4.
一ヶ月後。
一人の少年が教会にやって来た。
しんと静まり返った空間の中を音を立てずに歩く。
この空間はまるで時間が止まっているかのように、何も変わらない。
少年はマリア像の前まで来るとそれを見上げた。
マリアの胸に視線を向けると、ゆっくりと手の中のものを差し出した。
そっと、はめ込む。
帰ってきた。
長い旅を終えて、ようやく『マリア』の胸に─────。
「約束は守ったぜ─────親父」
快斗は小さく呟くと、教会を後にする。
扉に鍵は掛けない。 ……それは、この地に教会が建てられた頃から変わらない風習。
─────もう二度と、この地に来る事はないだろう。
快斗にとって、この場所に思い出などない。
─────あるとすれば………。
外階段を降りて、振り返る。
年代を感じさせる、重厚な造りの教会は、少し離れただけで、こぢんまりとした家の様に見えて、周りの木々に同化するように目立たなくなる。
本当に…………遙か以前からこの地にあったかのように。
ここは日本なのに……まるで別の国に来てしまったかのような錯覚すら感じる。
快斗は小さく苦笑した。
秋の風が木々を揺らして来訪を告げる。
着実に、確実に進む刻の中で、ここだけは……何からも取り残された様にひっそりと佇んでいるのだろう。
この場所を知る者が途絶えても、尚………。
快斗は、もう一度その建物の全景を捕らえると、脳裏に強く焼き付けた。
そして、全てを振り切るかのように踵を返す。
それは、突然の事だった。
数歩歩いて、……ふと視線を前方に向けると─────信じられないものを見るように目を見開いた。
前方にいる人影に、………驚愕する。
「…………新一」
思っても見なかった。
彼が目の前に現れるなんて。
「どうして…………」
言葉の続かない快斗に、新一は鋭いとも柔和とも取れる曖昧な瞳で見つめた。
「…………お前、『キッド』か?」
確信を掴みきれずにそう放った言葉に、快斗は己を取り戻すとにやりと笑った。
「ああ。……で?何しに来た」
瞳に冷涼な気配を漂わせて、新一を見据える。
すると予想外にも新一は、ふわりと微笑むと快斗に近付いてきた。
「そんなこと。……ただ、俺も見てみたいと思ったから」
本物の『マリアの涙』を湛えたマリア像を。
「しん……」
「見せて貰う権利はあるだろ?……オレには」
そう言って微笑う新一。内心の戸惑いを隠した快斗の傍を通り過ぎると、彼は教会に向かって歩き出した。
「ちょ………!」
慌てて追いかけようとした時には、新一は小さな教会の扉を押し開いていた。
一ヶ月前も、あんな風に彼は扉を開いたのだろう。しかし、以前とは違い新一はどことなく嬉しそうだった。
教会の中に姿を消した新一を追って、快斗もまた再びその中へと身を滑らせた。
色褪せた絨毯の向こうに、マリア像がその白い姿を表し、そして向かい合う様に、新一がその場に佇んでいた。
快斗は、じっと見上げる新一の元へとゆっくりと歩み寄る。
予想もしていなかった来訪者。
だが、………それは決して不快なものではない。
新一が、どういう気持ちでこの場所にやって来たのかは判らない。
しかし。
……………彼に逢いたかったと、快斗の心はそう告げていた。
「…………新一」
「本当に……綺麗だな、彼女は」
それに、どことなく嬉しそうな表情(かお)していると思わないか?
新一はそう言うと、背後にいる快斗の方に振り向いた。
「良かったと思ってる。──────お前にあの宝石(いし)を返せた事を」
本来あるべき所に還る。………此処は、最も相応しい場所。
「新一………」
「何だ、お前。さっきから、何度もオレの名前を呼んで、何言いたいんだ?」
眉を寄せる新一に、快斗はいつものポーカーフェイスで切り返せなくなってしまっている自分に気付いた。
「だって………予想外だったから、さ」
もう、二度と逢う事はないと思っていた。
逢えるとは思わなかった。
逢ってはいけないと……そう思った。
それだけの事を、快斗は新一に対して行なったから。
なのに、目の前の人物はそんな快斗の心情などお構いなしにその身をさらけ出して、尚かつ微笑っている。
今、こうして向かい合っていることが──────未だに信じられなかった。
「常に自分の予想通りに事が運ぶと思うのは……傲慢だな」
「都合の良い解釈はしない質なんだよ。……だろ?」
新一の、ほんの少し鋭くなった眼差しに、快斗もシニカルな笑いを浮かべて応える。
「それは、賢明だな」
木々の隙間から見える空は、相変わらず高く澄んでいた。
風が新一の柔らかな髪をかき上げて、空へと吸い込まれるようにかき消えていく。
新一の後について表に出た快斗は、先程とは全く違う気分で空を見上げている事に気が付いた。
無性に気持ちが波立って……。
──────何かに急かされているように、心が逸った。
「新一!」
やって来た時と同じような唐突さで消えようとする背に快斗は声をかけた。
しかし、歩みは止まることなく足早に去ろうとするその後ろ姿に、快斗は慌てて駆け寄ると、彼の腕をぐいと引っ張って強引に制止させる。
「……何なんだよ、お前っ」
「何処へ行くんだ?」
驚きを隠すかのように、怒りを漲らせて振り向いた新一に、快斗の口から咄嗟に出た言葉。
「決まってるだろ。……帰るんだよ」
「帰るって、何処へ?」
工藤新一は、表向きは『行方不明』だった。
もちろん、快斗はそのことを知っている。そして、彼が身を隠している場所も知っている。
半年前に、突然身を隠した新一。
その理由は判らない。………それは、本人しか知らぬ事。
だが、それは今までの自分を捨ててまでやらなければならない事なのだろう。
でなければ、探偵を休業してまで息を潜める訳がない。
大学も行かず、探偵の真似事も全くせずに、都心を離れ、誰とも接触することなく過ごしていた新一。
一体、何が彼をそこまで追い詰めたと言うのだろう。
「お前には関係ない」
「関係ないなんて、新一が断言すべき事じゃない。───────それは、オレ自身が決める事だろう?」
今の快斗にとっては、最も重要な事なのだ。
彼の社会から逃げ出した新一が、何処へ向かおうとしているのか。
今、一番知りたい事。
そして、それは遠からず自分自身にも関係してくる事だろうと予感して、問う。
「新一、お前はどうして一人なんだ?」
「…………何?」
下草が風に揺れて乾いた音を立てた。
「……西の探偵は、どうしたんだよ」
「それこそ、お前には関係ない事だ」
「関係ならある」
快斗はきっぱりと言い放つと、新一を見つめた。
その真剣に見つめてくる瞳に、新一の表情が僅かに揺れた。
「オレは、お前の事『ライバル』だと思ってるからさ」
いつの時も逸らされる事なく、真っ直ぐに捕らえていた瞳。
常に犯罪者たる自分に立ち向かって来た新一。
まるで互いが競い合うかのように、探偵は怪盗を追いかけ、怪盗は探偵の弄した策をかわす。
光と影。明と暗。全く別の立場に居るはずなのに、引き寄せ合わずにはいられぬ関係。
譲り合えない関係だけど、フェアな戦いは何時だって、心が満たされていた。
「お前がまた社会から隠れた生活に戻るのなんて、オレには耐えられない。………大事なライバルが消えるのをむざむざと見逃す訳にはいかない」
──────目の前から、この男を離したくない。
「あの男が関係しているんだろ?………でなきゃ、大事な幼なじみの方かな」
「蘭は、関係ねぇ」
咄嗟についた言葉に快斗はにやりと笑った。
「じゃあ、やっぱり西の方だ」
はっきりした事は判らなかった。だが、東の名探偵と西の探偵は懇意な間柄で、それが只の親友という枠には当てはまらない関係だと言う事は兼ねてから知っていた事だった。
今の新一を見れば『何か』があった事は、容易に知る事が出来る。
西の探偵は、愚直なまでに東の名探偵を想っていた。それは、端から見ていても分かり過ぎるほど、態度に表れていた。
忌々しいと思う程に。
「お前が何時までもそうして息を潜め続けるのなら、オレは無理矢理にでもお前を引きずり出してやるぜ?」
何が彼をそうさせているのかは知らない。しかし、そんな事など全てを些細な問題でしかならない状況に陥れれば、自ずとこちら側に落ちてくるはず。
この手に掴めば判る。
目の前の探偵は、己の一体『何』なのかが。
走り始めた心に快斗は気付かなかった。だからだろう。新一は、そんな事を言った男に吃驚したように目を見開いた後、穏やかに、そしてどことなく嬉しそうな表情でこう告げた。
「お手並み拝見しようじゃないか」
互いが認め合って同じ舞台に立つならば、それは戦うことも愛することも、心の根底は同じ。
しかし二人はそれに気付かぬまま、時間は進む。
季節はゆっくりと冬へと向かう。
探偵が怪盗を、怪盗が探偵を『最も大切な存在』と認識するには、二人にはまだ幾ばくかの時間が必要だった。