ぼちゃ
「キィ……ガチャン」の音に、真っ先に気付いたのはかいとだった。
かいとは耳が良い。目も良い。嗅覚も。人間に比べると優秀だが、しかし他の動物たちと比べると、少し劣る。
まぁそれでも、人間よりは遙かに優れた聴覚で、かいとはそのあまり聞き慣れない音を耳にしたのだ。
そして、それが何を意味するものなのかを一瞬で理解する。
「くどうくんが来た!!」
かいとは両耳を高く立てて、窓にへばりついた。
外を見ると、かいとが好きでたまらない人物が隣家の門を閉めて、玄関に向かって行くのが見える。
「やっぱりくどうくんだ……!」
かいとの家のお隣さんは、滅多な事では帰ってこない。ここが彼の家だと言うのにだ。外泊し続けている悪いヤツ、とまでは思わないが、かいととしては一刻も早く戻ってきてほしいものだと常々願っていた。
そして今、視界の中に紛れもなく彼が居る。もしかして、かいとの願いは天に届いたのかも知れない。
そう思うと嬉しくて嬉しくて、思わず玄関に向かって走り出した。
ぱたぱたとスリッパの音を響かせてかいとが玄関に向かうと、そこには珍しく来客があった。
慌てて柱の影に隠れる。快斗は一般に人には好かれていない生き物なので、かいとの知る人間以外の接触は極力避けるようにと、志保に言い含められていたからだ。
柱の影に隠れて、そっと様子を窺う。
やって来ていたのは、人間の子供らしかった。わいわいと賑やかな声が玄関ホールに響いている。彼等の相手をしているのは阿笠博士だ。彼もまた楽しそうな表情で子供達に接していた。
「たのしそ……」
かいとは好奇心旺盛な生き物だ。賑やかな事は大好きな生き物だ。玄関で騒いでいる子供達が一体何をしているだろうかと、気になって仕方がない。
「……でも、出ていったら、しほにゃんにしかられる」
志保の言葉は絶対だった。それはご主人さまだからとか怖いからではなく、好きだから。大好きな人の言うことは何でもききたいと思うのは、純粋な気持ちだった。
でも、でも。と、かいとがジレンマに陥りそうになった時、ふいに静かに階段を下りてくる足音に気付いた。
「そんな所で何しているの?かいと」
志保は柱の影にこそこそと隠れているかいとの姿を捉え、怪訝な顔をした。
かいとの方はと言うと、突然声かけられて、一瞬総毛立った。
「し、しほにゃん」
びっくり眼で志保を見るかいとに、小さく首を傾げて彼に近付く。
「どうしたの?……って、今日は何か賑やかね」
ふと、甲高い声が聞こえてくるのに気付いた志保が声の方を見やる。玄関では、志保がかつて良く遊んだ懐かしい子供達が騒いでいた。
「しほにゃん……あれ、何?」
何をしているのか知りたくて堪らないかいとが、志保の白衣の裾を引っ張って、大きな瞳を更に見開いて訊いてくる。
そんな愛らしいかいとの姿に内心うっとりしていた志保だったが、賑やかな方に視線を向けてすぐに納得したように笑った。
「ああ、今日はハロウィンね」
「はろうぃん……?」
あっさりと言い放った志保だったが、かいとは聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「日本の風習ではないのだけど。……今日はハロウィンと言って、仮装をした子供達が家を回ってお菓子を貰う日なの」
取り敢えず簡単な説明をした志保だったが、かいとはお菓子の言葉に瞳を大きく輝かせた。
「おかし!?」
おかしくれるの?おれは?おれは?
慌てて玄関に駆けつけようとしたかいとを志保は手慣れた仕種で襟元を掴む。
「しほにゃん!?」
「お菓子を貰えるには条件があるの。まず、仮装しなくちゃね」
「かそう?」
「それから、お菓子を貰える家を探さなくちゃ。お菓子は何処の家でも貰える訳ではないの。ちゃんとハロウィンの飾り付けがなされていないと貰えないのよ」
「はろうぃんのかざり……」
「まだあるわよ。ちゃんと条件の整った家を見付けたらこう言うの「Trick or treat!」って。こう言わないと、お菓子貰えないのよ」
「……」
難しそう……と両耳を垂らすかいとに、志保は苦笑した。
「おや、こんな所で何しとるんじゃ?」
気付けば子供達は帰ったのか、博士が一人と一匹の傍まで来ていた。
「はかせ……」
かいとは縋るような瞳で博士を見つめた。
「何じゃ?」
「………おかし」
結局、欲望のままにそう告げたかいとに、博士は大きく笑った。
「かいとは甘い物には目がないからのう」
博士はそう笑いながら、余った包みをかいとに渡した。
かぼちゃマークのラッピングペーパーに包まれた中身はクッキーとチョコレート。
「はかせ、ありがと〜♪」
嬉しそうにクッキーを頬張るかいとに、志保は肩を竦める。
「博士、あまりかいとを甘やかさないで。……でないと何時でもお菓子が貰えると思っちゃうわ」
「まあまあ。今日だけの特別なお祭りじゃから。……な、かいと?」
苦笑してかいとに視線を移すと、既に彼は全てのお菓子をお腹の中に収めてしまっていた。
「……かいと」
呆れる志保を余所に、更にお菓子をねだろうとするかいと。
「ダメよ、お菓子はもうお終い」
「ええ〜!そんな……足りない」
口の周りを菓子くずで汚したかいとが抗議を声を上げる。しかし、志保の態度は冷たかった。
「言ったでしょう?お菓子を貰えるのは仮装した子供だけで、ハロウィンの飾りのある家でないと貰えないって」
「だけど、だけど!!」
不満そうに声を上げる。流石に食い意地の張っている快斗だけの事はあった。
「欲しかったら、ちゃんと仮装して貰える家に行くのね」
「………でも、しらない人の家に行ったらいけないって、しほにゃん言った」
ふてくされた声で口を尖らすかいとだったが、その時、ふと大事な事を思い出した。
「くどうくん!!」
そうだ、お菓子ですっかり忘れていたが、さっき隣家に主が戻ってきた。かいとは彼に会う為に家を飛び出そうとしていたのを唐突に思い出したのだ。
「工藤君?」
居るの?彼が?
まさか。と首を傾げる志保に、かいとは先程見た事を告げた。
「おれ見た。あれはたしかにくどうくんだった。くどうくんのにおいもした。まちがいない。おれ、くどうくんに会いに行ってもいい!?」
「……そりゃ、まぁ。工藤君なら、構わないけど」
かいとを知る、数少ない人間の一人だ。何より、かいとの拾い主でもある。かいとが彼に懐くのも仕方のない事だった。
「そう……彼、帰ってきているのね」
ふと志保は何かが思い浮かんだらしく、微笑を浮かべた。
そんな志保の白衣を引っ張り続けるかいとに、彼女は魅力的な言葉をかいとに投げかけた。
「ねぇ、お菓子。……工藤君から貰えば良いんじゃない?」
志保は普段使われていないクローゼットから、大きなテディベアを引っぱり出した。
立たせたら、かいとの身の丈はありそうな、なかなかに大きなぬいぐるみだ。
それは、きちんと服を着込んでいた。そのぬいぐるみの服を志保は剥ぐと、かいとに差し出す。
「これ、着てごらんなさい」
差し出された服は、かいとには見慣れない物だった。……普通の道行く人間達もこんなものを身につけているのを見たことがない。
「しほにゃん、これって……」
「仮装よ。普段人がしない格好をするの。そうしないと、お菓子が貰えないから」
ああ、仮装とはそういう事かと、かいとは納得した。いそいそと身につける。
シャツにズボンに、ネクタイは志保が締めてあげて。それからジャケットを着ると、その上からドレープの美しい一枚布を肩にあてられた。
「マントよ。……昔の人の防寒具。コートね」
「……ふーん」
初めて見るそれに、かいとは興味津々だ。
「カーテンみたい」
素直に告げるかいとに志保は思わず微笑んだ。
シャツとネクタイを除いて、全てが真っ白な服だった。
そして、今まで見たことのない、真っ白な帽子を被せられる。
「片眼鏡は……なくても別に構わないわね」
志保は一人で納得すると、かいとを姿見の前に立たせた。
「ほら、仮装の出来上がり」
実の所かいとは窮屈でならなかったのだが、どことなく楽しそうな志保の声に、不快な気持ちは一気に晴れた。
「しほにゃん、おれの耳が全部かくれちゃうけど、へんじゃない?へいき?」
「カッコイイわよ。似合ってる。……工藤君もきっと吃驚するわよ」
「くどうくん……!」
かいとはその人の名前を聞いただけで、気分が更に急上昇した。そわそわと落ち着かなくなる。
かいとの頭の中には「くどうくん」と「おかし」が交互に現れては消えている状態だった。
「さぁ、行きましょう」
志保に促されて、かいとは嬉々として駆け出した。そんな彼の後ろを追って、志保も玄関に向かう。
そのまま勢い良く飛び出したかいととは別に、志保はゆっくりとした仕種で靴を履き、開け放たれたままの玄関の扉を閉めた。それから、玄関脇に置かれたままになっているカボチャのランタンを取り上げると、かいとの後を追った。
志保が隣家の門まで来ると、かいとは大人しくその場で待っていた。他人に見られないようにと志保はそのままかいとを中に入れてそのまま玄関まで行くよう促した。
それから徐にチャイムを押す。
間隔を空けて数度鳴らすと、ようやく住人が出た。「はい、どちらさま」とインターフォン越しに尋ねる声にどことなく不機嫌な響きを感じて、志保は小さく苦笑した。
「こんにちは、私よ。開けてくれない?」
志保は至って落ち着いた声で話しかけた。相手も訪問者の正体を知って、いくらか安心したように「判った」と応えてきた。
先に玄関前までやって来ていたかいとは、喜色満面で扉が開かれるのを今か今かと待ちわびる。
鍔のある帽子が少し煩わしくて、少し動くとすぐに顔半分が隠れるほどずり落ちてくる。その度に帽子を押し上げて、まるで子供が我慢ならないとでも言うように身体を揺すりながら待っていると、扉の向こう側で鍵を外す音が聞こえた。
観音開きの扉の一方がゆっくり開かれて……そして、ようやくかいとは思い人と再会した。
「くどうくん!!!」
語尾にハートマークが5つは付きそうな喜びの声を上げて、かいとは一直線に工藤新一の足にすり寄った。
「──かいと!?」
思いがけない人(?)物に新一は一瞬驚き、……そしてその奇妙な格好にまた驚愕する。
「くどうくん、会いたかったぁぁ。おかしがほしいのぉぉ」
額をぐりぐりと新一の足にすり寄せて、甘えた声を上げる。弾みで頭の帽子が玄関ホールに転がった。
「……お菓子?」
何を言っているのか理解出来なくて、成すがままの状態で立ち尽くしていた新一だったが、扉の遙か向こう側、門柱横の塀の上に見慣れないモノを見付けて、ようやく合点がいった。
カボチャのランタン。ジャック・オ・ランタン。
そして新一は、この日が万聖節の前夜祭であることを思い出したのだ。
「ハロウィンか……」
しみじみ呟く新一に、かいとは相変わらず「おかし」連発である。
「くどうくん!おかし、おかしは!?」
瞳をお星様のようなキラキラさせて言い寄るかいとに、新一は少しだけ呆れた声を上げた。
「今日はお菓子を貰える日だって教えて貰ったのなら、何か言わなきゃならない言葉があるんじゃないのか?」
「ほえ?」
新一はへばりついたままのかいとをそのままに、ホールに転がったシルクハットを取り上げる。それを見て、次いでかいとに視線を移す。
モノクルは付けていないが……その格好は正しく某泥棒のものだった。何だか妙に気恥ずかしい気持ちになって微苦笑を浮かべると、かいとは突然思い出したようにバッ、と顔を上げて大きな声で叫んだ。
「とりっく・あ・とりっとぉ!!」
「Happy halloween!」
新一は笑って応えた。
「お菓子はないが、ケーキならあるんだけど……食べる?」
「る♪」
居間に招き入れてぱたぱたと走り回るかいとにそう尋ねると、かいとは嬉しそうに何度も頷いた。
「宮野も食べる?」
「あら、私も頂いても良いの?……誰かへのお土産なんかじゃなくて?」
意味深に問いかける志保に、新一は乾いた笑いで応えた。
「……帰りにポ○キーでも買って帰る」
リビングのローテーブルに厳かに置かれる白いお皿。その上に見目麗しいケーキをのせられるのを、かいとは目を輝かせながら見つめていた。
「ケーキ、ケーキ。おいしそう〜♪」
かいとの前にケーキ皿と、お砂糖たっぷりのホットミルクが置かれると、嬉々として手を伸ばす。
「いただきま〜す」
食べる前から喜色満面の顔はケーキを口に運んだ後、完全に崩れた。
「おいし〜〜。ふわふわであまあまなの〜〜♪」
生クリームを頬張って、この世の幸せを体現するかいとに新一も志保も微笑った。
かいとは、美味しい物を本当に美味しそうに食べる。それはもう、一種の才能とすら思えるほどだ。
新一はそんなかいとを見つめつつ、コーヒーを一口飲んだ。
そして、徐に口を開く。
「かいとの着ているあの服ってさ……やっぱり、アイツの?」
「あいつ……って、アレは貴方のぬいぐるみでしょう?」
澄ました顔してケーキを食べる志保に、新一は何とも言えない奇妙な顔を見せた。
「アレはオレのじゃない。……アイツが勝手に置いて行ったんだ」
憮然としてコーヒーを啜る新一に、志保は意味深な視線を向けた。
阿笠邸の誰も使用されていない部屋のクローゼットに眠る巨大なテディベア。平成のアルセーヌ・ルパンと呼ばれた格好をしたそれは、新一の恋人が彼に贈った物だった。
何時も傍に居られない代わりに。と些か強引に置いて行ったそれは、幸運にも同居する事になったお陰で無用となった物でもあった。
新一は引っ越しする際にぬいぐるみも持って行くつもりだったのだが、相手が何故か嫌がり、だけど無人の工藤邸に置いておくのも物騒だと、新一の恋人自らが隣家に預けたのだ。
そんなに大切なら持って行くと言い寄った新一に、本人が始終傍に居るのだから代わりはもう必要ないと言われた事を覚えている。
「あの衣装って、きっとお手製よね。縫製もかなりしっかりしていたし……」
愛されているわよね。と冷やかす志保に、新一は内心赤面しながらも憮然とした表情を崩さなかった。
ぼちゃ♪ぼちゃ♪と歌いながら、カボチャのランタンを掲げて走り回るかいと。
美味しいケーキと甘いホットミルクをたらふく飲んだかいとは上機嫌だ。白いマントをずるずると引きずりながら、楽しそうに歌っている。
「これがあれば、いつだっておかしがもらえるんだよね、くどうくん♪」
差し出すランタンに新一は苦笑した。
「違うだろ?これが効力を発揮するのは、一年に一度。ハロウィンでなきゃ意味ねーの」
「あ、そっかー」
残念そうに項垂れるかいとだったが、すぐ思い直したかのように顔を上げる。
「じゃ、つぎのはろうぃんならもらえるよね?」
ずっと先の事だけど、おれ待つね。と健気にも告げるかいとに……新一は口ごもった。
次のハロウィンと言ったら来年の事で。来年と言ったら……。
「それは無理ね」
新一の代わりに隣で聞いていた志保があっさりと言い放つ。
「……し、しほにゃーん」
途端に表情を崩すかいとに志保は更に言い放った。
「お菓子はね、子供しか貰えないの。来年のハロウィンと言ったら……かいとは、もう立派な大人になってるわよ?」
「あ、やっぱり?」
「快斗は大体1年で成人するはずだから。……今はまだだけど、きっと来年の春には発情期を迎えるはずよ」
「かいと、明らかに成長してるもんなー。動物って最初の一年早いから」
しみじみと呟く新一に、かいとは今にも泣き出しそうな顔で二人を見上げる。
「しほにゃんのいじわる〜〜。おれ、大人になんかならないから〜〜!!」
大人になったらなったで、また楽しいことも色々あるわよ。と素っ気なく慰める志保を見つめ、そして嫌々するように頭を振るかいとを見て、新一は苦笑いを浮かべた。
取り敢えず、甘い物好きなかいとの為に来年はたくさんのお菓子を用意しておいてあげようと、新一は心に誓ったのだった。