ぬいさん、空を飛ぶ
「遅せぇよ。……早く来やがれ」
満月が煌々と光を注ぐ自室の窓辺に立ち尽くし、新一は憮然と呟いた。
薄いレースのカーテン越しに窓の外を見上げ、次いでこんな所で人待ち顔な自分にまた憮然とした。
時計の針は日付をとうに通り越し、既に一周している。
今夜は世紀の大泥棒がビックジュエルを奪う夜。いつもの新一なら、自室でじっとなんてしていない。
常に現場に赴き、そして彼と出会う。……全ては二人だけの決め事であり、秘め事。
なのに、前回の逢瀬において、かの泥棒は次の現場には来るなと言った。気色ばむ新一に対してさも穏やかに優しげに「私が貴方の宅にお邪魔しますから」と言われ……その心の内を読む前に頷いてしまった。
あまり知られたくない事だが、新一はかの泥棒にめっぽう弱い。正直、ヤバイのではないかと危惧する程、彼に夢中だった。
もちろん、自尊心の塊である新一にとって、その事を表に出す事は滅多になかったが……恐らく勘の良い彼は気付いているだろうと思っている。気付かれたって構わないのだ。只、それを指摘されると恥ずかしいだけで。
「……」
頭の中には真っ白な出で立ちをした泥棒の事しか考えられなくて、自分でも重症だと思った。
僅かにひんやりとした冷気が流れてくる窓辺を離れ、少しだけ頭を冷やそうとコーヒーをいれるべく部屋を出る。そして、マグカップにたっぷり注いだコーヒーを片手に自室に戻ると──既に待ち人は待ちかまえていた。
先程まで新一が立ち尽くしていた場所に、彼は優雅な物腰で佇んでいる。
「こんばんは」
艶やかでいて、何処かしら色気のある響きのある声で挨拶されて、新一は頬に熱を感じた。
「……何だ、結構早かったじゃねーか」
ずっと待ち続けていた事など微塵も見せずにそう言い放つと、彼に向かって足を出し掛けて、そして踏みとどまった。
「疲れただろ?お前にもコーヒーいれて来てやるよ」
そう言いながら踵を返しかける新一に、キッドは微笑んで首を振った。
「いえ結構です」
「……?」
「貴方の手の中にあるコーヒーを一口頂ければ」
そう言いながら、キッドは素早く新一の傍まで歩み寄り、気付かせない程の鮮やかさで彼の手の中からカップを奪う。
「あ……」
「コーヒーなど……いれて貰っている時間が惜しいですから」
逢える夜は一時だって離れていたくないからと、さらりとそう告げられて、彼はカップのコーヒーを一口飲んだ。
新一がいれたコーヒーをゆっくりと味わい、そして彼に返す。「暖まりました」とにっこり微笑みかけられ、新一は密かに赤面した。
新一はそれを隠すように、自らもカップに口唇を寄せ一口飲み、まだいくらも減っていないコーヒーのカップを近くの机の上に置いた。
「……お前って、案外簡単なヤツなんだな」
「何?」
「……冷めかけたコーヒー 一口で暖まるなんてお手軽だよな、って事」
暖めて欲しい……とは思わないのか。と、聞こえないように口の中で呟いた。
そんな新一の態度にキッドは軽く目を見張り、それから意味深げに笑った。
「暖めて欲しいと思っているのは私ではなく、貴方の方でしょう?」
さらりと大胆に言い放ち、絶句する新一を物ともせずに抱き上げてそのままベッドの上に降ろした。
「──!!」
声にならない新一とは対照的に、キッドは魅惑的でいて香しい薫りに誘われた蜜蜂のように、彼に纏わりつく。
繊細で長い指が新一の肌をまさぐっていく。最初は戯れのようだった彼の指は、時を置かずに明確な動きで新一の身体を淫らに散らし始める。
「キッド……てめぇ……っ!」
性的な欲求をストレートに伝えてくるようなその動きに、新一が抵抗の声を上げる。だが掠れ気味のその響きは喘ぎにも似て、益々彼を夢中にさせた。
「待ちませんよ。……第一、最初に誘ったのは貴方の方でしょう?」
こんなにも性急に来られるとは思わなかった、とは言えなかった。正確には、言わせて貰えなかった。
まるで言葉を封じるかのように、静かに口唇を塞がれ、次第にそれは深く貪られた。
中略。
月は相変わらずの位置で、室内に光を注ぎ続けている。
小さく溜息のような吐息を吐いて、新一は相変わらず自分を抱き寄せたまま離さない恋人を見上げた。
身体を少しずらしてキッドの腕から離れると、散らばったままの衣服からシャツを拾い上げて素早く羽織った。ひんやりとした冷たい床にゆっくりと足を降ろして、そのまま簡単に身繕いをする。
キッドはそんな新一の姿を黙ったまま見つめていた。その双眸には何処かしら諦めにも似た表情が窺える。
「……どうして、もっと余韻を楽しもうとはしないのかなぁ」
折角のベッドの上で思う存分抱き合えるというのに、キッドの恋人はあまりにも淡泊だ。
「そういうオレが好きなんだろ?」
少しだけ挑発的に言い放つ新一に、キッドは溜息で応えた。
すっかり冷え切ったコーヒーも、この少し火照った身体には丁度良い。乾いた喉を潤すように、新一は一気にそれを飲み干した。
「……で。何でお前、今夜に限ってわざわざオレの家まで来たんだ?」
それは、今夜新一が恋人に一番尋ねたかった事。
普段の二人は常に外で逢っていた。泥棒が罪を犯す夜は何時も月明かりが眩しくて、その濃蒼く輝く夜空の下で、探偵は探偵としてではなく工藤新一として、キッドに逢いに行っていたのに。
「もう関わるな、と言うことか」
「まさか」
知らず知らずのうちに声を落とす新一に、キッドは内心慌てた。余計な不安を生み出させないように微苦笑を浮かべると、ゆっくりと身を起こす。
シーツが波打ち、その一瞬後、いつもの見慣れた姿に戻った。流石にシルクハットやモノクルまでは身につけてはいなかったが、それはそれ。もう、恋人の前で正体を隠す必要性はないから。
月明かりの下。憮然と、しかし内心不安に満ちた瞳で見つめる新一に、キッドは穏やかに微笑みかけた。
「今夜は貴方にお渡ししたいモノがあったのです」
「……?」
「いつものように現場近くでお渡ししても、私としては一向に構わなかったのですが、持ち帰る貴方の事を考えると私が此処に持参した方が手間が省けると思いまして」
「……何なんだ?」
怪訝な顔で見つめてくる新一の目の前で、キッドは大きくマントを翻した。
新一が瞬きをする間もなく、それは彼の前に現れた。
キッドの両腕に抱きかかえられた大きな「ソレ」
「な……何なんだ、それは!?」
「見て分かりませんか?」
『くま』ですよ。知りませんか?と、にっこり笑って尋ねてくる。
それは、明らかに『くま』だった。くまのぬいぐるみ。一般にテディベアと呼ばれているそれは、商標登録がない事もあり、誰もが名を使用出来る為、広く一般にその名称が浸透している。
だからこれは、くまのぬいぐるみと言うよりテディベアと呼ぶに相応しいだろう。
しかし、一般に見かけるテディベアと明らかに違うのは、彼(?)がちきんと服を着込んでいた所だった。
いや、服を着たテディベアなど、ごまんとある。だが、新一の目の前に居るぬいぐるみが着込んでいる服のテディベアにお目に掛かったことは、今までに一度もなかった。
それは、目の前の恋人が身につけている衣装と寸分違わぬものだったからだ。
コバルトブルーのシャツに目に鮮やかな朱色のネクタイ。純白のスーツに、光沢の美しいマント。そしてシルクハット。モノクルのクアドリフォリオマークも正確に縮小されて、彼の目元を飾っている。
「本当は、何時も貴方の傍に居たいのです。……だけど今の私にはそれは叶わぬ事。なので、これを代わりに……」
どうかこれを、共に居られない私だと思って、貰っていただけないでしょうか。
唖然とする新一を余所に、キッドは常になく大仰な仕種で彼の前に差し出した。
テディベアと目があって、新一は思わず後ずさりしそうになる。しかし、キッドはあくまでも本気だった。
「新一、これでは代わりになりませんか……?」
何時までも受け取ってくれない恋人に不安を感じたのか、キッドが寂しげな声で尋ねてくる。新一は、仕方なくそれを受け取った。
確かに、こんなモノを現場で貰ったら、持ち帰るのに一苦労だ。……それ以前に恥ずかしすぎる。
それにしても、と新一は思う。
彼はコレを自分の代わりになどと言うが、こんなぬいぐるみ程度が恋人の代わりになると本気で思っているのだろうか。
新一にとってキッドは何ものにも代え難い存在であるというのに、こんな、こんな……。
「……ん?」
新一は大きなぬいぐるみを抱かえたまま、その顔をじっと見つめた。指に伝わってくる感触がどうも妙な感じだった。薄暗い室内。月明かりの下で見つめるそれは、どことなく古めかしさを感じた。
新一は嫌な予感を感じて、そのぬいぐるみが仰々しく被っているシルクハットをそっと外した。
すると、彼の左耳に丸いボタンが縫いつけられているのを発見する。
「……げ」
思わず漏らした声に、キッドは顔を上げた。
「何か?」
素知らぬ顔して訊いてくる彼を新一はおもいっきり強い眼差しで睨み付ける。
「てめ……此処に付いてるの『ボタン・イン・イヤー』じゃねーだろうな」
よく見ると、メーカーのシンボルマークがあしらわれたくすんだ色のボタン。しかもタグがない。
「おや、流石は名探偵。お目が高い。当然、私の代わりになるような代物ですので、ある程度の質でないと貴方も納得しないでしょう?」
澄ました顔で言い放つキッド。
耳にボタンが付いているようなテディベアを扱っているメーカーは一社しかない。『テディベア』には商標登録がないが、『ボタン・イン・イヤー』はちゃんとなされているのだ。
しかも、タグのないボタンを付けたテディベアの価値など……。新一は良く知らないが、恐らく家一軒が容易に建つのではないだろうか。
新一の脳裏に嫌な疑念が浮かんだ。
「何処かから、盗ってきたんじゃねーだろうな!?」
「まさか!恋人に盗品を贈るような失礼な真似を私がするとお思いですか?」
心外です。と、大袈裟に項垂れるキッドに、新一も少し言い過ぎたと気まずそうに視線を逸らした。
しかし、これ程の逸品がおいそれと手に入るとはとても思えない。……それより、素手で触れても構わないのだろうか。
「それは歴とした私のモノです。……正確には身内のモノですが、譲っていただきました」
「……?」
「私が生涯を捧げている愛しい人に贈りたいと申し上げたら、二つ返事で譲って頂けましたので、どうぞ遠慮なくお持ち下さい」
「……え、遠慮なく……って」
と言われても。と言葉に詰まりつつも、視線が外せない新一に、キッドはそれをさっさと取り上げ、傍に置かれている椅子の上にそっと座らせた。
「コレは、私が居ない時に。……今は私が居るのだから、代わりは必要ないでしょう?」
自分で渡したクセにまるで妬いている口調で、そう言う。次いで新一の手を取り、ゆっくりとベッドに誘う。
「夜明けまでには、まだ時間があります。それまでは私だけを見ていて欲しいと願うのは、我が侭ですか?」
「……我が侭」
新一は微笑いながらそう言った。腕を引かれ、素直に恋人の胸に抱かれる。
「ホント、我が侭なヤツ。……けど、悪くない」
この部屋に陽の光が射し込む頃には、恋人は存在していた形跡を完全に消し去って、この部屋を離れるだろう。たった一つを残して。
それを思うと、夜明けを迎えるのが辛い。本当は、こんな一時の逢瀬だけで終わらせたくない。彼の代わりなんて欲しくない。……欲しいのは只一つだけだ。
そんな気持ちを胸の内に隠して、それでも今の幸福に微笑う新一をキッドは理解っているだろう。四六時中、隣に居たいと思うのは、彼とて同じなのだから。
「新一……何時か、どれ程先の事になるか判りませんが、もしそれが叶うのなら……ずっと私の傍に居てくださいませんか?」
「……?」
硬質でいて真剣な声の響きに、新一は訝し気に顔を上げ、彼の双眸を不思議そうに見つめた。
「貴方がそれを望んでくれるのなら、私はどんな事をしてでも貴方と共に在るべく努力します」
「ずっと……傍に?」
そんな夢みたいな事を、キッドは本気で言っているのだろうかと怪訝な顔で首を傾げる。しかし、彼は真剣だった。
「お嫌……ですか?」
不安気に揺れる彼の瞳。新一は、何を今更と呆れた顔になったが、すぐに微笑に取って代わった。
「それは、オレが今望む一番の夢。……オレも、お前と共に生きていきたいと願ってる」
そんな事わざわざ訊くな。と言葉を続け、新一は恋人の胸を軽く叩いた。そんな新一の態度にキッドも嬉しそうに頬を緩め彼を抱き締めると、二人してまだ僅かに温もりの残るシーツの上へと戻った。
夜明け前、未だ傍に居続けてくれている恋人の腕の中で、新一はまどろみの夢を見た。
翼を広げ、藍色の大空の下を滑空するアンティークベア。
彼の代わりなのだから、きっと大空だって飛べるだろうし、実は密かにパンドラを探しているのかも知れない。
そんな夢が可笑しいやら微笑ましいやら、口元を緩めた穏やかな寝顔に、恋人がそっと口唇を寄せた事を新一は気付かない。
黎明の空。月は未だ輝き続けていた。