苦笑を浮かべつつ、軽く首を振った。
「わざわざのお気遣い、嬉しいです」
「ホント!?良かった」
嬉しそうに笑った少女が、ようやく近くにいる新一の存在に気付いた。
そこで白馬は少女に新一を、新一に彼女を紹介する。

「中森……って、もしかして、捜査2課の中森警部の……?」
「うわぁ、お父さんの事知ってるんだ。こんな有名人に名前覚えてもらえるなんて、お父さんってスゴイんだ」
身体全体で表現する喜びに新一は少し面食らうが、決して嫌な気分ではなかった。

「でも、流石は白馬君よね。こんな超有名探偵とお友達なんて」
素直に感激する青子に二人は苦笑するが、白馬の方はそうもゆっくりしていられなかった。

「申し訳ありませんが、ボクはそろそろ……」
「あ、白馬君。また暫くしたら日本に帰ってくるんでしょう?……その時迄には快斗の機嫌も治ってると思うの。だからね……」
「彼を嫌いになんかなりませんよ」
安心させるように微笑むと、青子はぱっと明るい笑顔を見せた。

「それでは、中森さんもお元気で。………工藤君も」
にこにこと笑っている青子とは少し離れた所で佇んでいた新一に白馬はなに気なく視線を送った。
新一は小さく頷くように頭を動かしただけだったが、彼にはそれで充分だったようだ。満足げに頷くと、はしゃぐように見送ってくれる青子に軽く手を挙げて応えて、背中を向けた。

慌ただしい空港内の特に賑やかな空間が、次第に静かになっていく。

姿が見えなくなるまで手を振っていた青子がその腕を降ろし……それから好奇心たっぷりの表情で新一に視線を移した。
見つめられて、どうして良いのか分からず内心戸惑う新一に、青子はにっこりと微笑んだ。

「うわぁ〜、ホンモノの工藤新一だ〜」
「……な、かもり……さん?」
少女らしく、両指を組んできらきらとした瞳で見つめてくる青子に面食らう。

「白馬君に負けず劣らず、スゴク有名人なんだもん。青子感激しちゃうっ」
「………はぁ」
「白馬君の見送りに来て何だか得しちゃった。……こんな事なら、やっぱり恵子もムリヤリ引っ張ってくれば良かった」
ぶつぶつ呟く青子と二人で残されたことに、白馬を少し恨みたくなってきた。
このまま放っといて、自分だけさっさと帰る訳にも行かない。

「えっと……ボクはもう帰りますが……中森さんは?」
「あ。青子はねぇ、この後予定があるの」
幼なじみが絶賛していた喫茶店のチョコレートパフェを友達と二人で食べに行くのだと青子は言う。
「ホントはね、その子もここに来るはずだったんだけど、時間は合わなくて。……でね、そこの喫茶店で待ち合わせなの」
嬉しそうに教えてくれる青子に、新一はこの場で別れようとした時だった。

くい、と服の袖を引っ張られる。


「あのね……もし用がなかったら、青子に付き合って」




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Open secret/written by emi

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