Sense of guilt
どうして、こんな事になってしまったのだろう。
新一は傷付いた身体を引きずりながら、玄関の扉を開いた。
夜はまだこれからという時刻。普段なら、こんな時間に帰途につく事はなかったが、今夜は違った。
「……っ!」
身体に走った鋭い痛みに思わず顔を顰める。
暫くの間立ち尽くしたままで、痛みをやり過ごし、数分後、新一は小さく息を吐いて慎重に身体を動かした。
今日は、最悪の日だった。
最悪という以外、言葉の表現のしようがない程に、最低な日だった。
新一は顔を痛みと、それ以上に心の苦痛に歪ませながら、ゆっくりと家の中に入る。
しんと静まり返った屋敷はいつもの事だ。だけど、今夜はその静けさが辛くて怖くて堪らない。
事の始まりは、一本の電話だった。
探偵工藤新一への依頼の電話。すぐにでも会いたいと言う依頼人の為に何とかスケジュールを調整して、夕方過ぎに赴いた。
スケジュールなんて、調整するんじゃなかった。
新一は、切迫した依頼人の為に時間を割いたというのに、相手から貰ったのは、言葉にもしたくもない暴力だった。
犯されたのだ。……しかも、男に。
屈辱に目が眩みそうになる。倒れ込みたくなるのを抑え、足を引きずるかのように歩いた。
身体中が痛くて、そして気持ち悪くて堪らなかった。倒れ込むのは、この身体を清めてそれからだ。
新一は必死にそう自分に言い聞かせながら、ともすれば崩れそうになる身体を必死に支えて、浴室へと向かう。
こんな経験は初めてだった。
当たり前だ、こんな暴力を受けるなんて、もう二度と遭いたくない。
辛くて苦しくて堪らない。しかし、その時まで新一の心を占めていたのは、陵辱者に対する怒りしかなかった。
嘘の依頼を寄越したその行為にも顔を顰めるが、新一を呼び出した目的が「コレ」だなんて、あまりにも卑劣な行為。
許せないし、許すつもりもない。傷害で訴えるつもりはないが、それなりの制裁は受けて貰うつもりだった。
このままにしておくつもりは無いと思っていた。──その時までは。
だが、屈辱と羞恥と怒りのままに脱ぎ捨てた衣服の下から浮かび上がる身体を目にした時、──新一は思わず絶句した。
洗面台の鏡の前に映し出される己の身体。
余すことになく映し出すそれに新一は目を見開き、次いで急速に迫り上がってくる嘔吐感に腰を折った。
「くっ……!」
身体中に散らばった紅い鬱血痕。
それを見た瞬間、先程行われた行為の一部始終が鮮やかに蘇る。
あれはセックスじゃない。只の一方的な暴力に過ぎない。
新一は、ずっとそう思っていた。
必死になって暴れて抵抗したのに、相手は全くと言って良いほど怯む事がなかった。
抵抗すれば、更に相手を舞い上がらせるという事など思いもしない新一は、ただ闇雲に暴れるしか出来なくて。
身体に快感なんて生まれなかった。当たり前だ、生まれて堪るものか。
嫌悪と痛みに身が裂けそうになっただけ、それだけだ。そう思っていた。
だけど、その身体に散った痕が所謂「情交の証」であるという事を、新一は知識として知っている。
……知識でしか知らなかった「ソレ」が身体中に散らばっているのを見て、絶望した。
どうして……。どうして、こんなモノが新一の身体に刻まれなければならないのだろう。
今まで、……只の一度だって、こんな痕をつけられた事はなかったのに……!
新一の恋人は、今まで只の一度だって、この身体にこんな醜い鬱血痕など残した事がなかった。
「新一の肌は白くてとても綺麗だから、どんな痕も残したくないんだよ」
彼はいつもそう言って、優しく新一を愛撫した。肌に触れてくるその指使いは繊細で、そして巧みに新一を官能の渦に巻き込んた。
愛されている悦びと、深く相手を愛する喜び。
新一は、幸せで幸せで、それだけで幸福だった。
だから、こんな「痕」なんて……今まで欲しいなんて考えたことも無かった、のに。
「……っ」
何で……どうしてなんだろう。
勢い良く水を流しながら、新一は泣きたくなった。
悲しいのか悔しいのか、それとも後ろめたいからなのか。そんな事はまるで分からなかった。
只、どうしてあんな男にこんな醜い痕を残されなければならないのか。それだけを考えていた。
考えても答えなど出ない『何故』を繰り返し、……その時になってようやく、こんな風になった自分は、惨めで可哀想な人間なのだと気付いた。
元々空っぽだった胃の中からは何も出てこない。それでも迫り上がる嘔吐感には勝てず、胃液だけが排水溝へと消えていく。
喉の奥がぴりぴりと痛んで、只でさえ掠れ声しか出なかったのに、更に酷くなった気がした。
「……っ…くしょう……!」
堪らずに皮膚に爪を立てて、新一は引き剥がすように引っ掻いた。しかし、白い肌に新たに表れた赤い引っ掻き傷がミミズ腫れになって残っただけで、その鬱血痕は消えてはくれなかった。
この肌全部、取り替えられたら良いのに。
出来もしない事を考えて、新一は小さく頭を振る。
見ていられなくて、新一は目を伏せた。そのまま衣服を全て脱ぎ去ると、浴室へと向かった。
少しでも、あの男の痕跡を消し去りたくて。今出来ることはそれくらいしか無かったから。
コックを捻ると熱い湯がシャワーのノズルから勢い良く噴き出す。それを頭から被って身を清める。
ボトル一本分使い切るような病的な勢いで、ボディソープを身体に塗りたくった。擦り付け泡立たせると、浴室中にムスクの香りが濃厚に広がった。
その時──ふと、新一は重要な事に気が付いた。
この姿を……『彼』が目にしたらどう思うだろう。
「────」
愕然とした。新一の気持ちがどうであれ、紛れもなく身体に残っているのは情交の証。
只の暴力でしかないと、そう思っていても……それは新一がそう思い込んでいるだけで、これは紛れもなく。
「……気」
浮気。その単語が脳裏に浮かんだ。
そんな風に思いたくなくて、咄嗟に頭を振って追い払おうとしたが……それは、紛れもない事実。
新一自身に『浮気』という概念はなくても、事実はそうだ。
新一は『寝た』のだ。恋人以外の『誰か』と。
……しかも『男』と。
新一は、初めて恋人以外の人間と『浮気』した夜の事を思い出した。
新一に浮気の概念は無かった。只、彼以外に与えられるモノがどういうものなのか知りたくて、他の男と寝た。
それを知った恋人は怒った。本人は悲しかっただけだと言っていたが、今もそれは彼の優しさだと思っている。
……だって、その時の彼は怖いくらいに冷ややかな眼差しで新一を見据えていた。
それを思い出すと、────今でも背中は冷える。
無知も罪だ。
新一は、己の心の幼さ故に、彼を傷付けた。犯してしまった罪は消えない。
だから、もう二度とあんな真似はすまいと心に誓った。
恋人の想いを受け止めて、自分も素直な想いで彼を愛した。現在の新一には、彼しか見ていなかった。
だけど、……だけど。
「……どう……しよう」
新一は、また彼を傷付けてしまった事を今更ながらに思い至った。
新一の気持ちはどうであれ、他人と身体を重ねた……これは、事実だ。
新一にとっては乱暴な行為でしかなかったとしても、セックスに変わりはない。
恋人は常に優しい。大抵の我が侭は聞いてくれる。新一に何かをしてあげるのが、自分にとって一番の喜びであると言って憚らない。
新一も、そんな彼を愛していた。これからも愛してる。
けれど、今回の事は……きっと許さないだろう。
彼は、同じ過ちを繰り返すような愚かな恋人をいつまでも愛し続けるようなお人好しではない。
元々、新一のような人間には過ぎた恋人。
「……どうすれば……いいんだ」
恋人は、いつも二日と開けずに新一に逢いに来る。丁度一日が新しく生まれ変わる時刻に。
シャワーを頭から浴び続けている事も忘れ、新一は考えた。
昨夜彼は来なかった。だったら、今夜は必ずやって来る。
いつものように優しい微笑みを新一に投げかけて、腕を引き寄せ、指先に口づけて、慈しむかのように抱き寄せて。
新一にとって、何よりも至福の時間を与えてくれるだろう。
……しかし、今夜の新一は彼を受け入れる事など出来るはずがない。
最初の浮気は、相手に気付かれなければ一向に構わないと思っていた。それが優しさなんだと勘違いして、そして彼を傷付けた。
だから、今回も気付かれなければ良いなんて……そんな単純に割り切れるはずはなかった。
しかし……素直に真実を告げられるほど、強くもなかった。
『浮気』をしたと告げて、彼が傷付くよりも……彼に嫌われる事が怖いのだ、堪らなく。
一度目は許してくれた。……だけど、二度目は?
「……んなの……無理に決まってるっ……!」
新一は、喉の奥から絞り出すような、苦悶の声で呟いた。
彼はいつだって時間には正確だ。
時を告げる鐘が静かに室内に響き渡ると同時に、夜の匂いを身に纏って新一の部屋に訪れる。
いつもと同じ格好。全身を白に染め上げて、シルクハットに緋色のネクタイ。そして、片目を隠したモノクルを付けて。
相変わらずの男ぶりに新一は何度も心を奪われる。
好きだ。……堪らなく。
「こんばんは」
薄闇の中、落ち着いた艶やかな声が室内に響き渡る。新一は、ともすれば泣きそうになるのを必死に押さえて、恋人を見つめた。
「……キ…ッド」
ベッドの上から放たれた声は掠れていた。
キッドは鋭くそれに気付く。
いつもより足早に新一の元に近付いた。
「どうなされたました?……声が酷く掠れてる」
心配を表情と声に乗せて、窺ってくる。新一の心は震えた。
どうしたら、良いだろう。
素直に全てをうち明けるのが、それが一番なのだと新一の心は告げていた。
恐らくそうするのが良い筈だ。
だけど、もう一つの心が恐怖に震えている。
真実を告げて、彼に嫌われる、恐怖。
真実を告げて、彼に去られる、恐怖。
嫌われたくない。別れたくない。
もう二度と、軽蔑の眼で見て欲しくない。
新一は、自分の心の弱さを今更ながらに感じた。
今の幸せを、失いたくない。……少しでも良いから、長く。
「……新一?」
そっと手を取られ、新一の身体が恐怖のあまり強張った。そのあまりにもあからさまな拒絶に、キッドの双眸が僅かに細くなる。
怪訝な表情で見つめてくる恋人に、新一は顔を背けた。
「……ゴメン。今日は、ちょっと……気分が良くなくて……」
口から零れたのは、浅ましい言い訳。
弱い心が吐き出した、醜い言葉。
「……風邪、ですか?」
心配そうに覗き込んで来るその視線に居たたまれなくなる。
「……かも知れない。何か…身体も熱っぽいし……」
震えそうになる指先。触れられていない方の指は、強く握りしめて抑え付けて耐えた。
新一のそんな葛藤には気付かぬように、キッドは彼の前髪をそっとかき上げて秀麗な額に掌を押し当てた。
「少し、熱があるようですね。……顔も赤い」
「……」
「今晩はゆっくり休むといい……。風邪は引き初めが肝心ですから」
「……ああ」
優しげに抱き寄せられて、そのままゆっくり横に寝かされると、フェザーケットを引き上げた。
「早く良くなって下さいね」
にっこり微笑うと、新一の口唇にそっと羽のような軽いキスを落とした。
「キッ……」
あまりにも優しいキッドの態度に、新一の心は後ろめたさで潰されそうになる。
もし真実を知ったら……彼はそれでも微笑んでくれるだろうか。
そんな事、……誰が考えたって答えは「NO」だ。
「……ゴメ…ン…」
思わず漏れる言葉に、キッドは穏やかに頭を振った。
「そんな風に謝らないで。謝るくらいなら、さっさとその風邪を治して……」
そして、たくさん愛させてくださいね?
慈しむように髪を梳いて、愛しげな眼差しで囁く睦言。
ベッドの傍で跪いていたキッドが立ち上がったのはすぐだった。いつまでも傍に居ると欲しくなるから。とそう言って、軽く腰を折って今宵別れの挨拶。
「名残惜しいですが、今夜はこれにて……」
「キッド……」
新一は、踵を返すキッドを思わず呼び止めた。伸ばした指先が彼のジャケットの袖口に掴んだ。
「……新一……?」
振り返るキッドに新一はありったけの心をこめた。
これが最後になるかも知れない。
次逢った時には、こんな風に見つめてくれないかも知れない。
嘘は、いつかはばれる。恐らく、そう遠くない未来に。
だから、今のうちに。愛情の眼差しで見つめてくれている幸福な瞬間(いま)のうちに。
「愛してる……愛してる……キッド……」
忘れないで、絶対。
掠れた響きに涙腺まで緩んで酷い声だけど、それでもそれまでで一番真摯な気持ちをこめて告げた想い。
キッドはそんな新一の告白に、眼を細めて嬉しそうに応えた。
「私も……愛してます、心から」
掴まれた袖口。新一の指を己の指に絡めて、口づけた。
暫くそうしていたが、名残惜しげに外すと、新一の腕を掛布の中に入れてやる。
「明日、また来ます」
キッドはそう言うと、静かに新一の元を離れた。新一も、もう引き止めなかった。
彼はいつも鮮やかなまでに忽然と姿を消す。夜露を含んだ風だけが彼の名残を示していた。
新一は、静かに消え去った恋人の姿を思い出すように、じっと窓辺を見つめ続けた。
明日……また逢える。
けど、明日までにこの身体の痕は消えはしない。
新一の心に負った傷も癒されない。
そして。
罪は一生消えない。
本当は、一晩中傍にいてあげたかった。
いつもは強気で、弱いところを悟られないように振る舞っている彼が、今夜に限ってその脆さを浮き彫りに見せて、掠れた声も痛々しくて堪らなくて。
本当は、一晩中看病してあげたかった。
新一は現在一人暮らしで、たった一人であの大きな屋敷に住んでいる。
普段なら気にならないかも知れないが、人は些細な事でも途端に心細さを感じてしまうもの。
誰も居ない屋敷に一人で臥せっているなんて、考えただけでも寂しい事だ。
キッドも許される事なら、ずっと彼にいたかった。……そうするつもりだった。
想い想われ、今は幸せな関係を築いているけれど、逢えるのはやっぱり夜だけで。しかも人目を忍ぶような逢瀬を繰り返す事しか出来ない二人。
本当は朝も昼も夜も、24時間許される限り二人で居たいのだけれど……キッドが『怪盗KID』である限り、新一が『探偵工藤新一』である限り、それは決して叶えられない望み。
最初から理解している。けれど、時折無性にそれが辛くてもどかしい。
人目を憚らない夜だけが、二人が居られる唯一の時間。
夜明けまで一緒に居たかった。何もしないで看病だけに徹するだけの自信はあまりなかったけれど、それでも傍に居させて欲しかった。
しかし、昨夜新一の様子は少し違っていた。
気の所為で無ければ、あの夜の彼は拒んでいた。キッドが傍に居ることを。
嫌悪と言った感情ではなかった。嫌われている訳ではない。
只、彼の顔からはキッドを遠ざけたい「何か」を感じ取った。
それは、恐怖感のようなもの。
新一がキッドを怖がる理由は見あたらない。けれど、少なくともあの時の新一はキッドを遠ざけようとしていた。
漠然とした、確信。
だから、すぐに彼の部屋を辞したのだ。
本当は、彼の心の内を知りたくて仕方がなかったが、人の気持ちはその人だけのもの。いくら新一が自分の恋人だからと言って、何が何でも彼の全てを知ろうとする行為は傲慢だ。
新一が自分の事を想っていてくれているのは紛れもない真実だから、それだけを信じて屋敷を後にした。
彼はキッドがどんな想いで新一の前を離れたのかを知っている。去り際に震えるような掠れ声で告げられた言葉にもそれは表れていた。
滅多に口にしない言葉だから。だから余計に嬉しくて……そして不安になった。
漠然とした不安。この不安が確信に変わる事がないよう、キッドは祈りつつ、今夜も彼の屋敷を訪う。
いつものように、直接新一の部屋の窓に来てしまうのは、一刻でも早く彼に逢いたいから。玄関に廻ってご訪問の手続きをとる程の余裕はない。
真夜中を過ぎた彼の部屋。想い人は、昨夜と同じ場所に居た。
キッドが室内に足を踏み入れると同時に向けられる瞳。落とした光源の中で、それでもキッドの眼にははっきりと映った。
……彼の、不安と戸惑いに揺れる双眸を。
ベッドの上に座り込むように存在する彼は、────昨夜の彼と全く変わっていなかった。
キッドは内心溜息をついた。しかし、表面上は至って穏やかな顔で、何時ものように新一に微笑いかけた。
「こんばんは。ご気分は如何ですか?」
ゆっくりと歩み寄り、ベッドの傍で足を止めると、新一は無言で見つめてきた。まるで……何かを言いたくて、言えない表情(かお)
キッドはそれに気付かぬふりをして、彼の頬に指を滑らせた。彼のきめの細かな白い肌をキッドの指が堪能する。
「……キッ……ド」
新一の身体は小さく震えていた。小刻みに震えるそれを、彼は必死になって押し殺そうとしているようだった。
分からない。……彼が何に怯えているのか。何を言いたいのか。
しかし、恐らくそれは双方にとっても、楽しい話題ではないはずだ。でなければ彼がこんな態度を取る訳がない。
「新一……。私が此処に来るのは、ご迷惑……ですか?」
ほんの少しだけ不安を織り交ぜて問いかけると、新一は慌てて何度も頭を振った。
「そ、そんな事……ねぇよ」
「良かった……。もしかしたら、私の訪いを不快に思われているのでは、と思ったので」
「不快だなんて……」
そんな事、考えた事もねぇ。
新一は小声ながらも、ムキになってそう言った。そんな一言がキッドには堪らなく嬉しい。
新一に厭われいないという事実だけで、キッドは幸せになれる。
「でも、何か思う事があるようですね。……それとも、体調の所為?」
悩みがあるのなら、話して欲しい。キッドに吐いて少しでも気が紛れるのなら、いくらでもはけ口になるのに。
しかし、新一は俯いたまま無言でシーツを見つめていた。
「……新一?」
「……な……何でも……ない」
「……本当に?」
「ゴメン……気分が、悪いだけ……だから」
顔を逸らし、それだけ告げると切なげに溜息をつく。彼の形の良い口唇が僅かに震えているのをキッドは見逃さなかったが、敢えてそれ以上言及しなかった。
「そうですね。……風邪気味でしたからね。そう簡単に体調が元に戻る事なんてないですよね」
キッドがそう結論付けるように言うと、新一はあからさまにホッとした表情を見せた。それは一瞬の間だったが、キッドの脳裏に強く焼き付く。
隠し事をされていると、確信せずにはいられない瞬間。
奥歯を強く噛みしめ、キッドは立ち上がった。ともすれば問いつめてしまいそうになるのを抑え付けて、新一に微笑いかける。
「体調が良くなるまで、ゆっくり休んで下さい。……貴方の安眠を妨げぬよう、私も暫くは逢うのを控えることにしますから」
「え……?」
心外な表情で顔を向けてくる新一に、キッドは笑みを深くする。
「逢いたくなったら、遠慮しないで連絡して下さい。夜の帳が降りれば、すぐにでも逢いに来ます」
「も……来ない、のか……?」
「私が居ても、気を使わせてしまうだけですから。看病の手が欲しいのなら、喜んで此処に留まりますが……」
一晩中看病に徹する事が出来るかどうかは、分かりませんので。との意味深な発言に、新一の頬は一瞬朱に染まり、青ざめた。
「新一?」
「あ……何でもない」
「……」
「お前の言葉に甘えて、暫く静かに休む事にする。……うん」
「新一……」
「早く元気になって……お前に…………いや、何でもない」
何か言おうとして、頭を横に振る。目に見えない『何か』を吹っ切ろうとするかのように。
真っ直ぐに家路につく気分になれなくて、キッドはふらりと、とあるバーに立ち寄った。
路地の奥にひっそりと灯された看板の光が寂しげで今の気持ちとシンクロしたかのように引き寄せられたのだ。
中は落ち着いた雰囲気で、初めての客でも心地良く迎えてくれた。
若そうに見えながら熟練した手つきを見せるバーテンダーを信用して、彼に任せるとSUPER BLUEの美しいカクテルを差し出された。
その素晴らしく澄んだ蒼いカクテルの色に恋人の瞳の色を思い起こされて思わず顔がほころぶ。
「お気に召しました?」
そんなキッドに満足したのか、穏やかに尋ねてくるバーテンダーにキッドも満足気に頷いた。
外の喧騒から開放された隠れ家のような店内は、決して広くはないがシンプルな内装でゆっくりと落ち着ける。
正統派でありながら気さくな空気を纏う静かな店内。だからだろう。意識しなくてもひっそりとした周囲の会話が耳に入ってくる。
もちろん、聞き耳を立てるつもりはない。しかし、とある一団の会話に愛しい人の名前を聞いて、思わず耳をそばだててしまった。
キッドの恋人は、キッドとは全く逆の立場の有名人だった。
その道の人間ならば、彼の名を知らぬ者は居ないはずだ。一時はメディアにも頻繁に顔を出していた事もある所為で、今でも彼の名を覚えている者も多いだろう。
優れた頭脳を持ち合わせ、真っ直ぐに見据えたその瞳はどんな謎もトリックも見逃さない。
キッドにとって、何よりも大切な至宝。
キッドも知名度から言えば彼の比ではない。『怪盗KID』の名は国際的だ。
だが、決して胸を張れる立場ではない。犯罪者として知らぬ者はいない自分は、果たして恋人として彼の隣に居て良いものだろうかと考える事もあった。
しかし、気持ちを抑える事は出来なくて、紆余曲折の末、二人は相思相愛の恋人同志になった。
立場上二人は夜にしか逢えなかったが、それでも幸せだった。犯罪者である自分をひっくるめて、恋人は一途に愛してくれる。もうそれは過ぎるほどの幸せ。
カクテルの向こうに恋人の姿を浮かべて彼に浸っていたそんな時、工藤新一の名がキッドの耳に飛び込んで来たのだった。
キッドの背後から聞こえてくる恋人の名前。
この静かな雰囲気の中では些か品のなさ過ぎる声は押し殺していてもはっきりと滲み出ていた。名前だとは言え、彼等から吐き出されるそれに何となく不快な気持ちを滲ませるキッドを余所に、会話は益々熱を帯びてくる。
……それは決して好ましいものではなかった。
好ましくないなどというレベルではない。────それは、キッドにとって、決して看過する事は出来ない会話だったのだ。
キッドがグラスを乱暴な仕種でテーブルに置くと立ち上がっる。
カクテルの鮮やかなブルーがグラスの中で激しく踊った。
鬱血した部分に蒸したタオルを押し当てる。
こんなもの所詮内出血に過ぎないのだ。だから、血行促進剤でも塗っておけばすぐに消える。……そのはずだ。
新一は頭の中で何度もそう自分に言い聞かせながら、赤黒く色の付いた部分に蒸しタオルを押し当てた。
この痕が全て消えたとしても、「浮気」した事実は変えられない。けれど、少しは自分の気持ちが落ち着くような気がした。
こんな身体……誰にも見せたくないし、晒したくない。特に好きな人の前では。
だけど……こんな嘘を一体何時まで突き通せるだろう。
恋人は心の機微を捉えるのに非常に長けている。特に新一の心を読み取る事には。
そんな彼を何時まで騙し果せるだろう。
新一は手にしていたタオルを放り出すと、寂しげな面もちでパジャマのボタンを留め始めた。
騙したい訳じゃない。嘘なんてつきたくない。
本当は、彼の前で泣いてしまいたかったのだ。自分はこんなに辛かったのだと晒してしまいたかった。
だけど、所詮それは自分勝手な振る舞いでしかならなくて。相手の気持ちを考えると、とてもそんな事出来ない。
「……嘘ばっかり」
新一は暗く嗤った。
綺麗事並べている自分。言い訳を積み上げている自分。
どんなに考えたって、結局は自分自身が楽でいたいだけなのだ。
彼に嫌われたくないから。捨てられたくないから。
隠し通せるモノなら隠したいし、無かった事にしてそれまでと同じ日々を過ごせるものなら、その方がずっと良い。
ずっと楽になれる。
自分の心の中の暗い部分を見据えるのは苦しい。
……それは、手酷い目に遭ったあの時よりも辛い。
眠れぬ夜になるのは判ってる。だけど、それでももう寝てしまおうと、新一が掛け布団に手を掛けた時だった。
不自然で人工的な音が鳴った。
「────」
もう今晩は来ないと思っていた人物が、新一の目の前に立っている。
暫くは逢うのを控えると、数時間前彼はそう言って新一の前から姿を消したのに。
どうして……?
「……キッド?」
恐る恐る新一が彼を呼んだ。しかし、白い影はその場に立ち尽くしたまま微動だにしなかった。
新一の両眼が彼の表情を懸命に窺う。
冷えた風が室内に吹き込んだ。
無意識に掴んだままのダウンケットを更に強く握りしめた。動かない、何も言わない恋人が無性に怖い。
いつもなら、こぼれるような微笑を湛えている彼が、今はまるで能面を被ったかのような無表情でこちらを見ている。
只、風に靡くように揺れるマントと、時折鈍く反射する片眼鏡の光だけが彼の存在を示していた。
彼が無表情に送る視線。新一はいたたまれなくなって、ふいと逸らした。
キッドはまるでそれを待っていたかのように、俯く彼の元へ足音を立てずに近付く。
新一が一際強い気配を感じた時には、相手に身体の自由を奪われた後だった。
「────!!」
両肩を掴まれ、そのまま背中をシーツに押し付けられる。
ベッドのスプリングが悲鳴を上げた。キッドはまるで気にも掛ける事なく、強く新一を押さえ付けた。
両肩から伝わってくるキッドの掌が熱い。自らも新一にのし掛かり、身体の自由を完全に奪い去った。
「……キッド……どうし……」
戸惑いながら声を上げる新一に、キッドの眼は冷ややかに映り、それを見て息をのんだ。
ぞくり、とした。
その瞳の色を新一は知っている。
あの夜。新一が自分勝手な好奇心で別の男と寝てきた夜、新一を問いつめた時のキッドと同じ……。
新一は絶望的な気持ちで瞼を閉ざした。
あの時の事がまた繰り返される。
彼は、冷酷で残酷な言葉で新一の心を切り裂いて、そして去って行くのだろう。
それでもあの時は許してくれた。戻って来てくれた。
新一の無知を彼は許してくれた。
それは、同じ轍を踏まないであろうと信じてくれたからこそ許してくれたのだ。……なのにまた同じ過ちを犯してしまった自分を再びキッドが許すと思う程、新一は脳天気ではない。
視界を閉ざした向こう側で、キッドの手が肩から離れるのを感じたが、新一は逃げようとは思わなかった。
彼の指が新一のパジャマのボタンに触れた。次第に肌が感じる外気の冷たさに、ボタンが全て取り払われた事を知ると、無意識に身体が凍えた。
室内に明かりは付いていなかった。けど、暗闇ではない。キッドは直ぐに気付くだろう。白く浮かび上がる肌に淫らに散らされた鬱血痕がいくつも刻まれているのを。
新一は、閉じた瞼を更に強く眉間を寄せて、彼の断罪を待った。
何をどう責められたって、新一には返す言葉などない。
否、きっと彼は新一を責めはしないだろう。なじりもしない。只、冷ややかに見つめて別れを切り出すのだ。
────他の男のモノになったお前なんて、欲しくないから。
そう告げて、去っていく。
同じ事を繰り返せば、恋愛事に疎い新一だってそうなる事くらい容易に理解出来る。
もう、それならいっそ、早く告げて欲しい。
焦らさずにばっさり斬り殺して欲しい。
でないと……何時まで経っても、終わらない。
終わらない現在を生きるのは、どうしようもなく苦痛だった。
冷えた空気が晒された新一の肌を撫でて、どれ程の時間が経過しただろう。
ふいに、肌が温かなものを捉えた。そっと触れてくるその感触に、新一は恐る恐る目を開いた。
キッドの指が新一の肌に触れていた。それは、愛撫というには拙くて、たどたどしくなぞる仕種。
「……キッ……」
「辛く、なかった?」
低く響く声が想像していたのと全く違う言葉を発し、新一を戸惑わせる。
何を言われているのか咄嗟に理解出来なくて思わずキッドを見上げると、彼はまるで痛みを堪えるように顔を歪ませて自らの指の先を見つめていた。
「こんな……醜い痕なんてつけられて……」
「……ゴメン。オレ……浮気した」
キッドの傷付いた表情を見ていられなくて、新一は心の痛みを堪えて告白した。
「もう二度としないって、自分に誓ってたんだ。本当に。……だけど、オレ、また浮気した。ゴメンな、裏切って」
だから、別れても構わないから。誓って、無様に縋ったりしないから、だから……。
そう言葉を続けようとして、キッドの表情が奇妙に変化したのに気付いて口を噤んだ。
「なん……で。……どうして、そんな浮気だなんて、言うんだよ」
「何で、って……。オレ、お前以外の男と寝たんだよ」
恋人以外の人間と寝るのが浮気だと、そう新一に教えたのはキッドだ。
新一は、キッド以外と男と寝た。身体中に情交の痕をいくつも残されて、それでも寝ていないと偽れるほど愚かではなかった。
……言い訳なんて、とても出来る身体じゃないのだ。
キッドはそれをしっかりと確認している。なのにどうして、今更な事を言うのだろう。
「寝たんだから……浮気だろ?浮気するようなヤツ、お前に相応しくな……」
「だからどうして『浮気』だなんて言い張るんだよ、お前は!」
一際大きな声で叩き付けられて、新一は驚いて目を見開いた。
「違うだろ!浮気じゃないだろっ!そう言うのは……そう言うのは浮気なんかじゃなくて────!」
「キッド」
滅多に見せない感情的な彼の態度に、新一は逆に心がすっと静かに引いていくのを感じていた。
堪らなくなって強く新一を抱き締めるキッドは、まるで泣いているみたいに小刻みに震えていた。
そんな彼に、新一は落ち着きを取り戻し、そして静かに告げる。
「『浮気』だよ、キッド。……オレは、これ以上惨めな自分を見せたくない」
見知らぬ男に無理矢理強姦されたなど、新一は認めたくなかった。これは只の卑劣な暴力に過ぎなくて、それ以外の何物でもない。
新一はそう思いたかった。男として、同じ男に蹂躙されたなんて認めるくらいなら、浮気したと思い込んだ方が余程マシだ。
キッドだって、その方がずっと心安らげるはずだと……。
「お前は、オレを責めて良いんだよ、キッド。前の時みたいに、オレを責めて……そして忘れてくれれば」
「忘れられる訳ねーだろ!」
声を荒げるキッドに、新一は思わず目を見開いた。
「相応しいとか、そうじゃないとか、お前はそんな事しか思っていないのか?」
「キッド……」
「オレはお前に相応しいから、だからオレの事を好きになってくれたのか?オレを受け入れていたのか?」
「……ちが」
「オレはそんなお前が他の男と何かしたからと言って、簡単に見限れるような人間だと思っているのか!?」
「……っ!」
「好きなんだ……愛してるって言ったの、信じてなかったのか」
落とした声は低く新一の胸に降りてくる。
「オレは、例えお前が人として、どうしようもなく堕落してしまったとしても……嫌いになんてなれねぇよ。手放したいとは思わない」
もう二度と離れたりはしないと、キッドはあの夜誓ったのだ。
キッドだって人間だ。泣きも笑いも怒りもする。
不愉快なものは不愉快だし、不快な感情だって、持ち合わせている。
だからと言って、その感情のままに行動する愚かしさをキッドは身を持って経験した。
己の感情のままに、浅ましい好奇心で自分を裏切った新一の前から姿を消した時、激しい後悔と共にもう二度と同じ過ちは犯さないと。
「お前みたいに、あっさり手放せる程簡単じゃないんだよ、新一」
切なくて苦しそうに表情を歪めるキッドに、新一は自分勝手な感情のままに恋人を翻弄していた事にようやく気付いた。
新一の身体を押さえ付けたまま見下ろすキッドの双眸は伏せられ、長いまつげが僅かに震えていた。
「……キッド」
冷えた空気が漂う中、新一は静かに彼の名を呼んだ。自由になった腕を持ち上げて、彼の髪にそっと触れる。
「オレ……あの男の罠にはまった時、お前の事なんて思い出しもしなかった」
新一は微笑んでいた。
「し、んいち……?」
「痛くて苦しくて辛かったけど……お前に助けて貰おうなんて、微塵も思い浮かばなかった。……何故だか判るか?」
新一の問いに、キッドは瞳を揺らし小さく頭を振った。
「新一……オレじゃ、頼りない……?」
「そうじゃねーよ。……そんなんじゃない。もし、それが命の危険を伴うような事だったなら、オレはお前の顔を思い浮かべていた。助けを呼ぶのなら、真っ先にお前の名を呼んだと思う」
けれど、あの時新一にとって、その行為は取るに足らない事だったのだ。
何て事ない、只の暴力。命を奪われる危険性はなかった。だから、時さえ過ぎれば解放されるであろう事を新一は冷静に判断していた。
その考えは、解放された後も同じだった。キッドが新一に触れる行為とは全く違う別物。
この程度の事で誰かに助けを呼ぼうなんて微塵も思い浮かばなかった程、新一にとってそれは取るに足らない事だった。
「それにこれは、自らが招いた自業自得みたいなものだったし。……オレは、あの男の本性を見抜けなかった。奴の依頼を頭から信じ込んで、不審な動きに注意していなかった。そういう隙のある人間は、あれくらいの痛みでも味わはないと、何度も同じミスを繰り返す。オレにとってあれはその程度の出来事だった」
だから、お前がそんな顔する事はないんだ。
柔らかな髪に触れ、新一は恋人に何度もそう言い聞かせる。しかし、キッドは触れてくる新一の腕を掴むと強引に引き寄せた。縫いつけられていた新一の身体は、キッドによって今度は彼の胸の中に抱き込まれた。
「その程度の事……か」
「キッド?」
「なら、何故『その程度の事』に対して、お前はオレを拒んだんだ?」
取るに足らない事ならば、キッドに嘘をつく必要なんて無かったはずだ。確かに平然とした顔で告げられて、キッドの心が穏やかなままでいられたとは思わない。
……だけど、あの時の新一は明らかに怯えていた。恋人である自分を恐れていた。
只の暴力だと思っているのならば、あんな態度を取りはしない。
真摯な表情で抱き締めてくるキッドに、新一は堪らなくなる。他の男にこんなに醜い痕をいくつもつけられて、それでも構うことなく強く感じる彼の温もりに、新一は縋るように顔を伏せた。
「辛くて苦しくて堪らなかった。と同時に憎しみと怒りでどうにかなりそうだった。……このままにしておくつもりは毛頭なかった。オレが受けた屈辱はそれ相応の痛みを持って返すつもりだった。……けど」
しかし、只の暴力でしかあり得ないと思っていた筈なのに、この身体に醜く映える数々の鬱血痕を目にした瞬間、新一の思考は混乱した。
あの暴力行為に『愛』とか『慈しみ』とか言った感情は一切含まれていなかった筈なのに、──何故こんなモノが残されているのだろうと。
「キスマークってさ……所謂『愛の証』みたいなもんだろ?……そんな痕がオレの身体に残っているのを見た時、どうして良いのか判らなかった」
愛されたつもりもないし、当然愛したつもりもなかった。なのに何故こんなモノが刻み込まれているのだろう。
「キッドはさ……オレにこんな痕をつけた事ないよな」
新一は寂しく呟いた。
「それが嫌だった訳じゃないんだ。オレ、そういうものに興味も価値も見出せなかった、そんなもの無くたって、お前のことを訝しく思った事なんて一度もないし」
だけど、好きな人には与えられなくて、新一を傷付けることしかしなかった男にはいくつもつけられた。これは一体どういう事なのだろう。
「そう思ったら……何かオレ、判らなくなって……怖くなった」
男が新一にした事は暴力以外の何物でもない。そう思い込んでいたはずなのに、心の何処かが少しずつズレていく感覚が新一を取り巻いた。
「オレは、こんな事で変わるなんて思ってなかったけど……お前はこんなオレの身体を見てどう思うだろう、って」
「……しん……」
「オレ、お前に信じて貰う自信がなかっ……」
「新一!」
キッドは思わず新一の顔を覗き込んだ。まるで泣いているような響きでそれでも淡々と言葉を続ける新一が堪らなかったから。
しかし、キッドの腕の中で、新一は泣いてはいなかった。……今にも泣きそうな表情で、キッドを見上げてはいたけれど……きっと彼は涙を見せることはない。
「怖かったのは、他の誰でもない……お前だったんだ」
絞り出すように告白した後、新一は声を詰まらせた。これ以上、何も言えなくなってしまった恋人に、キッドは、はだけたままになっているパジャマのボタンを一つ一つ丁寧な仕種で留めてやると、もう一度優しくその身を包み込んだ。
──気付かなかった。新一がそんな風に考えていたなんて。
背中に回した腕を静かに撫でながら、キッドは暫く無言だった。その間、新一はされるがままにキッドの腕の中で蹲るように身を寄せていた。
彼を傷付けたくないと、ずっとそう思ってきた。
優しくしたいし、大切にしたい。
だけど、そう思うのは……一歩間違えば愛しい人を傷付けてしまい兼ねない感情を必死になって抑え付けた結果だった。
彼に触れるその裏側に、愛というにはこんなにも醜い我を飼っている。そんな自分に気付いて欲しくない。嫌われたくない。だけど、優しすぎる自分が新一を追いつめていたのなら、キッドは躊躇うことなくその心の内を明かす事が出来た。
「新一が……もし、心変わりをして、オレの事を嫌いになったとしても、オレはお前を離さない。オレから逃げるようなら、きっと殺してしまう」
他人のモノになる様を見るくらいなら、自らの手で壊してしまうだろう。この気持ちは、恋というには不純で、愛と決めつけるには危険すぎる感情。
「そして、お前を傷付ける者も許さない」
硬い響きでそう宣言するキッドに、新一は彼がこの部屋から離れて再び戻ってくるまでの数時間の内に何があったのか、そしてどうしたのかが、漠然と見えたような気がした。
新一は脳裏に数日前に会った男の顔を思い浮かべた。彼の記憶力では忘れる事なんて早々出来るはずもなく、相手に対する怒りは今も揺るがない。
しかし、その男の辿ったであろう末路を思い浮かべて、少しだけ不憫になった。
「キッド」
「……何?」
「オレがお前を裏切ったと、そう思ったなら……殺せばいい。そうしてくれた方が、オレも楽になる」
お前なら、完全犯罪だって可能だろう?と、キッドの告白に新一はそう言って微笑んだ。
「そんな事言って……本気にするよ?」
「そうしてくれないと……オレ、何時かまたこんな風に悩んだり苦しんだりするかも知れない。……そして何時か、お前がオレから離れても、生き続けなければならない人生を送らなければならなくなってしまう位なら、その前にお前に殺された方が嬉しい」
離れていくかもしれない不安に怯える日々を過ごすくらいなら、きっぱりと断罪して欲しいと思った。
そうすれば、キッドと別れた後の自分を見なくて済む。一人の男の事を想って、女々しく泣くような無様な自分にならないでいられる。
すごく自分勝手な願いだと新一は思った。だけど、それが一番幸福な道だとも思った。
喜んでいるとも、悲しんでいるとも取れる双眸で自分を見つめ続けるキッドに、新一はもう一度静かに微笑むと、ゆっくりと顔を近づけた。
そっと触れるようにキッドの首筋に口唇を寄せ、そのまま顔を埋めるようにして、彼に真紅の印を刻み付ける。
「……新一?」
戸惑い含んだ声に新一は顔を上げる。そして、自らが付けた紅く咲いた華をそっと愛おしむように指でなぞった。
「好きだから、キッド」
何も知らない無垢な子供のような、駆け引きも何もない拙い告白。
「新一……」
「約束、だから」
「新一も……約束、して?」
こんなにも狂おしく乱される想いを感じた事は、一度もなかった。
そして、この先もきっとない。
今まで以上に大切な『何か』を手に入れたような眼でキッドは微笑い、そして新一の首筋に顔を埋めた。
新一に付けられたのと同じ処に刻む紅い薔薇。
「オレがお前を裏切った時は、その手でオレを殺してくれ」
生命と……そして魂をも賭ける価値があるのだから。
穏やかな瞳の奥に狂気の影はない。ただ、真摯な想いを受けて、新一は静かに頷いた。
「……お前と心中するのも、悪くないな」
物騒な物言いも、新一の口から零れれば甘美で芳醇な美酒となる。
互いに誓い合うかのように、二人は何度も口唇を重ね、そしてシーツの中で甘やかに乱れた。
甘い束縛という名と共に。
Sense of guilt
1 : 2002.09.01
2 : 2003.01.25
3 : 2003.01.25