Fairy tale 3




それは美しい少女だった。
長い黒髪は漆黒で、まるで絹糸のように滑らかなそれは、歩く度に彼女の背を波打ち、白粉も紅もさしていないと言うのに、その素肌は雪のように白く真珠のような光沢があり、口唇は愛らしく艶やかだ。
それにも増して惹き付けていたのが、彼女の瞳だった。
どこまでも続く澄んだ青空のような色を湛えた双眸は、意志のある強さがあった。真っ直ぐで、どことなく硬質で、だけど暖かい、双玉。

王宮で、王子が少女と初めて見(まみ)え瞬間、彼は彼女にあっさりと心を奪われた。
王宮には見目麗しい美姫がごまんと居る。その全てが王子の心に留まろうとする者達ばかりだ。しかし、普段はそれ程女性に興味を示さない王子だった。
その彼が、彼女に視線を向けたまま離す事が出来なかったのだ。

「── 失礼、姫。よろしければお名前をお教え頂けませんか?」
突然目の前に現れた王子に、娘は僅かに目を見開いた。
娘は、今日初めて王宮に上がったばかりだった。しかし、顔は知らなくとも、目の前の人物がこの国の第一後継者である事は理解出来た。貴族には許されぬ紋章を縁取った衣装に、その少しクセのある柔らかな黒髪の上に戴いている冠。

この国の王子の振る舞いとは思えぬその謙虚な態度に娘は驚き、そして小さく微笑んだ。
「王子様、私は貴族の娘ではございません。白魔法使いである母の共で初めて王宮に上がった者にございます。どうか、お戯れは……」
「私は戯れなどで、そのような事を言っている訳ではありません」
王子は心外と言った顔で娘を見た。

「私は貴女に心を奪われたのです。……ですから、せめてお名前だけでも教えて頂けませんか」
そう懇願する王子だが、娘は決して己の名を口にはしなかった。
「お戯れを。私は魔法使いの娘。気安くお声を掛けて戴けるような存在ではございません」
こうしているだけでも、不謹慎なのだ。……いや、それだけでは済まないかも知れない。
しかし、相手は譲らなかった。
「それは関係ないでしょう。身分など……」
「王子がご存知ない筈がありません。私共魔法使いの血を引く者は、王族との関わりはなるべく避けねばならぬ身。私はこの度、次代白魔法使いとしての資格を得て、王宮に上がる事を許されました。ですから、私の事など忘れて……そっとしておいてくださいまし」
ドレスの裾を捌き、優雅に一礼して、辞する事を請う娘に、しかし王子は首を縦に振らなかった。

「せめて……名前だけでも」
彼女の名を知りたかった。しかし、娘は答えることはなかった。

「真名は誰にもお教え出来ません。……例え、王子様の命であっても。私は魔法使いの娘なのです」
「なら、貴女を何とお呼びしたら良いのです!?」
「名など、呼ぶに及びません。……もう二度と御前に拝する事のないように務めますから」
娘は修行のために王宮に上がったのだ。母である白魔法使いの後を継げるようにと。……今後、王子と逢う事などありはしない。

娘は王子の許しを得る事なく、彼の前を去っていった。頑なな娘ではあったが、それが正しいのだ。

魔法使いの血は、王族の血を汚す。故に王宮にあがれるのは王族に近い血を持つ貴族の妖精達だけで……例外的に白魔法使いだけが登城を許されているのだ。
魔法使いの血は王族の血を穢すものだが、その力は彼等にとって必要な物であったから。

娘は、そんな次代の白魔法使いであった。





美しい魔法使いの存在は、時をおかず王宮に広がった。
しかし皆、遠くからその姿を見るに留まっていた。
何故なら彼女は魔法使い。彼女と交わればたちまち血は穢れ、貴族としての地位を失ってしまう。美貌の娘ではあったが、誰も彼女に近付こうとは思わなかった。
……只一人を覗いては。

「もう、此処に来るのはお控え下さいまし」
娘は、彼女の為にのみ用意されていた王宮の一室で、日々修行に励んでいた。この部屋にやって来るのは、母である白魔法使いと、招かざる訪問者。
「だって、貴女が会っては下さらないから」
しれっとした声でそう言い放つのは、この国の王子。彼は、初めて逢ったその日から未だ彼女に心を奪われたままであった。
王子の訪いに対し、常になく厳しい表情で迎える娘に、王子は静かに詰め寄った。

「私達がこうして話すだけでも、私の血が穢れるというのですか?触れただけでも穢れると?」
「……そんな事は」
王子は彼女の手を取ると、その指先に口づけた。

「た、戯れは……」
「戯れ戯れと……私は真剣です。……この真摯な想い、分かりませんか?」

世間知らずな王子には、己の行動が危険を孕んだものであることが理解出来なかった。対して娘の方は、その事を充分承知している。
彼女が彼を遠ざけようとする行為は王子の為ならず、己自身の為でもあった。

……しかし、娘自身も目の前の男に惹かれずにはいられなかったのも事実。
頑な娘の心を溶かしたのは、王子の想いとその誠実さ。彼女も、まだ年若い娘に過ぎなかったのだ。











2人の仲は、程なくして露見した。
王子は兎も角、娘の方は覚悟していたようだった。王子の心を惑わす魔法使い程、危険な存在はない。
彼女さえその気になれば、王子の血を穢す事も出来るからだ。
この国で、王の直系の血を引く唯一の存在である王子の血を穢されれば、血が絶える。
娘は次代の白魔法使いの資格を剥奪され、王宮を離れる事になった。
本来ならば、処刑されてもおかしくはなかったのだが、この国で最も強い力を持つ白魔法使いである母である対面を慮っての事だった。

娘は王宮を出た後、元居た処には戻らなかった。一族に類が及ぶのを恐れた娘は一人離れ、国の東側に広がる『白の森』へと逃れていった。
その森は他の妖精達が滅多に足を踏み込まぬ場所。広大な森には、特にこれと言った物もなく、常春の国であるはずの妖精の国で唯一そうでない場所だった。
白の森と呼ばれるのは、鬱蒼と茂る緑の木々すらも覆い隠そうとするかのように立ちこめる霧の所為である。
この濃霧の中では、まどもに歩く事も出来はしない。しかも、常に高い湿度を保つその地はジメジメとして、とても生活出来るような環境ではなかったのだ。

しかし娘は自ら進んで、その森に引きこもった。
彼女の一族は、代々白魔法使いを輩出してきた、由緒ある家柄である。しかし、王家の怒りに触れればその地位は失ってしまう。力よりも血を尊ぶ妖精の一族にとって、王族は絶対なのだ。その血が延々と続いて行く事が、国の繁栄に繋がる。……そう信じている。

娘には強い魔力があった。次代の白魔法使いと望まれた妖精である。それは当然の事だった。
そんな彼女には、自分の死期が近い事も充分に承知していた。
それはもう、すぐそこまで来ていたのだ。

「姫!」
霧の向こうで誰かが呼んでいた。
娘はゆっくり振り返ると、小さく微苦笑を浮かべた。
「姫などではないと……何度も申し上げましたでしょう?王子」
濃霧の向こうから姿を現した王子に、彼女は普段と変わることなくそう応えた。

それは、2人の関係が露見する前と全く変わりなく……王子に恨みなどまるで抱いていない、彼が知るいつもの彼女だった。

「今になっても、貴女は私に名を教えては下さらないではありませんか」
ムッとする王子に、娘はただ微笑むだけだった。
「……そんな事より、何故此処に来られたのです。貴方はこの国の大事な王子。今になっても、私の元に訪れるなど……」
例え王子と言えども、このままでは立場が拙くなる事は必至。
彼は既に側近達から魔法使いの娘の事を忘れるようにと、そして妃を娶るように何度も諌言されている。しかし、彼は一向に首を縦には振らなかった。

「私は……私がこんなにも不甲斐ないばかりに、貴方にこのような目を合わせてしまった。責任を取りたいのです。私は貴女を幸せにしたい。例え結ばれる事はなくても、貴女の幸せを守っていきたいのです」
「王子……」
娘は知っていた。王子は何時だって真剣だった事を。その想いに一点の曇りもなく、純粋で……故にそれが危険な感情である事を。
娘は拒めなかった。拒み続ける事が出来なかった。彼女だって、彼を強く想っていたから。
そして、それは密かな野望を抱くまでに育ってしまったのだ。


「好きなんだ……愛してる」
真摯に告げる言葉。過去何度もそう言われ、そして娘も応えてきた。
しかし、今はもう出来ない。

「未だに私の事を想っていただいている王子の心、嬉しゅうございます。……ならば」
「ならば?」
薄く微笑んでいた娘の顔が引き締まった。
「ならば、一つだけ私の願いを聞き届けては下さいませんか?」

「私に叶えられる事であれば何なりと」
それは、初めて王子に請うた願い事だった。だから嬉しそうに王子は請け負った。
娘は安堵し微笑む。「その言葉に二言はございませんわね」と念押しして、そして彼女は請うたのだ。

「ならば、今すぐ私を殺めて下さいませ」
絶句する王子に対して娘は至って涼しげな顔で微笑んだ。



「私の生命は直に尽きます。……それは、かなり以前から知っていました」
娘には未来見の力を自在に使うことは出来なかったが素質はあったのか、その為制御出来ずに、時折己の未来を垣間見る事があった。
彼女は、そう遠くない未来に、自分がこの世に存在しなくなる事に気付いていたのだ。

「それは……一体どういう事なんだ!?」
病気、それとも事故で、なのか。妖精の寿命は長い。2人はまだ、ほんの百年も生きてはいなかった。老いることなく数百年生き続ける事が出来る妖精族にとっては、病気にすら滅多に掛からない。
「私は、王によって放たれた刺客の手によって落命するのです。……それが宿命なのか、運命なのかは判りませんが」
瞠目する王子に娘は笑って答えた。……まるで、他人の人生を語るかのような淡々とした声で。

「私は元々、宿命や運命なんて信じてはいないのです。でも、これは、私自身が視た未来だから。……だから、間もなく私は死にます」
「何故……何故、王が貴女を殺めなければならないのだ!こんな処にまで追いやって、それでもまだ足りないと……!」
怒りを露わにする王子に、娘はくすくす笑った。
「だって、貴方がこうして来てしまうから。……後顧の憂いは取り除いた方が良いとお考えなのです。王にとっても、そして貴方自身にとっても」
「そんな……!」

「私が死ぬ事はどれだけ抗おうとも変えられぬ事実。……でも、その手段は……今ならまだ間に合います。どうせ殺されるのならば、只命じられたままに動く刺客よりも、王子……貴方の手に掛かって逝ける方が、私は何倍も嬉しい」
それはまるで悪戯の誘いをかけるような気安さで、物騒な事を願い出る。王子はたまらず手を伸ばした。そのまま引き寄せて、強く抱きしめる。

「何故、生きようとしない!私の軽はずみな行動で貴女が死ぬと言うのなら、私はもう二度と貴女には逢わない。逢いには来ない。……貴女にはずっと生き続けて欲しい。生きてくれるだけで……それだけで私は満足出来る」
「でも、私は満足出来ませんから」
「え……?」
魔法使いの顔の見る王子に、娘は穏やかに笑って言った。
「貴方に二度と逢えずに生きていくなんてそんな愁傷な事、もう私には出来ませんから。それならばいっそ、死んだ方がマシですわ」
一方的に想いを募らせていたのは王子の方だった。王子だけが我構わずとこの若き魔法使いの娘に想い入れていたのだと思っていた。
しかし、顔にも口にもほとんど出さなかった若い魔法使いの妖精の想いは、目の前の王子よりも強かったのだ。

「でも、只では死んであげない」
彼女はにっこり笑った。
「魔法を掛けるの。長い時間を掛けてゆっくりと作り替えていくの……私の血を」
魔法使いの血は、決して穢れている訳ではない。只、最も尊い血を受け継ぐ王族の血とは混じり合わないだけなのだ。

「私の命は尽きるけど、私の血は続いていく。私にはたくさんの姉妹達がいるから。……彼女達が私の血を繋げていってくれる」
「……一体、何を言って」
「だから王子、貴方もその血を途絶えさせてはならない。1日も早く貴方に相応しい姫を娶り、その血を残していかなければならない」
「そんな……私は、貴女以外を愛する事など……」
「それでも、血は残して頂けなければ、私の計画が潰れてしまいます」
「……姫?」
「私は、私の血を未来に送るの。私の血と貴方の血が交われるように、私達は何よりも血を尊ぶ生き物だから。だから、貴方もその血を残して貰わなければ。私達の血は、遠い未来で結ばれるの。そういう魔法を掛けるのよ」
王子の、霧でしっとりと濡れた衣装に頬を寄せながら、娘は夢見るように呟いた。

「……つまり、生まれ変わると。そういう事なのか」
輪廻転生を繰り返して、未来に託そうと……そういう事なのだろうか。
しかし、王子の言葉に娘は首を振った。
「いいえ。私は、生まれ変わりなんて信じていないし、例え生まれ変わったとしても、その心は私のものなどではないわ」
この想いは、私だけのもの。私以外の誰のものでもない。

「なら……」
判らないと呟く王子の頬に、娘はそっと指で撫でた。
「……想いは、新しく生まれるものなのよ。貴方の想いを受け継いでくれる子孫が生まれるかも知れないけれど、それは貴方自身の想いではなく、その子孫の想い。それは、私も同じ事」
だって嫌でしょう?前世の因縁で、過去に好きだったから、現在も好きでいるなんて、そんなまるで他人の気持ちを引きずっているような想いなんて。
「だから、私は死んでもこの気持ちは誰にも渡さない。……だけど、この血は未来に託すの。それくらいの我が儘なら、子孫もきいてくれたって罰は当たらない筈よ」

木の葉が、さやさやと泣いていた。深い霧の中、王子も魔法使いの娘の身体もしっとりと濡れていて……しかし、何故か不快感はなかった。

「……だけど……私は、貴方を殺める事なんて……そんな事……」
苦悩に歪む王子の表情を見て、娘はゆっくりとその胸の中から抜け出した。
「ごめんなさい。……それでも、私は貴方の手に掛かりたい。そうした方が、一族にとって更に私の死が重要性を帯びてくる。……だから」
娘は、口の中で何かを口ずさんだ。それは呪文のようであり、歌のようでもあった。高くもなく、低くもなく。双眸を静かに閉じて、辺りに立ちこめる霧を裂くように流れる詠唱。

ふいに、王子の身体が動いた。
腰に履いていた剣に手を掛けると、躊躇うことなく鞘を払う。
「──なっ!」
それは、自身の意志とは関係ない力だった。引き抜かれた剣は一点の曇りもなく、白い森に姿を現した。
「……貴方は、強情な人だから」
娘は微笑み、王子の剣は、真っ直ぐに彼女の元へと向かった。

躊躇いもなく突き刺さった切っ先は、大した衝撃もなくすんなりと、娘の胸を正確に貫いたのだった。

「……っ!!」
微笑を浮かべながら倒れ込むその身体を、王子は驚愕の眼差しのまま抱きかかえた。
「どうして、こんな事を……!」
「……私は我が儘な女だから。我が一族すらも利用する為に……どうしても、貴方の手に掛かりたかった」
それが、真実。
「……姫!!」
「だから、私は姫などではないと……」
苦しい筈なのに、娘の顔は穏やかだった。
「……貴方が……最期まで名を教えてくれなかったから……っ!」
その言葉に、娘はうっすらと笑った。
「本当は……ね。まだ名前がなかったのよ。白魔法使い候補となった者には名は与えられないの。その地位に就いて、初めて国王から名を戴くのよ。……知らなかった?」
「でも、通り名や通称くらいは……」
「それは、私の我が儘……。私の愛した人には、真名だけを知っていて欲しかった。……だけど、それももう、叶わぬこと」
だけど……。とそう言って、彼女はせき込んだ。
「姫!」
「もし、許されるのなら……王子……貴方が私の名を付けて……」
「私が……?」
娘は頷いた。消える前に、愛した人に名を呼んで貰えるようにと、ささやかなそれは願いだった。

疲れたのか、瞼を閉じたままそう長くない時間を静かに過ごす魔法使いの娘の頬に冷たいものが跳ねた。
耐えられなくなった王子の涙だった。
その感触に、娘は薄く双眸を開く。

「……泣かないで。私は、貴方の微笑んだ顔が好き」
もう満足に微笑むことすら出来なくなった娘が、それでもそう言って慰める。彼女の瞳はまだ光を失ってはいなかった。

蒼穹を思わせる、彼女の青い瞳。

「……青」
「な、に……?」
「青子……って。私は貴女のその青い瞳が好きだから」
素敵ね……。と、青子は嬉しそうに言った。
「ありが、とう……。私は……大空のように大きく広い心を持った妖精なんかじゃないけれど……がっかりしないでね?」
青子はそれだけ言って、再び瞳を閉じた。

そして、最期の力を振り絞り、強い念を生み出す。

── 私は、この世で一番愛した者の手に掛かって死ぬ。王子は、私の愛を踏みにじり、そして裏切った。その報い、願わくば忘れないで。この恨みが晴れるまで、王子に呪いを。王子に不幸を……!

白の森を切り裂くように解き放たれた思念が四方八方に飛び交い、それは益々力を帯びて森から飛び出す。
真っ直ぐに、彼女の血を繋ぐ者達の元へと。

その思念は快斗の頭の中にも入り込んできた。
「……青子……?」
(我が一族は、いずれその身分を剥奪されるわ。だけど、王家への思いを決して忘れる事なく生き続けなければならない。でないと、未来で私の血は、貴方と混じる事が出来ないから。……だから、思いを憎しみに代えて、延々と綴っていくのよ)
もう声も出なくなった青子が、そう思念で語りかけてくる。
「あお……」
(貴方には、悪者になってもらって申し訳ないけど……許してね。そして、己の欲の為に一族すらも利用する私を……)




── 我が一族の誇りに掛けて、未来永劫、王子に呪いを。王子に不幸を……!











「快斗!快斗……っ!!」
取り乱した花嫁が、花婿に縋り付く。

式の最中に突然硬直し倒れた快斗は、そのまま控えの間に運ばれた。婚礼は一時中断を余儀なくされ、女王を始め、皆険しい顔で固まってしまった王子を見つめるしかなかった。
「……これは……既に石化しています。王子の身体は、何者かによって、石に変えられた……」
寝台に寝かされた快斗をみていた白馬は、重くそう告げるしかなかった。
「何者かなど……そんなの、あの魔女の仕業に違いないでしょう!」
普段は無邪気な青子が、珍しくヒステリックに叫んだ。

「快斗がこんな身体になったのも……全て、全て、あの呪いの所為なのよ。それ以外に……!」
「落ち着きなさいな、青子ちゃん」
「陛下……でもっ!」
取り乱した青子とは打って変わって冷静な女王は、石と化した王子を見つめ、それから呆れとも諦めともつかぬ溜息を漏らした。

「白馬」
「はい、陛下」
「……この愚息は、生きているのかしら?」
「恐らく……呪いが解ければ、元の肉体に戻る筈です」
しかし、今の段階では、どうすれば術が解けるのか、白魔法使いにも判らなかった。
白馬の答えに女王はさして落胆を見せずに「そう」と呟いただけだ。

「つまり……この子は何時でも元の姿に戻り、王子としての地位を失う事はないと言う事ね」
「……は?」
女王の言葉の真意がつかみ取れずに、白馬は眉を寄せた。傍にいた青子も目を丸くして女王を見つめる。

女王は凛とした声で、周りにいる側近達に人払いを命じた。それに従い出て行こうとする青子と白馬を呼び止めて、そして室内には石化した快斗を含め四人が残った。

さて。と、女王が言った。
「白馬、悪いけど、その石像を壊して頂戴」
今からお茶にしましょう。と言わんばかりの気楽さで、女王は物騒な事を宣った。

「へ、陛下!?」
慌てたのは、白馬とそして青子である。
こんな姿になり果てたとはいえ、この石像は確かにこの国の王子なのだ。
壊してしまったら……もう二度と復活出来ない。

「なんて事をおっしゃられるのです、陛下!」
青ざめた顔を青子は両手で覆い叫んだ。
「そんな事をしたら、快斗は……快斗は……っ!」
「だから、落ち着きなさいな」
女王は、相変わらずのんびりとした口調でそう宥めると、白馬に微笑みかけた。

「随分腕を上げられたようね、白馬。尤も、その程度の力はないと、とても白魔法使いの称号は与えられないけれど」
「……へ、陛下」
突然そう切り出され、……ようやく白馬は合点が行った。


女王陛下は、全てを御存知なのだ。


「それで、石に変えられたはずの哀れな息子は、今どこに居るのかしら?」











鐘が鳴る。婚礼の鐘が。

新一の耳に、その音は届かない。でも、分かる。
今日は、この国の王子と貴族の姫の婚礼の儀が行われる。国中を挙げての祝福の中、新一は辛そうに瞳を閉じた。

祈ってる、愛おしい人の幸福を。……だけど、そんな想いに反して心が揺れる。それが一番正しい事なのに、胸の奥に潜むどす黒い感情が、じわじわと新一を喰らっていく。
頭を何度も振って、その暗い感情を消し去ろうとする。けど、それでも抑えられずに新一は胸を掻きむしった。





新一は、屋敷を飛び出した。
深い深い霧の中。新一は行き先など考えずに走った。
さやさやと、木の葉が木々を鳴らす。まるで泣いているように、小さな露が苔生す地面に降り続いた。
いつもなら姉の施しのお陰で決して身体にまとわりつかない湿気が、今は髪に衣服にも露は襲い、新一の身体はしとどに濡れた。
新一自身が施しを解いたのだ。だって、そうすれば……泣いていても全て霧の所為に出来るから。

泣きたいなんて思っていない。……なのに、どうして溢れてくるのだろう。新一の意志に反乱を起こした涙腺は、何時まで経っても治まってくれなかった。
「……っく」
泣きながらの全力疾走は苦しいものだと、新一は思った。そう思えた自分が少し滑稽で、新一はようやく走るのを止めた。
胸からせり上がってくる辛い感覚は、きっと息苦しいからだ。別に、あの男の事で胸が軋んでいるのではない。
必死になって自分自身を宥め賺して思い込ませて……新一はキッドの事ばかり考えている。

彼が王子などではなく、只の『キッド』であれば……新一は幸せになれただろうか。

少しでも……幸せになれる可能性はあった?
意味のない仮定に、新一はそれでも考えた。そうやって快斗の……キッドの事ばかり考えていたから、だからそれは突然起きた様に感じた。

一際強い風が吹いたのを新一は気付けずに、新一が顔を上げるよりも早く、目の前に誰かの気配を感じた。

それは幻のように、新一の前に現れた。

「あ……」
色を無くした森の中。真っ白な霧の中で佇む影。
純白に身を包みんだ異国の衣装。同じ色の外套が足下まで流れて小さく舞っている。

そんな色の少ない空間の中に、彼はしっかりと存在していた。
「新一……」
口唇が、そう動いた。声ははっきりと聞こえた。……だけど、信じられない。
新一は立ち竦んだまま動けなかった。

新一が身じろぎしたら、幻は消えてしまうかも知れない。新一が声を上げたら、魔法は消えてしまうかも知れない。
だから新一は動けなかったし、声も出せなかった。
只、彼の双眸がどうしようもないくらいに潤んでいた。

白い霧の中で、彼の表情は判らなかった。そして、黙ったまま新一に向かって腕を伸ばす。
彼は、指先まで真っ白だった。
「迎えに、来ました。新一……私と一緒に生きましょう」
優しい声だった。穏やかで柔らかで……それだけで、新一の身体を包んでしまえるような、そんな声。

欲しくて、欲しくて……どんなに抑えても願わずにはいられなかった現実が、そこにあった。
伸ばされたままの腕。それは、新一に向かって差し出されているのだと……そう実感した時、新一は無理矢理心を抑え付けた。

「……もう、騙されるのはたくさんだ」
それが現実であれ幻であれ……これ以上、新一は自分が傷つくのを許さなかった。
彼はキッドではない、王子だ。
王子はこの国を継いで繁栄させ続けなければならない。そのような者が、どうして再び新一に向かって手を差し伸べると言うのだ。

新一は、彼の一時の感情に翻弄されたくはなかった。
その手を取って、そして再び引き離されでもしたら……新一はもう生きてはいけない。

「消えろ。オレの前に二度と姿を現すな。とっとと──」
失せろ。と、叫ぶ前に、新一の身体が激しく揺れた。
それは、一瞬の出来事だった。……キッドの手が新一の腕を掴み、強く引き寄せたのだ。そのまま、彼の胸の中に抱き込まれる。

「言わないで……そんな悲しい事、私は聞きたくない」
キッドの声は、まるで泣いているかのように震えていた。本当に泣いているのかも知れない。新一はそれを確かめたくて顔を上げた。
しかし、彼の双眸を確認する前に、新一は口唇を奪われてしまった。
強引に口唇を寄せ、強く押し付けてくる。その切なくて甘い口唇に、新一は溜まらなくなる。
この幻は、現実だ。触れているその身体は明らかに生身で暖かかった。口唇の温度は高く、新一の口内を支配せんとする彼の舌は熱い。

途端に幸せだったあの頃へと時が遡る。

好きだと言われた。驚いたけれど、悪い気はしなかった。むしろ、そう言われた心が心地よかった。
何でもないふりをして、……だけど、どんどん惹かれていった。本当は、最初から好きだったのだ。
瞳の色が王子に似ているから。その艶やかな声が、王子に似ているから。そんな風に思いながら、本当はたった一度や二度逢っただけの存在よりも、満月の夜にだけ訪れる、異国を旅する白い魔法使いの方が、ずっとずっと──!

だけど、彼は魔法使いではない。魔法使いには決してなれない高貴な血を受け継ぐ、この国の王位継承者。
新一が初めて好きを自覚した、愛おしい人。

切なさを含んだ甘い口付けを、新一は強引に解いた。
両手を彼の胸に置いて、強く押し付けた。

「……こんな所で、遊んでいられる身分じゃねーだろ、お前は」
今日は、この国の王子の婚礼の日。
国中が待ちわび、そして惜しみない祝福を捧げる日。

彼は、新一が独り占めして良いような相手ではない。

「それとも……オレを側室にでもするつもりか……?」
……まさか、その為に迎えに来たとでも?

「まさか!」
暗い考えに低くなった新一の声に慌てたように、キッドは首を振った。
「私は自ら選んだのです。この国の繁栄よりも、新一、貴方と共に生きる事を。……だから一緒に」
生きましょう。

「なっ……お前っ。バカ言ってんじゃ……!」
「バカな事?……やめて下さい。私の真摯な想いを、貴方は『バカな事』とおっしゃるのですか?」
それまでになく真剣な眼で新一を見つめるキッドに、新一は目を見開いた。
「……キッ」
「この国は、王子など居なくても続いていく。国は、王家の存続とは関係ない」
言外に王家が滅ぶ事を示唆しているように話すキッドに、新一は青ざめた。
「お前は、王家の……直系の血を引く妖精なんだぞ。それを……」
「王家が滅んでも、国は滅びはしない。例え国が滅んだとしても、民は滅びはしない。それに、私は確かに現国王の血を引く者だが、私が跡を継がなくても王家の血が完全に途絶える事はない」
貴族と呼ばれる妖精達は、少なからず王家の血を引いている。特に大貴族である青子などは、かなり濃い血を持っているのだ。……だからこそ、王子の花嫁にと望まれたのだが。

「それに私はもう選んでしまったのですよ。国王としてこの国を治める者として生きるのではなく、……貴方と共に生きていく事を」
「お前は……」
「それに『快斗王子』はこの世を去りました。彼は婚礼の途中意識を失い、そのまま逝ってしまったのです」
恐らく数日中には国葬が行われる事でしょうね。と、さして大した事でもないように、さらりと言った。
しかし、それに驚愕したのは新一だ。

「お、おま……一体、何言って……」
「だから、貴方の前にいるのは、この国の王子ではなく、只の魔法使いのキッドなのです」
実は魔法は使えないんですけど。 と、悪戯っぽく微笑う男に、新一は何を言って良いのか判らなくなる。

「女王がそう決めたのです。私は『快斗』を殺す事までは考えていませんでしたが、女王陛下は優柔不断な事をしている王子に酷くご立腹されたようで」

出奔するなら、二度と帰ってこない覚悟でやるべきでしょう?

女王は、只の石像の快斗王子を見下ろして、そう言ったそうだ。
何時まで経っても戻る訳のない石像を後生大事に保存しておく意味など、彼女は持ち合わせてなどいなかった。
彼女は全てを知った上で、この王宮での王子の居場所を無くしたのだ。

例え出奔しても、何時か王子の地位を捨てた事を後悔して戻って来るなどという無様な真似は、絶対に許さない。
『王子が婚礼当日に出奔だなんて、醜聞も甚だしい。ならばいっその事、死んだ事にしてしまおう』などという理由ではない所が、女王らしかった。

「だから、心おきなく末永く、新一と一緒に生きていける。……母には感謝しています」
魔女の森に向かっていたキッドを追って、『快斗の死』を知らせに来た白魔法使いからその後の全てを知り、快斗はこの先の人生を『キッド』として生きて行く事を改めて心に誓った。

「新一、愛しています。これからの私の人生の全てを貴方に捧げます。もちろん、貴方が私と共に生きられないと言うのならば、遠慮なくおっしゃって下さい。……だけど、私の想いを疑う事だけはやめて欲しい」
新一の前に跪き、恭しく頭を垂れ、新一の返答を待つキッドの態度に、新一の心は揺れた。

現実なのに……これは夢のようだ。全てが新一の都合の良い方向に事が運んでいる。
だから、決して良い境遇に育ってきた訳ではない新一にとって、彼の手を取る事に……素直になれない。
それに。
……こんな、出来損ないの妖精の新一を過ぎた想いで包んでくれた姉妹達。女しか住まう事のない魔女の館での只一人の男。穀潰しの新一の面倒を見、愛してくれた彼女達を裏切って、この男と共に生きる事など、許される筈が……。


「何を躊躇っているの、新一。さっさとその手を取りなさい」
突然現れた第三者の声に、新一は驚いて振り返った。
「ど、うして……」
新一の目の前に紅子が居た。その隣には志保が。そして、背後には園子や歩美を始めとした新一の大切な姉妹達の姿があった。

新一とは対照的に、キッドは微苦笑を浮かべている。

「新一、貴方は幸せになる権利があるのよ。その幸せが目の前にあるのに、何を躊躇う事があるの?」
長い黒髪を揺らして紅子が問う。新一は躊躇うように顔を背けた。

「そんな事……オレには出来ない。キッドは……王子なんだ。魔女が呪うべき、憎き王子……」
そうだ。彼女達にとって、王子に呪いを掛け続ける事こそが全て。そして、彼の不幸を望む。
……そんな相手の手を易々と取る事など……新一が出来る筈がない。

しかし、そんな新一の言葉に対して、呆れたように首を竦めたのは志保だった。
「あら。私達の呪いは成就したわ。この国の王子は居なくなったのだもの。私達が永年呪い続けてきた王子は、婚礼の日に成就した。こんなに素晴らしい事はないわ」
「王子に世継ぎが残せなかった。……血の断絶は、私達に再び王家を呪う必要性を無くしてしまった。私達も永年の宿命から解放されたのよ。それもこれも、新一のお陰よ」
園子が楽しそうにそう笑った。

キッドが新一を呼んだ。
「新一、私を見て。……本当の私は、魔法は一切使えない。しかも、今日はまだ日が高く、月の力も借りられない。なのに、この魔女の森で、こうして新一と共に居られる事が出来ている。……この意味が、判りますか?」
白魔法使いでさえ、満月の月の力を借りなければ、この森に足を踏み入れる事は出来ないのだ。……なのに、この地に居続けるに不可能な筈のキッドが、事も無げに存在している。

新一はキッドに言われ、初めてそれに気付いた。……そして、彼が何を言いたいのかを理解する。

彼は、新一の前に姿を現すより前に、魔女である彼女たちに認められていたのだ。
魔女の加護があれば、この地で生きる事が可能となる。逆に彼女達の加護が無ければ、普通の妖精など、すぐに息絶えてしまうだろう。

「彼が本当に新一の事を想っている事が判ったからよ。戯れで手に掛けた訳ではなかったと彼が証明したから、私達は認めたの。……それに、きっとそれが新一、貴方の幸せになるから」
志保はほんの少し不機嫌そうに肩を竦めてそう言った。

彼の償いなんていらなかった。彼女達の誰一人として、そんな物は欲しはしなかった。
只、望むのは、魔女の一族でありながらそうではない、奇異な生まれ方をしてしまった新一の幸福な未来。

「私達は、新一の幸せを祈っている。……魔女としての宿命に押しつぶされそうになった時、そんな私達を支えてくれたのは、新一、貴方の存在だったから」

妖精達からは、魔女と忌み嫌われ、こんな深い森の奧に住まざるを得なかった一族。例え、呪(かし)りの宿命から解き放たれたとはいえ、彼女達はこれからもこの深い霧のたちこめる白い森で生き続けるのだろう。
なのに、新一だけが幸せになるなんてそんな事が……本当に彼女たちの望みであるのだろうか。
「本当に……良い、のか……」
思わず呟いた新一に魔女達は微笑んだ。

「良いのよ。もう、自分自身の幸せを第一に考えても良いの」
「私達も、これからは自分の幸せを見付けるわ」
「恨んでもいない相手を呪わなくても良くなったんだから、もう充分幸せ。ホント、肩の荷が降りるってもんよ」
「もう、悪いことしなくても良いんだよね、新一お兄ちゃん」

躊躇う新一に、彼女たちは口々にそう言った。戸惑う新一の傍で、キッドが微苦笑を浮かべている。

「それに、もし新一が自分の幸せを拒否するのなら、貴方はその所為で最も大切な人を不幸にしてしまうわね」
私はそれでも、別に構わないけど。
志保は冷たくそう言ったが、口調に反してその口唇は僅かに笑みを浮かべていた。

「不幸……?キッドが?」
「そうですね。私にはもう帰るアテもありませんし、貴方に手を払われるのなら、私は一人で国を出る事になるでしょう」
「国を……出る?」
驚く新一に、キッドは肩を竦めた。
「だって私は正体不明の魔法使いに過ぎませんから。この国に『キッド』なんて妖精は存在していないのです」
なら、必然的に国を出る事になるでしょう?以前、貴方に語って聞かせたように、諸国を気ままに旅する只の魔法使いになるのです。
「貴方に語った事、これで半分は本当になりますね」
キッドはそう言って、さも嬉しそうに笑った。その笑みに、後悔の欠片も見られない。

それを見て、新一も決心した。

「……なら、オレもその旅に連れて行け」
「新一?」
「オレは何も出来ないかも知れないけど、お前の話し相手くらいになってやれる」
だから、一緒に生きていこう。

「一緒に生きるって言う事は、一生共に生きていくと言う事ですよ?」
「お前も、オレと一生一緒に居られるのか?」
「……そんな事」
当然じゃありませんか。

呆れたように嬉しそうにキッドはそう言い放って、しとどに濡れた新一を抱きしめた。





私は、私の血を未来に送るの。私の血と貴方の血が交われるように。
私達の血は、遠い未来で結ばれるの。そういう魔法を掛けるのよ。




遠い過去に掛けられた魔法は確かに存在した。
彼女の血は、長い時を経て魔女の血を持ちながら、魔女でない存在(もの)を生み出した。
けれど、想いを育んだのは彼女の力ではなく、それは確かに彼等だけが成したもの。
想いだけは、どんなに強い魔法でも、只のまやかしにしかならない。



長い黒髪をなびかせた、青い瞳の娘が居た。
彼女は2人に祝福を贈ると、そのまま天へと吸い込まれるように、静かに消えていった。























「新一、まずはどの国に行きたい?」
旅支度を終えた新一に、キッドがそう尋ねた。

「隣国から順番に回ってみようか。それとも、行きたい国がある?」
「そうだなぁ……」と思案する新一に、キッドはとっておきの言葉を投げかける。

「じゃあ、シィールに行こうか。あそこには、まだ読んだことのない書物がたくさん待っているよ」
魅力的なその提案に、新一は一も二もなく頷いた。


気ままに向かう旅だ。時間も制約もなく、好きな時に好きな場所へ。この世で一番大切な人と、共に行く旅路。



その後2人は色々な場所を旅する事になる。
行く先々、人々は2人を暖かく迎えてくれる、それは楽しい旅。
中には、少し困った出来事もあったし、2人が離れている間に、祖国存亡の危機に陥っていたりもしたのだが、どんな困難にも負けずどんな時も2人は一緒だった。


2人の幸福は、これからもずっと続きます。







Fin








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Fairy tale
2003.11.05〜2004.01.15
Open secret/written by emi tsuzuki
11 2004.01.06
12 
2004.01.15

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