Inquiring Mind
イカレた格好した泥棒は、毎夜のように新一の元を訪れる。
その衣装は、犯罪を犯さない時でも普通に着用するらしい。……気狂いじみてる。だけど、悪くない。
午前0時を過ぎる頃、かたりと人工的な音が響いて、次いで白い影が浮かび上がる。
────やっぱり今日も、気狂いじみてる。
新一は含み笑いを漏らした。
「………どうされました?」
挨拶もなしに話しかけてくる、気障で格好つけた泥棒に、新一は「別に」と、何でもないように頭を振った。
キッドは黙って軽く首を竦めた。何はともあれ、機嫌の良さそうな新一なら悪くはないと思ったようだ。
足取り軽く、近付いてくる。
新一は、この非常識な真夜中の訪問者にこれまで只の一度として、客人に対する相応のもてなしというものをした事はなかった。
その代わり、彼を迎える時の新一は何時もベッドの上。
自室ではなくゲストルームなのは、こちらのベッドの方が大きいから。新一の部屋のは普通のシングルベッド。男二人が寝転がるには狭すぎる。
キッドが新一を抱かえて、初めてこの家に踏み込んだ場所がこの部屋だった。
あまり生活感のない部屋に、大きめの寝台が一つ。そのシーツの上に座り込んで、出迎える。
彼にとっては、こちらの方が嬉しいもてなしだろう。
新一にとってもこれは都合が良かった。……どうせ、この男が逢いに来る目的は、そういうコトだし。
ベッドの傍までやって来たキッドを新一は見上げた。カーテンを開け放った窓から外界の光が仄かに室内を浮かび上がらせている。
キッドの姿も、淡い光の中で微妙な陰影を帯びていた。
その影がすっと膝を折り、恭しく新一の右手を取った。そして、厳かに指先に口づける。
「……昨夜とは違う香りがする。ボディシャンプー、変えました?」
「ああ。博士ん家が貰った中元だか歳暮のお裾分け。何本も貰ったんだ」
匂いに敏感なんだな、と言うと、キッドは笑った。
「当然でしょう?貴方が身に纏う香りに気付かない訳がない」
立ち上がるとそのままベッドの端に片膝を付いた。そのまま新一の漆黒の絹髪に触れる。
「シャンプーは変わっていない。昨夜と同じ、シトラス・ミントだ」
「シャンプーは切れてなかったから」
髪に口唇を寄せるキッドをくすぐったそうに頭を揺らす新一。
キッドが名残惜しげに離れる。
この気障な魔術師は、スマートに事を始めようとする。まず最初に触れる時は、厳粛であるべきだと己を律しているかのようで、少し笑える。
思わず微笑を浮かべると、キッドは嬉しそうに口唇にキスしてきた。
シルクハットが邪魔で鍔をついと押し上げてやると、キスしたままそれを床に転がした。
モノクルが邪魔で飾り紐に触れると、今度は「ダメ」と明確に断られた。
「何で?」
「『キッド』だから」
新一の薄い口唇を舌でなぞりながら、そう囁く。
「ま、別に良いけど……」
言葉は濃厚な口づけで遮られた。
するりと口内に舌が入り込む。新一の舌を躊躇うことなく絡め取り、情熱的になっていく口づけに、新一はゆっくりと瞳を閉じた。
触れ合う事も、キスも、新鮮で。
それ以上の事も、もちろんこの男が初めての体験で。
次第に意識が霧散していくのを感じながら、新一は思った。
こういうコトって、相手が誰でも同じように感じられるのだろうか。
「………すると、詰まるところボクはサンプルと言うことですか?」
白馬探は、内心混乱した頭を抱えるようにして、目の前の男に訊いた。
「その通り」
彼は艶のある声で、さも楽しそうに明るく応えた。
白馬は益々理解出来なくて、それまでの出来事を記憶の引き出しから取り出し検証しようと試みた。
そもそもの発端は、警視庁内の廊下ですれ違った事だった。
その時、たまたま彼の胸ポケットから落ちた万年筆を拾い上げたのが白馬だった。
それを手渡して、それで終わりになるはずだったのに。
……何故か彼と此処で、こうして二人きりで、差し向かいで座っている。
室内に漂うアルコールの微かな匂い。
些かクラッシック風な内装も調度品も申し分ない、此処は某ホテルの一室だった。
からん。と、氷の欠片が鳴った。グラスを傾けるとガラスと氷が重なり合って心地よい音を奏でる。
彼はそれを弄ぶかのように数度回して、グラスの縁に口づける。
本当に口づけているだけだ。触れているだけ。只、口唇を琥珀の液体で濡らしている。
からん。と、氷の溶ける音が響いた。テーブルの上、白馬の前に置かれたまま飲まれることのない、グラス。
短い沈黙が降りた後、ふわりと空気が揺れた。
空調とは違う、濃密な空気を纏った新たな風。
暫くして、その風が目の前の人物が身じろぎした所為だという事に気付いた。
「誘っておいて悪いけど、オレあまり長居は出来ないんだ。今日中に家に戻んないといけないからさ」
これは最優先事項とばかりに告げて、笑う。少し意地の悪い表情で。
「都合が悪いのなら、構わずそう言ってくれ。別に無理にとは言わないから」
時計の針は既に夕食時を遙かに回っていた。
「……都合が悪ければ、そもそもこんな場所に来ませんでしたよ」
今日は、食欲なんて沸かなかったなと思った。
「興味がなければ、断っても構わないんだぜ?」
その時初めて、白馬は目の前のグラスに手をかけた。
グラスを鳴らして、それを一気に仰ぐ。
その様を見て、新一は嬉しそうに微笑った。
格調高いホテルの寝台は、最高級の心地良さを与えてくれる。
真っ白なシーツの上に、新一の身体は無防備に投げ出され、相手の男を誘っていた。
女性とは明らかに異なる肢体。
滑らかで艶やかな、シミ一つない美しい肌が白馬の前に晒されて、決して引き起こされる筈がないのに、抑えられない情欲が灯る。
「あ。言っておくけど、オレの身体に痕付けるのだけは禁止な」
思い出したように新一は告げた。
白馬は、ベッドに居る新一の身体の上に乗り上げた。
「それ以外は何しても構わないからさ」
自分の上に覆い被さった白馬を見上げて新一が笑う。
「では……何から始めましょうか」
「そうだな。……取り敢えず、基本は抑えておくべきかな?」
しなやかに腕が上がり、白馬の首に絡みついた。そのまま引き寄せて、柔らかく口づけを落す。
それは次第に濃厚になり、互いの体温が熱を持ち始めていく。
仕掛けた新一の主導権をもぎ取って、白馬が深く重ねる。貪欲に舌を絡め、彼の口唇を犯していく。
「……ん…ぁ」
長いキスに吐息が漏れる。その声に煽られるように、白馬は角度を変えて何度も味わった。
濡れた音が響き、二人は離れる。新一が切なげに吐息を漏らす。頬は紅潮し、うっとりと濡れた瞳で白馬を見上げている。
そのあまりにも淫蕩な表情に、白馬は理性の壁を食い破って、本能が剥き出しになる瞬間を感じた。
「────あぁ!!」
新一の中に、熱い欲望が穿たれて、思わず新一は悲鳴を上げた。
きつく締めつける熱い粘膜。そこは、白馬の熱に隙間なく絡み付き淫らに蠢く。
まるで、こちらの方が喰われているのではないかと、錯覚してしまう程の、強い快感。
「あ…ん…っ、は、くば…ぁ……!」
腰を高く抱え上げられ、前と後ろの両方に強い刺激を与えられ、新一は嬌声を上げた。
自らも腰をくねらせ、淫らに快楽を追う。
「あっ……ひぁっ!……そ、こっ…だめ…ぇ……!」
「ココですか?……ココにもっと欲しい?」
新一の感じるポイントをゆるゆると突き上げる。焦らされるような動きに、思わず非難の声が上がる。
「いやっ……もっと!……あぁ!」
「素直な身体、……かなり慣れてますよね?」
ボクは、男は初めてなんですよ?
なのに、君という人は……どうしてこんなにも強く引き寄せるのですか……!
スプリングの効いたベッドが悲鳴を上げる。忙しなく、甘い吐息を漏らし続ける新一の喘ぎと、跳ねる度に飛び散る汗が艶めかしく、白馬を更に欲望の淵に誘い込む。
「んっ……んんっ!!」
焦らす事を止め、本能のまま突き上げると、新一は苦しそうに呻いた。だけど、それでさえ恍惚とした表情を崩さない。
「ああ……すごく、イイです……工藤君。……持っていかれそう……ですよ……」
益々激しくなる抽送に新一は狂った様に歓喜の声を上げた。
淫乱に揺れる、濡れた身体。
欲しいモノは必ず手にすると謂わんばかりに、激しくねだる。
白馬は征服出来る歓びに、絶頂への階段を駆け昇る。
「だ、だめ…っ……も…達くっ……ああっ!」
最後に激しく突き上げられて、新一は白馬から解放された。
行為の後の余韻に震える度に、たっぷり注ぎ込まれたその場所から、彼の迸りが溢れてくる。
初めての相手との新鮮さに、身体中が痺れて動けない。
「良かったですよ、工藤君」
抱き込まれて髪を梳かれ、耳元で優しく囁いてくる白馬に、新一はうっとりと吐息を吐いた。
「ん……オレも」
良かった。と、声を出さすに呟く新一は、満足そうに瞳を閉じた。
「……今夜は、このまま泊まりましょうか」
「ダメだって……オレ、今日中には家に帰る、から……さ」
睡魔に捕らわれそうな声で、まるで甘えるように言う新一に、白馬は苦笑を漏らした。
「なら、そろそろ準備をした方が良いかも知れませんね。……もう、11時過ぎてますよ?」
「────え!?」
白馬の言葉で一気に覚醒した新一は、急いで起き上がり、身体が軋むのも構わずバタバタとバスルームに向かった。
10分としない内に出てくると、髪の毛から雫を垂らしながら、あたふたとネクタイを締めている。
「髪くらいちゃんと乾かさないと、周りの人に変に思われますよ?」
白馬はやんわりと忠告すると、タオルを持ってきて拭いてやる。新一は、そうされていることまで気が回らないのか、シャツの袖を留めている。
「あ、お前はゆっくりしていけよ。支払いは済ませてあるし。明日のチェックアウト時まで自由に使ってくれて構わないからさ」
新一はそれだけ言って、素早く白馬に軽くキスすると、相変わらずの忙しなさで部屋を出ていった。
白馬はそんな慌てた態度の新一を少し呆れ顔で見送っていたが、暫くの後、小さな溜息をついて自らもバスルームへと消えていった。
タクシーの運転手を急かした甲斐があって、新一は日付が変わる前に自宅に帰り着いた。
少し安堵しながら門扉を開けて、家の中に入る。
現在は、新一しかこの屋敷に住んでいない為、邸内はしんと静まり返り、主人を出迎える。
取り敢えず、急いで服を着替え、出来ればもう一度シャワーを使いたいと考えながら自室へ向かおうとした、その時。
……ふいに、人の気配を強く感じて立ち止まる。
よもやと思い、新一はその場所に向かい扉を開けた。
「………あ、キ…ッド」
カーテンを開け放った窓を背景にして、いつもの彼が静かに佇んでいる。
新一の胸が、一瞬どきりと跳ねた。
「……ごきげんよう」
何時もより……少し硬質な響きを感じるのは、気のせいだろうか。
戸口に立ち尽くす新一に向かって、彼はゆっくりと歩み寄る。身動き出来ずに身体が強張る。
「どうなさいました……?」
「……別に」
なんでもないと頭を振って、ようやく身体を動かす事に成功する。新一の方からも数歩近付いた所で、彼に手を取られた。
「今晩は……事件でも?」
「……まあ、な」
「それは、お疲れさまでした」
キッドから、何処か冷えた雰囲気を感じるのは、新一の心の持ち方が歪んでいる所為だと、自分に思い込ませる。
何時ものように、柔らかく腕を引かれ、そっと彼の胸の中に抱き込まれる。相手に身を預けるように、力を抜いた時だった。
「………昨夜とは違う香りがする。またボディシャンプー、変えたのですか……?」
彼の言葉に、大きく心臓が跳ねた。思わず息をのんで身体が硬直してしまう。
「……名探偵?」
「……あ、ああ。き、昨日のヤツはあまり好きな匂いじゃなかった……から」
「そうですか。……でも、シャンプーも変えられたのですね。これは、ホワイトムスクですか?」
「────っ!」
絶えられなくなって、言葉を失う。そんな新一にキッドは冷ややかな声で囁いた。
「帰宅されたばかりの身体にしては、あまりにも強い芳香を放ってますね。……まるで、何処かでシャワーを使ってきたみたいに」
「キッド……!」
絶えられなくなって思わず叫ぶと、彼の凍えた双眸とぶつかった。
その時になって、ようやく新一は、彼が心底怒っている事に気付いた。
「浮気、しましたね」
こんな関係になってから、怪盗は探偵をずっと名前で呼んでいた。
愛しげに……まるで大切な宝物に魔法をかけるがごとく甘く蕩けるような声で。
だけど、今夜の彼は違っていた。新一の名前を呼ばなかった、最初から。
「名探偵」と、他人行儀に労って、その実ずっと怒っていたのだ。
「浮気、しましたね」
甘く優しく、冷酷な声。
優しく抱きながら、そんな言葉を放ってくる。
新一は、言い知れぬ後ろめたさを覚えた。
「…………浮気なんて……してない」
「───見え透いた嘘を」
「お前を裏切った覚えはねぇ」
今度は、些か強気な口調でそう告げた。
キッドに責められる謂われなんてないはずだ。
「名探偵……私は今、事実を訊ねている。裏切るとか裏切らないとか、そういう問題じゃない」
「………」
「『寝た』のでしょう?私以外の『誰か』と」
新一は、口唇を微かに震わせて何かを言おうとしたが、結局黙って頷いた。
「……しかも『男』と」
その言葉に思わず顔を上げる。
「……キッド、……何で」
知っている……?
突然襲ってきた戸惑いと不安に顔を歪ませる。そんな新一の表情を、キッドは冷ややかに見据えた。
「相手が女性だったなら、何も言わなかったけどな。……よりにもよって男を相手にされたのでは、私の立場がない」
「お、お前、何で知ってる!そんな事!」
己の置かれて居る立場を忘れて、思わず怒りを露わにする新一に対して、キッドは冷笑を浮かべた。
ぞくり、とくるような、残酷さを内包した冷たい瞳。
新一は、背筋の悪寒からか、意志に反して身体が小刻みに震えた。
「それにしたって、相手が悪過ぎますよ?只でさえ、あの男は気に入らないというのに。……そんなヤツを相手にされて、冷静でいられるほど人間は出来てませんし、許してあげられるほどお人好しでもありませんよ」
モノクルそのままの、無機質な色を湛えた瞳が冷たく新一を射る。
その冷えた瞳を目にした時、思わず泣き出したくなった。理不尽な責めに理解が及ばなくて、只彼の瞳に釘付けになる。
「何とか言ったらどうです」
「……オレは………オレは悪くない」
そんな頑なな新一の態度に、とうとうキッドは行動に移した。
抱いていた身体を突き放し、そのまま足払いを仕掛け、床に叩き付けた。
新一の視界をなくしたほんの一瞬の隙を付くように、キッドが彼の両肩を強く床に押し付ける。
「───痛っ」
何が起きたのか、咄嗟に判断出来ない表情で見上げる新一の顔を、キッド冷えた双眸が貫く。
「あまり私を馬鹿にしないでいただけますか」
眼差しはとても痛くて、彼の冷えた感情の向こう側に、新一は深い闇が見えた気がした。
堪らなくなって、目を瞑った。まるで逃れるように、隠れるように。
だけど、キッドはそんな新一を許さない、認めない。
ふと、吐息を肌に感じた。瞳を閉じていると、錯覚してしまいそうになるくらい、甘く優しい吐息。
「……うんと、優しくしてきたのにね」
「キッ……ド?」
甘く囁く声に、恐る恐る瞼を押し上げる。キッドの顔がすぐ目の前にあった。
「大事に大事に。……絶対に壊したくないし、イヤな思いもさせたくなかったから、大切に愛してあげていたのに」
なのに、こんな風に裏切られるなんて、あんまりだと思いませんか?
「う、裏切ってなんか……!」
「あの男と寝たのは、充分過ぎるほどの裏切りですよ」
キッドは笑みを浮かべて、無情にもこう言ってのけた。
「刺激、が欲しかったのですか?優しいだけでは、物足りなかった?それとも私との事、……終わりにしたかった?」
「ち、違う!キッド、オレは!」
「……何がどう違うんだよ、名探偵」
「キッド……」
「ちゃんと、説明してみろよ。オレにも理解出来るようにさ」
蔑んだ瞳で見下ろしてくる。体裁を取り繕うことなく、なりふり構わず責めてくる言葉。
新一は、どうしてこんな事になったのか理解出来なかった。
確かに、非は自分にあるのだろう。他の人間と身体を交わす事が浮気ならば、新一は白馬と浮気してしまった。
新一自身に『浮気』という概念はなくても、事実はそうだ。
だけど、そこまで考えが及ばなかった。
只、新一は体験してみたかっただけだ。
……今までこの手の世界とは無縁な生活を送ってきて、キッドと出逢い身体を交わす関係になるまで、恋らしい恋など数えるほどもしなかった。
ましてや、異性と深い仲になるなんて皆無だった。
新一にとって、初めて身体を重ねた相手はキッドだった。
焦れったくなるくらい、優しく新一に触れてくるキッドに呆れる時もあった。女になったみたいで不機嫌になる時もあった。だがそれ以上に、大切にされてる事実が堪らなく嬉しくて幸福だった。
でも、何度も逢瀬を繰り返している内に……判らなくなってきた。
新一は、キッドに愛されているから抱かれているのだろうか。
抱かれたから、愛されたのだろうか。
愛してなくても、抱かれる事が出来るのだろうか。
愛がなくても、感じる事が出来るのだろうか。
考え出したら止まらなくなった。
これは、新一の中に現れた新たな謎。バカみたいなその謎に、新一の探求心が火を着けた。
しかも、今まで立ち入った事のない世界に足を踏み入れるのは、堪らなく新鮮で。
自分の身体が他人に対して、どう反応するのか見てみたかった。それは、純粋な好奇心。
快楽、嫌悪、安らぎ、不快、愛情、憎悪……どんな感情がやって来るのか、まるで想像がつかない。
だからこそ、知りたかった。ものすごく。
新一は『性』に疎かったのではない。……何も知らなかったのだ。
肉欲を伴った愛が、どういうモノなのかを。
自分の興味のある分野だけに頭でっかちな知識ばかりを詰め込んで、新一は人として最も大切な感情の一つを育てなかった。
その結果が、コレだった。
「……判んねーよ、オレ。何でお前がそんなに怒ってんのか、マジで判んねーんだよ。……オレ、そんなにお前に対して悪い事、した?」
戸惑いがちに瞳を揺らしながら、それでも真っ直ぐにキッドに訊ねる。
「オレ、お前の事、ちゃんと考えてた。アイツに痕なんて付けさせなかったし、お前がやって来る時間までには家に戻るつもりだったし。……お前に迷惑かけないように、相手も人選したつもりだった」
「それは『思いやり』なんて言わない」
そう言うのは、『姑息』って言うんだよ。
「キッド……オレ……本当に、悪いことした、のか……?」
「オレに対する、サイテーの裏切り行為だな」
キッドの言葉に、新一は息をのんだ。その声の響きは、先程とほとんど変わっていなかった。
許さないと、無言でそう言われてる。
……許してくれないのなら、新一にはどうしようもなかった。
「……もう、オレの事……嫌いになった……んだ」
今にも泣き出しそうに声を震わせながら、消え入りそうな程小さく呟いた。
潤んだ瞳は今にも涙を零しそうで、何時まで経っても表情を変えないキッドの沈黙に耐えかねたように、顔を逸らした。
この場から逃げて、それで解決するのなら、新一はそうしたかった。
がむしゃらに走って、身体をバラバラに壊してしまいたかった。
………胸が、とても痛いから。キッドが黙っている時間が長ければ長い程、心臓が捻れそうな苦しみが続く。
冷たい床面に片頬が当たる。こんな固い床に組み敷かれたままで、長い時間が過ぎた。
本当は、それほど経っていないのかも知れない。けれど、新一にとっては数秒が数時間にも思える程、長く感じられた。
暗く重い沈黙。
成すがままに身を横たえていた新一の身体が、ふいに軽くなったのは突然だった。
思わず顔を向けると、彼はゆっくり立ち上がり新一を見下ろしていた。
「キ、ッド……」
モノクルのレンズが鈍く反射して、その顔を一層硬質に見せる。
新一は、冷たく見下ろすキッドを見つめながら、かろうじて上体を起こした。
「───好奇心が訳もなく強いのは、名探偵の悪い癖だな」
「………」
「癖と言うより、性格か。どっちにしても愉快じゃない」
キッドはそれだけ言うと身を翻した。ゆっくりと窓辺に向かう。
「キッド!」
切羽詰まった声で呼び止める新一に、キッド立ち止まると煩わしげに振り返った。
「生憎だが。……オレは、他の男のモノになったお前なんて、欲しくないから」
だからココに居る意味はない、と言外に滲ませて、そのまま窓を開け放った。
ごうっ、と一際強い風が室内を吹き抜けた。咄嗟に片腕で顔を覆う新一の視界が次に映したのは、カタカタと揺れる窓枠に優美に靡くカーテンだけで。
……怪盗の姿は霧散していた。
裏切ったつもりはなかった。本当にそう今でも思っていた。
だけど、相手がそう感じてしまったのなら……新一にはこれ以上抗うことなど出来なかった。
愛していなかったのかも知れない。
愛されているのが心地良くて、自分から愛そうなんて……思っていなかったのかも知れない。
でも、もうどうだって良い事なんだ。
月の夜が良く似合うあの怪盗は、もう新一の前に姿を現す事はない。
取り敢えず、今回の事は「経験」を重ねた、と言うことにしておこう。
悪くはなかったし。
楽しんだし。
好かったし。
これで終わりにしておこう。
そう思って心に蓋をすれば……気分はうんと楽になるから。
興味は辺り一面に散らばっていて、新一は内心嬉々としてその一つ一つを検証する。
好奇心を駆り立てて止まない『謎』は、何時だって新一を魅了して止まない。
「大変だね、工藤君も」
現場にやって来た新一に、高木刑事が声を掛けた。
「何がです?」
「刑事でもないのに、こんな現場にまで足を運んで貰って。……いや、うちはとても助かってるんだけど」
難事件は、ほとんど『おんぶに抱っこ』状態だし、と言って申し訳なさそうに苦笑する。
「そんな。……ボクだって、言うのも憚りますが、好きでここまで来ているのですから、高木刑事が気にする事なんてないですよ、本当に」
照れ笑いで言葉を返すと、彼は何故だか焦った表情で辺りを見回した。
「あー、いや。で、でも、事件は突然起こるものだし……何かと大変なんじゃない?その、デートとかドタキャンしたりして」
「大丈夫ですよ。そんなデートなんてしませんから。男と女なんて、日が暮れてからしか楽しくありませんからね」
新一はそう言うと、極上の笑みを浮かべた。
高木はその微笑に釘付けになった。と同時に胸の奥に鈍い痛みを感じた。
美しく浮かべるその笑みの奥に、暗く澱んだ空気が漂っている気がしたからだった。
事件をあっさり片付けて、懇意の警部には毎度馴染んだ感謝の言葉を贈られて、新一もそれに対し機嫌良く笑みを返し……それは普段の変わらない日常の一部だった。
だから、その次も何時もと同じように事が運ぶと思っていた、その時は。
大通りに面していないそのホテルは、ゲスト以外がロビーに入ってくる事は稀だ。
ロビーはとても洒落ていて、居心地も悪くない。何となく、秘密の隠れ家的な所も新一は気に入っている。
「えっ、今晩は無理!?……そう、なら仕方ないですね。大丈夫ですよ、ええ。……分かってますよ、ボクは何時でもOKですから。都合の良い時に連絡下さい。はは、もちろん。……じゃ、また今度」
ロビーのソファに腰掛けて話していた新一は、耳元からケイタイを外し、通話ボタンを切る。
「クソッ、使えねー女!」
思わず毒づき、そのまま乱暴に胸ポケットに突っ込んだ。
夜、一人で居るのは寂しい。以前は気にならなかったのに、最近は家で一人夜を過ごすのは苦痛で堪らなかった。
それからの新一は、一夜を女と過ごすことが多くなかった。後腐れのない、都合の良い割り切った生き方をしている女を選んで寂しさを紛らわせる。
なのに今夜は、折角此処までわざわざ出向いたのに、いきなりのキャンセルで予定が台無しになった。
相手に怒っても仕方がない。だが、家には帰りたくなかった。これからどうしよう……と、思案し始めた時だった。
押し殺した……穏やかな含み笑いが聞こえてくる。
新一は思わず振り返った。丸く並べられているソファが充分なゆとりを持って配置されている、その新一の丁度真後ろ側に人の背中が見えた。
まさか、近くに人が居るなんて思わなかった。気配は感じなかったのだ。
相手は、新一が振り向いた気配を察知したようだった。ゆっくりと相手も振り返る。
地味ではあるが、洗練されたスーツで身を固めた男。引き締まった威厳を漂わせるその風貌。しかしその瞳は、穏やかだった。
新一には、その顔にどこか見覚えがあった。素早く記憶ファイルを検索して名前を引き出す。
そうだ、彼は……。
「小田切……警視長」
思い出した。
小田切敏郎。警視庁刑事部の部長で、居合いの達人。……以前、新一がコナンだった頃、彼と関わった事があった。
子供であるにも関わらず、彼を正当に評価し敬意を払ってくれた人物。
元に戻ってからは関わる機会はなかったが、時折警視庁でその姿を垣間見た事はある。
……それにしても、とんでもない所を見られてしまったような気がする。
新一が少しばつが悪そうな顔をすると、小田切は口元を緩めた。
「もし、迷惑でなければ……そちらにお邪魔してもよろしいかな?」
低いテノールが新一の元に届く。
断る理由は見つからない。新一が小さく頷くと、彼は優しく目を細めて立ち上がった。
そのまま新一のいるテーブルにやって来ると、真向かいに腰を降ろす。
落ち着いた物腰が洗練された大人の魅力を引き立てている。暫くぶりにその姿を認めた新一は、どうして良いのか判らず、ぼんやりと見つめていた。
「そう言えば……こうしてゆっくり話す機会は初めてだ。工藤新一君」
「ええ……そうですね」
「君の事は、色々報告を受けている。……恥ずかしい限りだが、君がここまで我々に手を貸して貰わなければ解決出来なかった事件はいくつもあるだろう」
私からも礼を言うよ。とそう言って頭を下げる小田切に、新一は少し慌てた。
新一は、そんな事をして貰うために協力している訳ではない。
未だに子供じみた好奇心から抜け出せない。……それだけなのだ。
───好奇心が訳もなく強いのは、名探偵の悪い癖だな。
そんな言葉が浮かんで消える。
「……困ります、そんな事をされては」
微かに頬を紅潮させて、慌てるように手を翳す新一に、小田切は穏やかに微笑った。
普段はもっと厳格な面もちで部下を圧倒する刑事部の部長が、新一の前では何故かくつろいだ表情を見せていた。
そんな彼に同調するように、新一も肩の力を抜く。
「……小田切警視長は、誰かをお待ちなのですか?」
「いや。私の用件は済んだ。……このホテルのロビーは結構好きなのでね。時間がある時は、此処で一人の時間を過ごす事があるのだよ」
そう応えて、ふと思い出したように、口元に笑みを浮かべる。
「君は……今夜は振られたのかな?」
そう言って、少々からかいを含んだ表情を浮かべている。しかし直ぐに、そのプライペートを含んだ問いを詫びた。
新一は、少し困った顔で笑った。
「今夜の相手には振られました」
恋人と言わない所が微妙な不純さを感じさせた。しかし新一には、一夜を共にする女性が恋人とは、とても思えなかった。
……一人の寂しさを紛らわせている、その為に選んだ女。
相手もそれを承知で付き合っているのだから、文句を言われた事はない。彼が割り切って付き合う、そのどの女性にも。
「……それは……残念だったね」
穏やかに微笑し、そして「なら、この後の予定は?」とさり気なく訊いてくる。
その言葉使いに、新一はふと何かを感じた。
「さぁ……どうしましょう。ボクは一人暮らしなんで、誰も居ない家には、あまり帰りたくないんです」
何か、子供みたいですね。苦笑する新一だが、小田切は双眸を僅かに細めて見返してくる。
「帰りたくないのなら、帰らないという選択もできるのではないかね?」
「……え?」
何を言われたのか判らず、思わず聞き返す新一に、小田切は軽会話をするには些か真剣過ぎる眼差しでこちらを見ていた。
「良ければ、あちらのラウンジにでも行って話さないか?」
ロビーラウンジから、レストラン、そしてホテルの一室へと移動するのに、そう時間は掛からなかった。
人恋しかった。誰でも良かった訳ではないが、自分よりも遙かに大人で教養も豊かな男との会話は心地よかった。
寂しいと思う気持ちが和らいでいくのを感じた。知らず知らずの内に、心を許していた。
その暖かな包容力に惹かれたのかも知れない。
新一は、その瞳に吸い込まれるように小田切を見つめていた。彼が、自分にゆっくりと歩み寄ってくる。
どうして彼が近付いてくるのか、その理由が分からなかった。考えられなかった。
彼の左手が伸ばされて、そっと新一の頬に触れた。
温かで、労りに満ちた指先には、慈愛を感じた。
意味もなく、許されるのではないかと……そう思った。
その時初めて、自分の心が荒れていた事に気付いた。
荒れ果てた心が深淵へ誘って、新一を更に暗い闇の中へと引き込んでいく。
そんな自分の病んだ心を、この男は慰めてくれるのでは。癒してくれるのでは……。
救ってくれるのではないかと。
縋るように、新一の手が動いた。互いに引き寄せられるように近付いた二人だったが、先に抱き寄せたのは小田切だった。
何一つ抵抗する事もなく、新一は相手の胸の中に抱き込まれる。
その居心地の良さに、新一はうっとりと吐息を漏らした。まるで、子供の頃に戻ったみたいに安心する。
もうどうでも良くなって身体の力を抜いた時、ふいに新一の右手を取られた。
ゆっくりと持ち上げられたその指先に熱い息がかかり、戯れのように口唇を押し当てる。
その行為に、一瞬新一は過去をダブらせた。
この気障な魔術師は、スマートに事を始めようとする。
まず最初に触れる時は、厳粛であるべきだと己を律しているかのようで……。
その瞬間、脳裏で何かが弾ける音がした。
「────嫌だ!」
思わずその手を振り払い、両手で彼の身体を押し戻した。
そのまま数歩後ずさり、怯えた瞳で小田切を見る。肩が小刻みに震えていた。
「……どうかしたかね?」
突然の変貌に戸惑いを隠した穏やかな声が聞こえてくる。しかし、新一は激しく首を振った。
「判らない……何も判らない。────けど、ダメなんだ」
だってアイツが……アイツが言ったんだ。
男と寝るのは許さない、って。
「工藤君……!」
「済みません、御免なさい。オレ、どうかしてる……おかしいんだ。こんなの、こんなの……!」
新一は自らを抱きしめるように強く腕を抱いて、その場にうずくまった。
あの夜の出来事が今になってまざまざと蘇り、もうその事しか考えられなくて激しく頭を振った。
「オレは、……オレは裏切ったつもりなんてなかったんだ」
なのに、アイツがあんなに怖い目でオレを見つめてくるなんて信じられなくて。
だけど……あの時は自分の事ばかりで、相手の気持ちなんて微塵も気に掛けようともしなかった。
「……新一……」
「自分は悪くないって言うばかりで、結局謝りもしなかった。謝ることが悔しかったからじゃない……謝らなければならないという事実さえ、オレの中にはなかったんだ!」
「新一……!」
「アイツが、オレが裏切ったと言うのなら、オレがどんなに否定したって、もうどうする事も出来ない」
……けど、ならばもう繰り返さない。
「もうアイツとは関係なくたって、アイツが嫌がる事はしたくない、……したくないんだ!!」
「────新一!!」
自分を呼ぶ叫び声に、新一はようやく気が付いた。
恐る恐る顔を上げると……辛そうな表情をした男が見下ろしていた。
小田切ではない……見知った男だった。
ずっと逢っていなかった男の顔だった。
……どうして……此処に居るのだろう。頭は上手く働かず、ただ呆然と相手を見つめた。
次第に目の前がぼやけてきて、揺らいだ視界の向こうを探るように、無意識の内に手が伸びた。
口唇を震わせて、彼の名を呼ぶ。
不安気に、躊躇うように。信じられないというように……。
彼は、震える新一の全てを抱きしめた。
堰を切ったように泣き出した新一を抱きしめて慰めて、涙を拭った。
新一は皺になる程強く相手の服を掴んで、泣きながら震えていた。
長い間そうして、相手が落ち着くの待ち続けて。
そして、泣くことに疲れてしまった子供のように、ぱたりと泣きやんだ新一の頬に安心させるように口付けて抱き上げると、そのまま寝台の上に静かに降ろした。
「落ち着いた?」
静かに問いかけると、新一はこくりと頷き、涙に濡れた瞳で見上げた。
目を大きく見開いて、相手の姿を脳裏に刻み込もうとでもするがごとく、じっと見つめ。
「………キッ…ド」
確認するかのようにそう名を呼んで、その言葉にキッドが小さく微笑って応えると、また彼の双眸が涙に揺らぐ。
零れた涙をそっと拭って、そのま引き寄せもう一度抱きしめる。
「キッド……」
「……何?」
「……どうして、此処に……?」
「分からない?」
その問いに逆にキッドが訊ねると、新一は暫く逡巡したように黙り込んだが、ふいに顔を上げキッドと視線を合わせた。
「……オレの、都合の良いように……そう考えても良いのか……?」
こんな新一に、愛想尽かして見限って、あの夜彼は黙って出て行ったのに。
嫌われていないと。
まだ、想ってくれると……?
「オレは、これまでもこれからも、新一を一番愛してる」
「……嘘、だ」
だって、あんなに怒っていた。もう二度と顔も見たくないと言わんばかりの表情をしていた事を新一は覚えている。
頑なな新一にKIDは首を振った。
「オレは、怒ってなんてなかった。………オレは、只……悲しかったんだ」
初めて本気で深く人を好きになった。それまでの「好き」は全て色褪せて、新一しか見えなくなって。
なのに、彼の事を考えると、切なくて、苦しくて、不安で。
キッドの恋は、まるで夢のように成就して、そして彼はたくさんの愛を彼に与えた。
キスして、抱きしめて、愛を囁いて、大切に、壊れないように慈しんで。
本気で深く強く愛してた。
だけど、恋人の気紛れが起こした残酷な裏切りに、キッドの心は深く傷付いたのだ。
まるで自分が代わりの効く程度の存在でしかなかった事実を突き付けられたような気がして、辛かった。
新一には、この想いがまるで伝わっていなかったのだろうかとも思った。
新一の取った態度は、そのどれもがキッドを悲しませることしかしなかったから。
人を好きになり過ぎると、こんなにも弱くなってしまう。
それと同時に芽生える、我が儘な束縛心が支配する、独占欲。
それが言い訳になるとは思っていない。しかし……。
「オレは、新一に盗聴器を仕込む事なんてまるで躊躇わなかった」
その言葉に、新一は思わず目を見開いた。驚愕の奥に見え隠れする非難の色にキッドは項垂れる。
キッドは、相手のプライバシーなんて、気にも留めなかった。
恋人が恋人の全てを知りたいと思うのは当然の事で、法に触れようが触れまいが、そんな事は大した問題ではないと思っていた。
だって、キッドは夜しか彼に逢えない。逢えない時間を埋めるように、罪悪感を持つ事なく、彼のプライベートを侵した。
新一は気付かなかった。気付くはずがなかった。だから彼は自分のプライベートをキッドに晒した。
そして、彼が知りたくない事まで惜しげもなく。
「オレがお前の一挙手一投足に一喜一憂している事なんて、新一は知らなかったたろう?」
キッドは自分の犯した行為には触れず、そう言った。
恋人の、新一の取る些細な態度に喜んで、落ち込んで。
「だから、あの時の新一はオレを簡単に地獄に突き落としたんだ」
新一が、他の男の手を取った。
その男はキッドとは浅からぬ因縁のある人物で、己とは正反対に位置する敵で、新一と同じ探偵を名乗る男。
存在そのものが許せないとすら感じている男。しかも、誘ったのは新一からだなんて、泣きたくなるくらいの衝撃。
こんな裏切りはあんまりだ。
なのに、新一はそんなキッドの心などお構いなしに涼しい顔をして自分の前に姿を現した。他の男と寝てきたばかりの身体を、まるで何事も無かったかのようにキッドの腕の中に収まって……罪悪感など微塵も見せずに。
「……オレ、何も考えてなかった、お前のこと」
「新一……」
「信じてくれなんて言わないけど……オレ、本当にこれが悪い事だなんて考えもしなかった」
犯罪と名の付く事ならば、新一だってしなかった。恐らく、この関係が普通の異性間での恋愛でならば、浮気という意識が生まれていたかも知れない。
けど、二人は同じ性を持つ人間で。新一はこの関係が純粋な恋愛であるという認識が薄かった。
睦言は全てベッドの上で、身体の快楽だけが全てで。
食事したり映画を見に行ったり、ドライブに繰り出したりと、日常の生活に入り込む事のなかったキッドとの関係が普通の恋愛と結びつきにくかった。
何より、まともな恋愛経験のなかった新一だ。普通じゃない関係をどう位置づけるべきなのか判らなかった。
「愛している」と囁かれる言葉を素直に信じる程純粋ではなく、真夜中にしか現れない男に誠実を求める程浮世離れしていなかった。
だけど、本当は信じて良かったのだ。
否、信じなければならなかった。
新一を抱きしめてくる腕も言葉も全部真実で、その一つ一つに偽りなどなかった。もちろん、新一だって彼が嘘をついているなんて、考えていなかった。しかし同時に、彼がどれほどの深い想いで新一を抱いていたのかも考えなかった。
新一は彼を受け入れ、応えていただけで……自らが与えようなんて、まるで思いもしなかった。
「お前が居なくなってから……ようやく気が付いた。オレ、お前に何も与えなかったし、求めなかった。……只、受け入れているだけだって」
蒼く濡れた瞳がキッドを見つめた。
「オレ……寂しかった。お前が来なくなってから、寂しくて堪らなかった。一人で夜を過ごすのが辛くて、……だからまたお前を裏切った」
一人の夜を紛らわせる為に、毎晩のように女を抱いた。それまで知らなかった女の身体を、只闇雲にかき抱いていた。
「裏切りだなんて、思ってない。……それはオレが招いた事だろ?」
キッドが新一の元に戻っていれば、そんな事する必要なんて無かったはずなのだ。男としてのプライドが邪魔をして、そのくせ相変わらず彼の行動を隠れて見ていた。
新一の前に姿を現さなくなってからも、実の所、キッドは毎晩工藤邸を訪れていた。
強く彼を拒絶したキッドではあったが、どれだけ怒っていても新一を嫌いになんかなれなくて。それ所か、更に想いが強くなって抑えきれなくて。
せめて、その姿だけでも瞳に映したいと、女々しく通った数日。
そして、ある日を境に新一は家に寄りつかなくなった。
帰ってくるのは明け方で、それも着替えに寄る程度ですぐにまた家を飛び出していく。
元々、忙しい身分だから、家の中に籠もっている事はほとんどない新一だが、それにしてもこの行動は不自然だった。
自堕落な夜を過ごしている事に気付いたのは、暫くしてからだった。
新一が逢う女は、日々違っていた。只、一環して「出来た女」ばかりなのは判った。
本気と遊びを割り切った、大人の女。
新一の行動はキッドにとって決して愉快な事ではなかったが、怒りは沸かなかった。只、心配でならなかった。
……いや違う。心配に託けて、自分の行為を正当化したかっただけだ。
許されないのはキッドも同様。
そして、見ているだけでは抑えきれなくなって、彼の前に姿を現した。この期に及んで、まだ他人の姿を借りて。
「オレも大概女々しい男だと思う。……こんなオレはきっと新一には相応しくないかも知れない」
「キッ……ド?」
「でも、これだけは譲れないんだ。他の誰にも、……お前自身にも」
真摯な瞳でそう告げてくるキッドの瞳には、新一しか映っていなかった。
もう、悠長に構えて居られる状況ではなかった。今、キッドがここで彼に完全に背を向けてしまったなら、彼は本当にこのまま一生手の届かない場所に行ってしまう。
だから、その前にこの腕を引き寄せて、もう一度自分だけのものにしてしまわなければ。
新一の前から姿を消したのはキッドの意志ではあった。けど、やっぱり諦めるなんて事は出来ない。
考えなくたって、それは無理な事。
そして、こんな風にまた新一を縛ろうとして。
……だけど、例えそれが許されなくたって、もう構わない。
もう、自分の意志だけでは、この想いは抑えられないのだ。
キッドの瞳の奥に見え隠れする、愛故に暗く澱んだ闇。
抑えれば抑える程強く頭をもたげる、それは自己中心的な暗い欲望。
新一は、キッドの中にある「それ」を明確に読み取った。しかし彼はそんなキッド奥に潜む闇にまるで笑いかけるかのように、透き通った表情で穏やかに相手を見つめ返した。
新一の指が、そっと彼の頬を撫でる。そして、少し驚いたように瞳を揺るがせるキッドに告げる。
キッドの中にある欲は……新一の中にだって存在している、きっと。
「好きだ、キッド。……お前を、他の誰にも手渡したくないくらい」
あいしてる。と、告げてくる口唇の動きを読み取って、キッドは思わず強く新一を抱き寄せた。
「新一──愛してる」
「うん……オレも」
大好き。
知り合って、そして二人の関係が始まっていくつもの季節が通り過ぎたけれど、この時新一は初めて想いを言葉にして相手に伝えた。
一方的に受け入れるだけじゃなくて、新一も彼に与える、愛を。
互いに想い想われ。その感情に精一杯に応えて、与えて。
時にそれは暗く歪んでしまう事もあるかも知れない。綺麗事では済まされない想いも生まれるかも知れない。
けど、これが恋愛というものなのだと、新一は今更ながらに思った。
抱きしめられてキスして、それから互いの欲を解放する為に身体を重ねるのがそれまでの常だったけれど、今抱きしめてくるキッドの腕の穏やかで、新一の心はほんの少し不思議そうに首を傾げる。
そんな彼の心の内を察したのか、キッドが彼の柔らかでさらりとした黒髪を愛おしげに撫でた。
「出来れば、今夜はずっとこうしていたいんだけど……嫌?」
髪にそっと口づけて、囁くように問うてくる。
新一は、ゆっくりと首を振った。
「……オレも」
このままがいい。
新一は、穏やかに相手の体温を感じる幸福に酔う。
抱きしめられた身体そのままに、新一は腕をキッドの背中に回した。
そっと力をこめる。
キッドが穏やかに微笑んで、愛おしげに眼を細めた。新一も、今の幸福に満ち足りた微笑みを浮かべた。
彼が微笑ってくれるだけで、こんなにもこんなにも安心出来て、幸せで。
人の体温がこんなにも心地良いなんて、今まで何度も抱き締められたというのに、今みたいな気持ちになった事はなかった。
否。多分、気付かなかっただけ。
もっと色んな事を感じたい。そう強く思った。
自分から口唇を寄せたら、どんな幸せが待っているだろう。
彼の指に自分の指を絡めたら、どんな感覚が生まれてくるのだろう。
どんな風に感じる事が出来るのだろう。
どんな風に愛を伝えたら、もっと喜んでくれるだろう。
考え出したら止まらなくなった。新一の探求心に火が着く。
───好奇心が訳もなく強いのは、名探偵の悪い癖。
だけど、今度は笑って許してくれるだろう。
新一は小さく身じろぎすると、そっと彼を見上げた。愛おしげな微笑を湛える彼の口元を、新一の細い指がそっとなぞる。
止まらない新一の探求心。……これからは、もっとたくさん彼を知る為に費やされる。
Inquiring Mind
1 : 2002.04.27
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