G氏の贈り物
その時迄は穏やかだった、珍しく。
久しぶりの何の予定もない休日。溜め込んでいた書物を少しでも消化しようと、ソファに寝転がるような格好で読書に勤しむ新一だったのだが、そんな彼のささやかな幸福の時を壊したのは、軽やかに鳴り響く呼び鈴だった。
そう。呼び鈴の音は確かに新一の耳にも届いていた。
しかし、本に夢中で出なければならないという意識が低下していた。……というより、なかった。
何より、アポイントメントのない客など、無視した所で大して害になるとも思えない。そんな心理が働いていた。
だが、呼び鈴を鳴らした者が隣人だった為に、新一は無断で室内に侵入される事になる。
まぁ、それは別に構いはしない。隣人は、もしもの時の為にと、この家のスペアキーを所持している。
……今がその「もしもの時」とは思えなかったのだが、あまり日常に頓着しない工藤新一である。別に咎める事もなく、リビングに姿を現した隣人を視界の端に納めつつも、やはり頭は本に夢中だった。
その隣人の家には2人の人間が住んでいた。
一人はその家の主人で、恰幅の良い男。そして、もう一人は、新一とそう年の変わらない、理知的な面差しの希にみる美しい女。
今、新一の前にいるのは、女の方だ。
彼女は工藤新一の事を良く知っていた。
新一の過去の全ては元より、身体的な事まで。彼女が知らない事と言えば、新一の心の内くらい。……いや、それだって、彼女はほとんどその全てを読む事が出来るのだろう。
だから彼女は、こういう状態の新一が、いかに扱いにくいのかも承知していた。
彼女は無言でソファの前までやって来ると、相変わらず目線を紙面に向けたままの新一など無視して、あっさりとその諸悪の根元を奪い去った。
「……な、何しやがる!」
「読書はいつもでも出来るでしょう?私は今、あなたに用があるの」
博士の家まで来て貰うわよ。
彼女はそう言って本を持ったまま、すたすたと玄関へと歩いて行ってしまった。そんな彼女を追いかけるように、新一も玄関に向かう。
「一体、何なんだよ、全く」
今、丁度良い所だったのに。と、ぶつぶつ文句言いながら、それでも強引に彼女から本を取り返す事もなく、渋々と後ろをついていく。
隣家へはすぐに到着した。靴を脱いで上がると、待ちかまえていたのか、この家の主人が目の前で出迎えた。
「おお、新一。良く来た。さぁ、こっちじゃ」
にこにこと上機嫌で、新一を促す様は、強引に引っ張っていきそうな勢いだ。新一は憮然としながも、彼の後ろについていった。
新一は彼にたくさんの借り、というか、恩義があった。小さい頃から一緒に遊んでくれた数少ない大人の一人であり、新一が『江戸川コナン』であった頃、様々な発明道具でサポートしてくれたのも彼だった。
そのような事情により、新一は彼に頭が上がらない。
彼が新一を連れてきたのは、地下の発明室だった。地下には、実験室やら研究室やら、色々な部屋があったが、中身は何処もそれほど変わらない。
それでも『発明室』という言葉に、新一は「ああ、また、おかしなものでも発明したのか」と内心うんざりしていた。
彼の発明の恩恵を嫌と言うほど受けていながらも、そう思ってしまうのは、彼の発明の大半が失敗か、あるいはどうしようもないものばかりであったからだ。
彼が発明するその数は膨大だ。……だが、年間100個開発したとして、その内の90%以上が使い物にならない。
しかし、残りの約10%はなかなかの物で、そしてその内のいくつかは確実に商品化されてきたのも事実。
だから、彼を侮る事は出来ないのだが、新一としては、過去散々失敗品の披露に付き合わされていた事もあって、今回もどうせ大した物ではないだろうとたかを括っていた。
「これは是非、真っ先に新一に見せねばと思っておったんじゃ」
満面の笑みを浮かべてそう言いながら、いそいそと何か操作している。
しかし、新一は胡散臭そうに眉をひそめて応えて見せただけだった。これまでの出来事を考えれば無理もない。しかも、彼の目の前には、鉄の円盤のような物がおいてあるだけだ。…何かの土台のような物だろうか。
……一体、何の発明をしたのだろう。新一はうんざりしながらも、内心首をひねる。
そうこうしていると、この家のもう一人の住人も、コーヒーを片手に部屋に入ってきた。
新一にカップを差し出し、そのまま男の元へと向かう。
「博士、準備はどう?」
「もうちょっと……よし、これでOKじゃ」
新一は貰ったコーヒーを飲みつつ、何が起こるのか考えた。
「なぁ、博士。今度の発明は何なんだよ」
「もの凄い発明じゃ!」
思いっきり自信有り気に発言する彼に、新一はあからさまに呆れた顔をして見せた。
……何故なら、彼が発明品を披露する時は、何時もそう言っていたのだから。
もう何度となく立ち会わされた新一としては、その程度の言葉に心動かされる事など、ない。
「何でも良いけど、早く済ませてくれよ」
……オレ、早く本の続き読みたいんだからさ。
肩を竦めつつそう言って、2人を交互に見やる。
男は「任せておけ」と自信満々。珍しい事に、彼女の方もどことなく興奮しているかのように頬を紅潮させている。
男の方は兎も角、女の方も素晴らしい才能を持っている。何よりも素晴らしいのは、男に比べて無駄がない事だった。彼女は年間100個も何かを作り出す事はないが、それでも開発した物全てが使える物ばかりだったので、効率は断線彼女の方が高かった。
「博士と私の自信作よ」
彼女はそう言うと、誇らしげに微笑んだ。その顔に「これはひょっとして……」と、新一の表情も改まる。
「さあ、わしら2人が新一の為だけに、丸3年の年月をかけて開発した、画期的発明品じゃ」
「え、……オレの為?」
「これで、世界の技術は大きく飛躍すること間違いなし。……では、スイッチ、ON!」
高らかに彼が宣言し、隣の彼女が電源を入れた。
と、同時に、かすかなモーター音が聞こえ、暫くすると、目の前の円形の土台の上が朧気にゆらめいた。
「……何だ?」
新一は目を凝らした。しかし、それは次第に何かを形取り始め、最後には目を凝らす必要など無いほどに鮮明に浮かび上がった。
台の上に姿を現したもの。
それは、些か前時代的でクラシックな感のする衣装に身を包んだ、一人の少女。
陶器のような白い肌に、薄く入れたミルク色の紅茶色をした髪を肩の上で切りそろえられた清楚な美少女。
人形のような長いまつげを震わせて、閉じていた双眸が、ゆっくりと開かれると、そこには鳶色のガラスをはめ込んだような美しい瞳が輝いていた。
少女は、目を開けると真っ直ぐ新一を見つめ、それから花もほころぶような顔でにっこりと微笑んだ。
「……はじめまして、My master」
それは一言で言えば、ゴシック風なファッションだった。
ゴシックとは、中世ヨーロッパで栄えた芸術・建築様式を示し、12世紀〜16世紀にかけて各国に広がり発展した様式を指す。
新一の目の前の少女はそんな一見クラシックでいて、しかしどうにも歴史的には沿ってはいないような不思議服を着て、紅茶色の髪をふわりと揺らした。
「My master……?」
小首を傾げて訊いてくる少女に、新一はようやく目の前の人物が自分に話しかけている事に気付いた。
だが、新一は彼女に対しての返答は無視して向き直る。
「一体、博士は何を作ったんだ!?」
「メイドよ」
新一の問いに答えたのは、宮野志保だった。彼女は、事も無げにあっさりと言い放つ。
「めいど……?」
「そう。……工藤君専属のメイド」
すると、目の前の少女はにこりと微笑った。
「マスター、ご指示を」
ぽっこり膨らんだ黒いスカートがふわりと舞って、少女は台の上から降りると、新一の前に近付いてくる。
新一は相変わらず混乱状態のままで、少女を凝視したまま目を見張っている。
何もない丸い台から突如として出現した少女は、初対面であるにも関わらず、新一を認識し、新一を『master』と呼び、新一に近付いてくる。
これで混乱するなという方がおかしい。
彼女は、随所に同色のフリルが付いた全身黒い衣装を身に纏っているのだが、その彼女の身には、これまたふんだんにあしらわれたフリルの付いたエプロンをも付けていた。それを認識した新一は、彼女がいわゆる『メイド服』を着用しているのだと、今の状況下では全くどうでも良い事に気付いた。
しかし、そこまで思考が及んだ所で、……ようやく志保の言った『メイド』の意味が理解出来たのだった。
「メイドって……だけど何でこんな……」
そこまで言いかけて、新一はふとある事に気が付く。
この目の前のメイドは……一体何だろう。
人間?いや、それはない。大がかりなマジックでもない限り、人間はこんな風に突然現れたりはしないし、しかも、こんな年端もいかない少女を……。
──そうなのだ。
志保があっさりと『メイド』と言い放った少女は、どう見ても仕事としてお手伝い出来る年齢には見えない、精々10歳前後の子供。
「もしかして、お手伝いロボット……?」
「ホログラムじゃよ」
新一のひねり出した答えに応えたのは、阿笠博士だった。
「ホログラム?」
この目の前に鮮明に映し出されているのが只の映像で……しかもホログラム?
信じられないというように両目を見開く新一に、志保が更なる驚愕の言葉を放った。
「触れてみてご覧なさいよ、彼女に」
「……触る?」
見下ろす新一に、見上げるメイドホログラム。彼女はにっこり微笑んで、自ら新一に手を伸ばした。
ホログラムは、立体映像である。ホログラフィーの応用系で、光線を照射すると、立体的に映し出される。……つまりは、只の画像であり実体している訳ではない。
なのに、彼女の伸ばした指先は、新一の頬を静かになぞったのだ。暖かい感触が皮膚から伝わってくる。
「──!!」
思わず身を引く新一の顔には、これまで以上の驚きが浮かび上がっていた。
「な、な何で……!」
「これは、実体化に成功した、第1号ホログラムなのじゃよ」
博士が誇らしげにそう言ったのだった。
そもそも阿笠博士と志保がこのホログラム開発をしたのには理由がある。それはもちろん、新一の要請を受けての事だった。
「新一は覚えておらんかのぅ。ほれ、お前がコナンじゃった頃、言っておっただろう?『もしもの時の為に何かいいメカを作って』と」
──たとえば、動いてしゃべれるオレそっくりのロボットとかさ──…。
「流石にロボットは無理なのは判っておったから、少し方向性を変えて考えてみたんじゃよ。それで当時哀君と相談して……」
「動く立体画像に音声を付けて、ついでに質量を持たせれば、何とかあなたの代役には使えるんじゃないかって、考えた訳」
博士の話を引き継いだ志保がそう言って、薄く微笑んだ。
志保は事も無げにあっさりと説明したが、もちろん、彼女を生み出すのは、それ程容易な事ではなかった。
普通のホログラムとは違った実体ホログラムは、ハイテクノロジーなどと言う言葉では実現出来ない程の高度な技術が使われている。
実体化させる為に、重力制御技術や重力素粒子等を駆使して作り出し、そうして生み出されたホログラムには、膨大なデータがプログラムされ、学習能力、適応機能を持ち合わせ、最終的には一度に複数作業をこなす事も可能になった。
そこまで辿り着くには、天才的頭脳を持つ2人ですら、数年の年月が必要だったのだ。
しかし、そのような苦労など微塵も見せないのが、彼等らしい。
そんな2人の説明を聞いて、新一の方と言うと、まだ記憶に新しい、己がコナンだった頃の事を思い出そうとした。……ああ、そう言えば、そんな事言ったような気がする。
丁度あの時は、幼なじみの蘭に正体がばれるのを危惧して、半分冗談のつもりで言った。当然、あの時は即却下されていたのだが……。
まさか、今になってこんな物を作り出してしまうとは。
そこで新一は、はたと気が付いた。
「ちょっと待て。……これはオレの身代わりとして作られたんだとしたら、何でこんな子供の、しかも女の子になっているんだ!?」
話がかみ合わないではないか。
「だって、身代わりなんて、もう工藤君には必要なくなったでしょ?」
『工藤新一身代わりプロジェクト』は、新一がコナンの時の代役として考え出されたものだ。だが、新一は無事に元の姿に戻り、もちろん、黒の組織との戦いにも終止符を打つ事の出来た現在、その存在は不要となってしまった。
「じゃが、当時秘密裏に開発が進んでおっての。……もちろん、新一達が元に戻った所で、一旦見合わせてはおったのじゃが……」
「でも、かなりの所まで進んでいたのも事実で、このまま開発を放棄するのも惜しいと思ったの。工藤君の代役としては無用になったけれど、『実体ホログラム』を別の方向でなら、充分活用出来るんじゃないかって」
そんな志保の提案に、博士は嬉々として乗った。
姿形に拘らなくても良くなった分、その姿は博士好みの愛らしく可愛い少女の物に書き換えられ、専門学的な知識の代わりに医学的知識と家庭的な知識を入力したのだ。
「元に戻って落ち着いてからの工藤君の食生活には、正直心配していたの。身体的にも普通じゃないのだから、健康管理にも気を遣ってもらわなきゃならないって言うのに、あなたは本当に頓着しなくて」
志保が傍について、あれこれと世話を焼きたくなるのだが、いかんせん彼女にも彼女の生活がある。新一の面倒だけを見ている訳にはいかないのだ。
「だから、工藤君の食と健康管理をお手伝い出来るようなホログラムを作って、あなたの傍に置こうと思って、色々書き換えて作り上げたの。……それがこの、実体ホログラム第1号、『A.I』よ」
「『A.I』……アイ?」
アイと呼ばれた彼女は、さも嬉しそうに「master」と微笑んだ。
「この娘の姿は、志保君を元にして作られておるのじゃ」
灰原哀の数年後の姿であり、宮野志保の10年程過去の姿でもある。彼女の外見を正確に書き込まれたデータによって、A.Iはその姿を実体化させているのだった。
「ま、外見は兎も角、中身は全く違うけど」
肩を竦める志保に、新一は未だもって信じられない表情で『A.I』を見下ろした。彼女は、新一に身体を預けるようにして抱きしめている。
「性格は、穏やかで従順。一部の禁忌を除いて、主人の命令には絶対服従よ。もちろん、自分で起動終了をする事が出来るし、もちろん、停止中でもあなたが彼女を呼べば、自動的に起動するように設定してあるから、彼女自身に関して工藤君が煩う事はない筈よ」
「……オレの声で反応する、のか?」
「工藤君の声紋を入力してあるの。だから、基本的にはあなたの声にしか従わないわ」
もちろん、工藤君自身が命令すれば、他の人の言葉にも沿う事も可能だけど。
志保はそう言うと、新一に薄くて丸い掌サイズの小さな装置を渡した。
「本体はこの部屋にあるけど、これから呼び出せるわ。これはエミッター。定期的なメンテナンスはもちろん必要だけど、本体はここにあるのだから、工藤君が何かをする事はないし、今すぐに持っていっても構わないわよ」
「持っていって……って」
そんな犬や猫の子供じゃあるまいし。あっさりと告げる志保に、新一はそれを受け取ったものの戸惑いを隠せなかった。
丸くて薄い……まるでブローチのような大きさのそれ。
相変わらずA.Iは、嬉しそうに新一に絡みついている。しっとりと質量があるのがとてもリアルで、正に驚きだ。
「それに、持って行って貰わないと、彼女が可愛そうだわ」
言っている意味を計りかねて新一が小さく首を傾げると、博士が言いにくそうに口を開いた。
「『A.I』には、主人に対して愛と忠誠を捧げるようプログラムしてあるんじゃよ。よって、主人に捨てられると、データは初期化するしか手がないんじゃ」
設定された相手の命令しか聞かず、主人に対して過剰なまでの奉仕をモットーとするメイドホログラムとして生まれた『A.I』は、初期設定された新一に拒否されれば、その存在価値を失い、自ら全てのデータをフォーマットするよう設定されていたのだ。
もちろん、これは躊躇するであろう新一の態度を見越して、2人が仕組んだプログラムである。
しかし、当の新一は知る由もない。
「工藤君……よもやあなた、折角生まれたこの子を殺す気?」
殺すも何も、たかがフォーマットではないか。しかも、さっき起動したばかり……と言おうと思った新一だったが、止めた。
何故なら、その存在しないはずなのに、しっかり質量を保ち、あどけない仮面を被った愛らしい少女の瞳が、今にも泣き出しそうに潤んでいたのである。
「マスターは……私のこと……お嫌いですか……?」
彼女から初めてまともにそう声を掛けられ混乱した。
混乱した新一は言葉の意味よりも、只のホログラムが、泣けるのか!?と、この際どうでも良い事を胸の内で自問していたのだが。そんな新一に、志保はあっさりと言い放つ。
「喜怒哀楽は人並み以上よ。嬉しければ喜ぶし、悲しければ泣きもする。……仕事の性質上、痛覚は無くしてあるけれど、危険察知能力は、きっと工藤君以上よ」
「痛みも何も……攻撃されたら、質量を0にしてしまえば済む事ですから」
ちらりと志保に視線を移し、ほんの少しはにかむようにそう言って、再び新一を見上げる。
「ずっとお慕いしています。きっとマスターのお役に立ちます。だから、お傍に置いてください……My master」
「……う」
縋るように見上げられ、言葉を失う。
「もし……もし、私の存在がお邪魔でしたらどうか……マスターの手で私のメインプログラムのスイッチを切って下さい」
メインスイッチ切ったら、次に起動する同時に初期化されるわよ。と、端から志保が口を挟む。
そんな事を言われて「はいそうですか」と彼女を停止出来る筈もなく。
そんな新一の態度を見て、A.Iは益々悲しそうな顔をした。しかし、それを振り切るように口元に微笑を湛え、ゆっくり新一から離れた。
「マスターは心優しいお方。只のホログラムでしかない私にも情をかけて下さるのですね。……大丈夫です。私は連続稼働に耐えられない身体です。このまま終了せずに240時間過ごせばオーバーロードします。そうすれば……」
「こ、壊れるのか!?」
びっくりして問う新一に、A.Iはゆっくりと首を振った。
「いいえ。例えオーバーロードしても、リセットしてしまえば大丈夫です。簡単に治りますから」
その言葉にほっとするものの、その後の志保の台詞が、新一を絶望の淵に突き落とした。
「でも、再起動すれば初期設定に戻るのよね」
結局。
「……全てあなたを思っての事よ?工藤君」
私と博士の好意を無駄にしないで頂戴と言い添えて、新一の頭を無理矢理縦に振らせたのだった。