風踊る
ずっと天を見上げていた。
月が顔を覗かせているのもあるのだろう。今夜は辺りが白く淡く光っている。
乾いた夜風が新一の身体を撫でるよう包み込んで、そして去っていく。
「寒い?」
目の前の男がそう尋ねたので、新一は一度ゆっくりと瞬きをしてから、僅かに頭を動かして首を横に振った。
もう、真夜中を過ぎただろうか。此処は、酷く静かだ。
時折吹き抜ける風の音と、互いの小さな呼吸音。それから……もっと近付けば互いの心音も伝わってくるだろう。
そこでふと新一は後悔した。
先程尋ねられた問いに「寒い」と答えれば、彼の心臓の音を聞けたかも知れない。
……少し惜しいことをしたかな、と思わないでも無かったが、今更言い直す気にはならなかった。
……どうせ、時を移さず、彼は自分に近付いてくる。天を見上げながら、新一はそう思った。だって、もうこんなにも近くに彼は居る。
「背中、冷たくない?」
新一を見下ろすその双眸は酷く優しげで、新一は彼を見上げながら先程と同じ仕種で答えた。
「芝生……結構暖かいし」
新一は仰向けに横たわったまま、キッドを見上げる。彼は新一の身体の両脇に両手をついて、彼を見下ろして微笑んでいた。
「そう、良かった」
彼の片方に付けられたモノクルの飾りが僅かに揺れて、新一の視線がそこに吸い寄せられる。
そして、気付いた時にはその無機質で硬質な飾りが新一の頬を撫でるように滑って、その冷たさに顔をしかめる間もなく、口唇に熱い吐息が触れていた。
反射的に目を閉じて、薄く口を開いて、そうして吐息を受け止める。
新一はキスが好きなのだと、彼に初めて教えられた。正確には、キッドとするキス限定なのだろうが、生憎彼以外とそうした事をした経験が少ないので断定は出来兼ねる。
けど、それはきっと気のせいでも何でもなく、事実なのだろうと思っている。……彼にはそんな事、一言だって言った事ないが。
しかし、言葉にしなくても、彼はきっと知っている。
口唇に触れてくる彼の口唇。そっと触れて、次第に深くなって、そして丹念に余すことなく味わい尽くすように貪られる。
何者にも邪魔されることなく、押し開かれた門をくぐるように、彼の舌が新一の口内に深く侵入し、そうしておずおずと迎出た新一の舌をゆっくりと絡め取り、丹念に愛撫を施す。
激しくはない。彼はいつも優しい。吐息を乱す事なく穏やかに、けれど執拗に。
投げ出されていた腕を持ち上げて、新一は彼をスーツ越しに触れる。胸のあたりから肩口に滑らせて、両腕を首に回し、更に引き寄せる。
キスのその先をねだるのは、何時も新一だった。おそらく、快楽に弱いのは新一の方で、それに溺れるのも早い。キッドはいつも、新一が欲しがり出すまで待っている。
彼の無言の求めに応じて、キッドはようやく口唇以外の場所へと触れてくる。新一の服の上を指先が辿る。その動きは艶めかしくて、生々しい。
只、撫でられているだけなのに、その愛撫は新一を強い官能の檻へと誘い込む。
「新一……いいの?」
耳朶を舌先でなぞりながら訊いてくる。その吐息にぞくりと身体が震えた。
「な……にが?」
「こんな所で、サカって……全部食べても良いの?」
……今更だ。
だけど、同時に僅かながらの理性も働いた。今晩は、そんなコトをする為に逢った訳ではなかった筈だ。
キッドは、家で休んでいた新一の元に突然の訪れて、半ば強引にこの場所に誘った。誰も居ない、一本木を2人で愛でる為に。
しかし、その本来の目的を踏まずに、こんなに浅ましく欲しがっている。
新一は、それまで伏せていた眼をそっと開いた。ふわりと風が吹いて目の前が淡く白く光る。
月明かりの下、白く纏った彼の衣装が眩しい。
僅かに眼を細める新一に気付いたのか、キッドが覗き込むように顔を寄せた。
「……新一?」
今更だ。
「欲しいのは……止められないからな」
ほんの少しの羞恥心に目元が少し熱くなった。赤くなっているかも知れない。けれど、新一は瞬きすることなく、キッドの双眸を見つめた。
キッドもじっと新一を見つめ続けていたが、ふいに瞳を和らげた。そして、次に見せたのは、あからさまな欲望を帯びた双眸。
「じゃあ──遠慮しないで、全部食べてあげる」
シャツをたくし上げ、直にその滑らかな肌を堪能する。それまで覆っていた手袋はとうの昔に脱ぎ取られ、芝生の上に投げ出されている。
新一は、明らかに官能を引き出すその指使いに身体を震わせ、甘い吐息を放った。
触れてくる彼の手は、何時だって優しい。なのに、訳もなく狂おしい気持ちにさせられる。
そうすると、彼はそれに応えるように、きつく抱きしめて熱い吐息を新一に差し出してくる。それが更に昂ぶる欲望に油を注ぎ、新一の理性を削ぎ落としていく事を彼は知った上で。
「……あっ……っ」
夜の空気の中に溶け込むように、愛撫と衣擦れの音に混じって声が漏れた。
「新一」
キッドの口唇が、新一の耳朶を甘く食みながら、愛おし気にその名を呼んだ。もうそれだけで、体中が甘く痺れ、全てを彼に任せてしまいたくなる。
官能的に衣服を乱されるのは新一ばかりで、当の相手はネクタイすら緩めてやしない。
耳元から首筋、そして鎖骨へと、ゆっくりと降りてくる口唇の愛撫に、新一は伸びやかに喉を逸らせて喘いだ。
「やっ……」
「やめて欲しいなんて、思ってもいないくせに」
くすくす笑いながら、更に強い刺激を与えられ、息を詰まらせる。
そうだ。最初から嫌がってやしない。求めたのは新一が先。だけど、こんな時は新一自身ですら理解できない感情に支配され、思ってもいないことを口にしてしまう事を、互いはそう短くはない経験で知っていた。
だから、相手の言葉を真に受けて、その手を緩めるなんて愚かな真似はしない。絶対に。
「キッド……」
甘えた声が喉元から漏れた。まるで追い詰められた者が縋るように、新一は続けざまに何度も彼の名を呼んだ。
相手の名を呼ぶ事で、余計な力が抜けていく気がする。現に、身体は徐々に弛緩していくのだ。
まるで魔法のようだと、新一の頭の片隅で思った。
「新一の声……甘い」
「……キッ……?」
「好き、大好き」
彼の方こそ、花蜜のような濃密で甘ったるい声を響かせて。新一は強い目眩を感じながら、その甘味に酔いしれる。
睫毛を震わせて彼を見上げると、新一は甘く官能に震える指先をキッドに向けて伸ばした。
「……オレも……っ」
その指は、僅かな音を立てて、彼からモノクルを奪う。
「オレも、好き。愛してる」
キッドが、さも嬉しそうに微笑んだ。
「……っん、……んっっ!」
「もっと声出して。……もっと聞きたい」
此処には誰も居ないから。 キッドは新一の身体を容赦なく貫いたまま囁いて、ゆっくりと次第に激しく揺さぶった。新一は、その彼の動きに合わせるように、声を漏らした。
「新一の……その声だけで達けるの、知ってた?」
「……んなっ……!」
悲鳴のような声にキッドは微笑う。
「本当ですよ。……だから、抑えるような真似はしないで」
甘すぎて……却って毒のような声で、キッドは新一を狂わす。その事が理解っていても、新一に抗う術はない。
「あっ……やっ…っあ」
「もっと」
「やぁっ……っく…」
卑猥に肉打つ音と、閉じる事を忘れてしまった口から漏れ続ける新一の声。夜風が吹いて、それらが混じり合い、濃厚な蜜を生み出す。
それらに煽られるかのように、キッドの動きが激しさを増すと、その性急な動きに新一の身体は次第に付いていけなくなるのだ。
「あっ…も……だめっ!」
新一はそう言い様激しく痙攣し、そしてゆるゆると弛緩していった。
それでも彼は、新一を離さない。
高まった熱を冷ますように、風が一陣吹き抜けた。淡紅色に着飾っていた春の花木がその身を散らして舞った。
巡り来る春の夜。その大きな一本桜の根元で、甘い快楽にに耽った二人は、その後キッドが新一を後ろから抱き締めるようにして腰を降ろしたまま、空から舞い散る花びらを眺めていた。
風が吹き抜ける度に、花びらが肩や髪に舞い降りる。
「桜が踊っている」
キッドは、新一の肩に止まった花弁を払いながらそう言うと、新一は少しだけ自嘲じみた笑みを見せてこう言った。
「違う。──風が踊っているんだ」
踊っているようで……踊らされているのは、実は桜(自分)の方なのだと、言外に匂わせるが如く。