お菓子
お菓子を食べませんか。
美味しいお菓子を食べませんか。
一緒にお菓子を食べませんか。
たっぷりバターのクッキーなんて如何でしょう。
それとも、ミルクたっぷりのチョコレートなんてどうですか。
いっそ、チョコチップをいっぱい練り込んだクッキーなんて美味しいですよ。
美味しいお菓子がたくさんありますよ。
ねぇ。一緒にお菓子を食べましょう?
コーヒーを2つ。
それらをトレイに乗せてリビングに入ってきた快斗は、自分がこの家に持ち込んだクッキーの缶の蓋が開いているのを見て、すこぶるご機嫌になった。
実は、快斗と新一がこんな一時を過ごせるようになるまで、少しだけ色々あった。
快斗が新一に会いに来るのはいつものことだ。連絡もなく突然やって来る訪問者を新一はあまり気に留めていない。
自分の邪魔さえしなければ、勝手に鍵を開けて入ってきても気にしないし、挨拶の一つもなく新一の隣に居ても動じない。
快斗は新一の行動や態度を熟知しているので、故意に何かをしない限り、新一を不機嫌する事はない。
さり気なく恋人のいる空間に溶け込む術を快斗はしっかり心得ていた。
新一にとって居心地の良い空間を作り出す事と、快斗にとっても幸せな時間を過ごせる事が一番大事。
そんな快斗が珍しく新一を午後のお菓子(お茶)に誘った。
この日も新一は読書に夢中で、快斗がやって来た時からずっと同じ体勢で本を読み続けていた。……そろそろ疲れを感じてくる頃だろう。ちょっと一休みがてら、一緒に此処でお菓子を食べましょう?と、クッキー缶を片手にお誘いを掛けたのだ。
案の定、新一は面倒そうに渋ったけれど、何とかこうしてコーヒーを煎れるまで持ち込んだ。
これからどうやって、新一のご機嫌を回復させるべきか、色々考えていた所に、既に準備万端な趣で待ちかまえている新一に、快斗は嬉しくなったのだ。
恋人は、大好きな読書を中断して、快斗が戻ってくるのを待っていた。「遅いぞ」なんて、嬉しい事を言ってくれる。
「お待たせ」
にこにこ笑いながら、トレイをテーブルの上に置く。ブラックコーヒーは新一へ、ミルクたっぷりコーヒーは快斗の元へと置いて、そのまま絨毯の敷かれている床に腰を降ろす。
先程とは比べモノにならないくらい新一の機嫌は良そうだと、そう快斗は思った。
少し前までは本当に不機嫌そうで「コーヒーしかいらない」と言い放っていたのだ。一緒にお菓子する時間を持つよりも、コーヒー片手に読書の続きを望んでいるような、そんな感じだった。
しかし今は、調子はずれな鼻歌を口ずさみながら、コーヒーカップを取り上げる新一が居る。
「あ、新一。砂糖はいい?」
ちょっぴり疲れている時は、少しだけ甘くして飲むのが常だ。その為にちゃんと砂糖は用意してあった。
……もちろん、快斗のコーヒーカップには既に大量の砂糖が入っている。
しかし、新一は快斗の気遣いに「いらない」と答え、一口飲んだ。
「糖分補給はそれでする。……オレも食って良いんだよな?」
と、クッキー缶を指さす新一の言葉に、快斗は思わず何度も頷いた。
テーブルの真ん中に置かれている缶に新一の手が伸びる。個別包装されている菓子を取り出すと、すぐにを縦に裂いて、目的のモノを取り出した。
丸いお月様のような形をしたクッキーを、ぱりんと割って口の中に放り込む。
その一連の動作を快斗はコーヒーカップを弄びながら目で追った。
食べることにはあまり積極的でない新一が。さっきまでは「コーヒーだけ」と断言していた新一が、缶の中を漁り手頃な包みを取り上げては口へと運んでいく。
「ねぇ。美味しい?」
ぱくぱく食べる新一が嬉しくて、快斗は自分が食べるのも忘れ訊ねると、彼はこくりと頷いた。
「うん、なかなか」
本当にさっきとはまるで違うご機嫌な表情に、快斗はまるでそれまでの片恋が通じたかのような喜びに浸った。
新一が……こんなに美味しそうに食べてくれるなんて信じられなくて。もしかしたら、快斗に影響されて味覚が似てきたのかも知れないなんて、そんな事を考える。
残ったクッキーも全部口の中におさめて、もぐもぐと咀嚼する。それから少し躾の悪い子供のように、指についたものをぺろりと舐めた。
(……あれ?)
その時ふいに、快斗の脳裏に何かを感じた。
それまでの幸せ気分とは少し違う、別の感覚。
何となく胸の中がすっきりしない快斗とは裏腹に、新一はテーブルの上のコーヒーカップを取り上げると、こくこく飲んだ。
何気に、快斗の眼が新一の喉元へと注がれる。
(……あれれ?)
なんだろう。
おかしい。
視線は新一に釘付けで、大好きなお菓子への興味がどんどん消えつつある事に快斗は気付いた。
大好きな恋人との午後のティータイム。
いつもはほとんど付き合ってくれない彼が、今日は大変珍しく一緒にほのぼのお菓子しているというのに。こんな時間を過ごせる事がとてもとても嬉しい事なのに。
どうしてだろう。
別に意識したとか、そんな事考えていた訳ではない。それは断言出来る、だけど。
……何故だか、突然悩ましい気持ちになった。
「……?どうかしたか?」
見つめる視線に気付いたのか、のほほんと訊いてくる新一。
「オメー、全然食ってねぇじゃん」
自分が食べる為に持ち込んだんだろ?なんて、呑気に言葉を続ける新一。
快斗は困った顔しか出来なかった。
言えやしない。言ったらどうなる事か。
───何故だか突然あなたに欲情してしまいました、なんて。
折角ご機嫌でクッキーなんか食べてるのに。いつもなら嫌がる恋人が、こんな幸せそうな顔をして傍に居てくれるのに。
滅多に味わえないこの穏やかな時間を、快斗だって大事に過ごしていたいのに。
恋人の些細な仕種のそのどれもが、快斗の欲を煽ってるように見えてくる。
普通にお菓子を食べて、普通にコーヒー飲んで。日常のありふれた光景のはずなのに。
「食わねーの?」
欲を抑える事に集中している快斗の前で、新一の紅い舌がちろりと見えた。それから、あどけなく小首を傾げる。
食べたいです……お菓子などではなく、アナタが。
そんな事言ったら、きっとこの家の出入り禁止を言い渡される事は目に見えているから、絶対に言えないけど。
一度それを言い渡されると、まず1ヶ月は家に入れてくれないのは、既に経験済み。
だから心の中で大きな溜息しかつけず、そして一向に静まってくれない欲望に、快斗の心は砕けそうだった。
「じゃ、オレ、もう一個貰ってもいい?」
相変わらず無邪気な恋人は、遠慮する事なく缶へと手を伸ばし、ごそごそと中をかき回す。暫くして取り出したそれは、スティックタイプの焼き菓子。
アーモンドがたっぷり入ったチョコレートが表面に敷き詰められたビスケット。快斗も好きなお菓子の一つ。
新一はそれを興味深げに観察して、それから封を開けた。
長いスティックタイプのそれを袋から全部取り出して、先端からぱくりとかぶりつく。
もごもごと拙く口元を動かして、食べる新一に、オレのモノも加えて欲しいなぁ……なんて、不謹慎な事を考えてしまい、慌てて視線を逸らした。
「何?食いたいのか?」
ビスゲットを咥えたまま器用に言葉を発する新一。不機嫌に顔を逸らす快斗に彼の眉が寄った。見ていられないくらい欲しかったのなら食べればいいのに。と、新一は缶の中を漁るが、同じお菓子はこれで最後のようで見つからない。
仕方ないなぁ。と呟いて。
新一はそれを加えたまま、スティックをパキンと割った。
「ほら、やるよ」
割った残りを食べながら、分けたビスケットを彼の前に差し出す。
快斗は暫く躊躇ったように視線を外していたが、新一が「ほら」と言って促すと、おずおずと視線をお菓子に向けた。
しかしそこでまた躊躇して。ひらひらと振られている恋人の手にあるビスケットを見つめ、更に向こうの顔を盗み見た。
新一が咥えたままの口元にちょこんと出ているお菓子の欠片。それが快斗を誘ってる。
……そこで、一瞬理性が飛んだ。
快斗の左手が、無意識に新一の手元へと向かう。満足気に口を動かし続ける新一をよそに、快斗は素早く彼の手首を掴んで引き寄せた。
「───!?」
手の中のお菓子を無視して、快斗は新一を引き寄せると───強引に彼と口唇を重ね合わせた。
「んん──っ!?」
突然の事に、一瞬何されているのか理解出来なかった新一は、目を白黒させて間近に見える恋人を見た。
快斗は、新一の口元から出ていたビスケットの欠片を噛みきるように奪うと、そのまま深く口唇を重ねる。
「んーんーっ!!」
胸を強く押して解放を願う新一だが、快斗は一向に離れない。
本格的にキスが深くなるのを感じて、新一は僅かに目を伏せた。
しかし、その薄く開いたままの双眸は快斗の顔から離れなかった。
些か長すぎるキスに満足したのか、快斗は新一を抱き締めたまま口唇を解放した。余韻に浸ろうとしたが、……哀しい事に理性は直ぐに戻ってきた。
素になって、恐る恐る腕の中を見ると、……どう見ても不機嫌としか読みとれない憮然とした恋人の顔が快斗を見ている。
今更ながらの暴挙に、快斗の腕が慌てて新一を解放した。
「ゴメン、ゴメン、ゴメンっ!!変な意味じゃなくて、そういうつもりじゃなくてっ!お、思わず食べちゃったんだよっ!」
両手を合わせて、慌てて謝る快斗は内心の焦りでいっぱいだ。
それまで、ちょっぴりイヤラシイ眼差しで見つめていたなんて気付かれたらどうしよう。
時と場所を選ばない、ケダモノののような男だと思われたらどうしよう。
三度のメシ+おやつよりも性欲が優先される万年発情中な男だと決め付けられたらどうしよう。
只でさえ新一は本能が希薄なのだ。人間の3大欲求と言われている食欲や睡眠欲……そして、性欲も。
行動エネルギーぎりぎりの栄養すら摂取し忘れるし、電池が切れない限り充電しないし……そして、必然性が見あたらない限り自ら欲情しない。
誰だって、自分と同じ価値観を持つ人間が好きだと思う。
もちろん、全く別の価値観を持つ人間と付き合うのは面白いし、自分だけでは知り得なかった世界を見る事も出来る。
だけど、目の前の恋人は波瀾万丈な人生を楽しむよりも、穏やかな私生活を送るのが好き。……事件と推理以外は。
だから、自分とは感覚が違って気ままに行動を起こす快斗とは、きっとこんな関係にでもならない限り関わろうとしなかっただろう。
「………」
何も言わない恋人がとても怖くて、快斗は項垂れてもう一度「ゴメン」と謝った。
「だって……そっちの方が美味しそうに見えたから……」
言い訳のようなそうでないような意味不明な言葉を吐きつつも、ちらりと新一の方を盗み見る。
相手は、殊更不機嫌な顔で快斗を睨んでいた。
怒ってる。……かなり酷く怒ってる。
快斗の頭が益々垂れていく。
「あくまでも、食いモンにつられた。……という事か?」
むっつりとした声が頭上から降ってくる。
「………うん」
長い長い沈黙だった。そりゃもう、快斗にとっては永遠に近い時の長さだった。
その長い沈黙が、ふと漏らされた新一の吐息で動き出す。溜息というには、些か軽い吐息に快斗は あれ? と小首を傾げた。
「そっか。……なんだそうなんだ」
そう言って、新一は意味深な視線を送る。
「お前はてっきり『オレ』が食いたいのかと思った」
「へ?」
「そっか……うん、残念だな。折角、こっちはその気になってたんだけど」
そう言ってニッコリ笑った。
「オレの独りよがりじゃ、仕方ないよな」
快斗は思わず顔を上げた。すると何とも言えぬ意地悪な笑みを見せている新一と目があった。
残念、残念♪ と、嬉しそうに繰り返す新一に、快斗の眼は大きく開かれ、そして情けない顔になった。
「しんいちぃ…」
「さて、と。それでは、これにて午後のティータイムはおしまい。……わざわざ付き合ってやったんだから、これ以降オレの読書の邪魔はすんなよ」
傍に置いたままにしていた読みかけの文庫本を取り上げると立ち上がった。
のんびりとした動きでゆっくりとリビングを後にする新一の後ろ姿を快斗は呆然と見送って……。
「……──新一っ、待ってよっ!!」
彼の姿が完全に視界から消えた後、暫く思考を停止したままだった快斗がようやく我に返って慌てて後を追った。
実の所、真実は。
珍しく興味を持ったクッキー缶の蓋を開けた時。
個包装されたクッキー、キャンディ、チョコレート……銘柄もバラバラの、しかし快斗厳選のオススメお菓子たちを見つめた時。
新一はふいに甘いモノを幸せそうに食べる恋人の顔を思い出したのだ。そして、こんな表情で新一を見つめてくるのは甘い一時を過ごしたベッドの中でもそうだと気付いたのだ。
優しくとろけるような微笑みで触れてくる時の恋人も、幸せそうな顔してた。
── 一瞬恥ずかしくなった。
けれど同時に、新一の存在がまるでお菓子と同列に置かれているような気がして少し悔しくもなった。
だから。
本当は快斗よりも先に新一の方がその気になっていたとか、実は何気ない風を装って上手く彼の本能を煽っていたとか……なんて事は秘密。
そんな砂糖の詰まったモン食うより、オレの方が断然好いに決まってる!……なんて、思った事も口が裂けても言えない。
その後、追いかけてきた快斗をどう新一があしらったか、なんてのも秘密にしておこう。