星月夜





満天の星を見に行きたい。
どちらともなくそんな気分に誘われて、声に出したのは新一の方だったけれど、本当は恋人の方が強くそれを願っていたような気がした。

人工光の氾濫している都会のビルの屋上で、今夜は細く湾曲した月が西の空にゆったりと浮かんでいる。
それでも星の光は少なくて。
星が見たいなぁ。と、最初に言ったのは新一だったけれど、「降ってきそうなくらいたくさんの星が見たい」と言ったのは恋人だった。

天の川が見てみたいとも。

だから、星が見たいと先に言ったのは新一だが、それを実行に移したくなるほど見たかったのは恋人の方なのだ。


────それが、堪らなく悔しい。





彼が彼独自の方法で新一を連れて飛び立とうとする事に、いくら恋人に絶対の信頼を寄せている新一でも、戸惑わずにはいられない。けれど、触れ合ったそのぬくもりがそんな不安をあっさりと拭い去った。
暗夜を滑空する肌寒さ。それ以上に感じる熱い存在。早く目的地に着いて欲しいと願う気持ちと、もう少しこのままで居続けたい気持ちが交錯する。

「寒くない?」と、風を切る中そう問いかけてくる吐息は、はっきりと新一の肌に感じた。堪らない、この感覚。

思わず彼に抱きつきたい衝動に囚われた。
どんな些細な事でも、恋人は新一の欲を煽る。相手が意識していなくても、新一が勝手に欲に変換してしまう。
心と身体がこんなにも密接に繋がり合ってる事に気付かされたのは、彼に恋をしてからだ。
心の暴走を身体が抑えられなくて、ただ相手に強く求める。
こんな風になってしまった淫らな身体が恥ずかしくて、耐える事を忘れたかのようなその行動は身勝手で、何時か彼に嫌われるかも知れない、捨てられるかも知れないなんて思っている事を恋人は気付いているだろうか。

目の前の男だけが居れば、もう他に何一つ欲しい物などないと思ってしまう程……一人の男に依存している自分。

「恋」という言葉で片付けてしまうにはあまりにも身勝手すぎる思考だった。



目的地に着いた時、既に新一の思考は星にはなく、背後から抱き寄せている男の存在だけが脳裏を占めていた。
星が見たいと言ったのは会話の成り行きに過ぎなくて、本当はこの男の側に居られるだけで満足な自分が浅ましい。

街灯一つないこの場所が何処なのか新一は知らない。周囲は真っ暗で足元に感じる芝の感触以外、此処の存在を掴む事は出来なかった。
只、背中に感じる恋人の温もりだけが全て。


「新一、すごいたくさんの星……降ってきそうだ」
夜空を見上げいるのだろう。感動的に声を上げて新一にも促すように両腕に力が隠った。
だけど新一は、その腕に恋人を抱いておきながら、他事に意識を向けている彼に意味もなく苛立った。
星空なんてどうでも良くて、只傍にいる男だけが欲しかった。

「何?……折角こんなに綺麗なのに、見ないのか?」
何時まで経っても見上げようとしない、それどころか俯いてじっと動かない新一を怪訝に思ったのか、恋人がほんの少し不安の響きを乗せてそう訊いてくる。


……だから、そんなモノなんかどうでも良いんだよ。


新一は言葉には出さずに、彼を包み込んでいる恋人の両腕に手を掛けた。
ぐい、と強引に引き離してその身を解放する。突然の行動に驚いたであろう恋人の心中などお構いなしに、新一は彼と向き合った。
案の定、吃驚したように双眸を見開いた恋人の顔があった。新一は不機嫌な表情のまま彼を見据える。

「新一、どうかした?」
新一の様子がおかしい事に、彼は直ぐさま察知したようだった。
温もりを取り戻すかのように腕を伸ばすその前に、新一は恋人の身体の自由を奪ってやった。

両腕を彼の背中にしっかりと回して強く抱き寄せると同時に、その身を預けるように体重をかける。
突然の行動に連続して驚いた恋人だったが、しかし回復するのも早かった。すぐに彼も新一の背中にそっと腕を回してくる。

「びっくりした」
そう言った恋人は少し笑っているようだった。憮然とした表情のままその声を聞いた新一は、更に強く身体を押し付けた。


……その余裕ぶった態度が、癪に障る。


まるで星の流れる音すら聞こえてきそうなほど静まり返った闇の中、感じるのは互いの体温と吐息だけなのに、心の距離が埋まっていないような感覚が脳裏を過ぎる。

空を二人で飛んでいる時から、新一はずっとこうしたかった。燻り続けている欲が強く頭をもたげる。
新一の反応を余所に、恋人は暫くの間じっとして動かなかった。
背中に回された腕も優しく触れてくるだけで変化はない。
焦らされているのかと、新一が苛立たしげに顔を上げようとした時だ。

「悪くないよな」
満足げに呟く声。仕掛けるのは常に自分ばかりで、新一は何時だってなかなかその気になってくれないから。

「悪くない。いや、かなりいいよ……うん」
「キッド?」

満足顔で何度も頷く恋人に新一は頭を上げた。と、目が合って、とびきりの微笑で見つめられた。

「こんな風に新一から誘いかけられるのも良いって事だよ」
そう言うなり軽く足を払われて、新一の身体がバランスを崩しかけた。慌てて体勢を立て直す前にキッドの身体が素早く動き、気付いた時には新一は満天の星空と対面していた。
芝生の上に横たえられ、上からキッドが覆ってくる。
突然の視界の変化に一瞬戸惑い、そして嫌味っぽく口角を僅かに持ち上げている男の顔に憮然とした。

「星……すごいだろ?」
まともに星座すら結べないほど、無数の星々が漆黒の空に瞬いている。
都会は人工の明かりが多すぎて、空は何時も深い藍色してるけど……本当はこんなにも深く暗い。まるで暗幕張ったみたいだ。

「星を見ながらやるのも悪くないよな」
まるで無数の光の目に見据えられているようだと、そう言ってキッドは笑う。

「……何、バカな事言ってんだよ」
「バカな事を言うくらい、嬉しいんだよ。新一から誘ってくれる事って、滅多にないから」
滅多な所か、こんな事一度だってなかったな。そう言って、またキッドは笑った。


当たり前だ。そう新一は思った。
こんな風に自分から欲を押し付けるなんて行為。……新一の真実を知ったら、目の前の恋人はどんな反応を示すだろう。

何時だって、新一は恋人に煽られる。浅ましくも淫らに熱くなる身体を知られたくなくて、何時も必死に隠し通している事を知ったら……。
彼はそれでも新一に優しく触れてくれるだろうか。

優しくされるのは好き。時に激しくされるのも悪くない。……けど、大切にされていると実感する時が一番嬉しかった。
この身勝手な想いに応えてくれているような気がしたから。




口づけの合間に熱い吐息が漏れる。
優しくて濃厚なキスに夢中なった。

触れ合う身体。キッドの指が新一の衣服を淫らに乱した。しかし、外したのはネクタイだけ。裾から侵入してきた掌が不躾に新一の肌を這い回る。まるで乱暴とも取れる動きで愛撫するのはわざとだ。……新一の官能を更に煽る為だけに。
首筋に下りてくる口唇が酷く熱くて、思わず喉を反らせた。
2つだけ外されたシャツのボタン。鎖骨の窪みを舌でなぞられて、それだけで身体がビクビクと跳ねた。

ベルトが外され、普段は決して他人が触れてくる事のない場所にすら、キッドの指は容赦がなかった。新一も抵抗することなく、更に相手に強く押し付けるように身体を動かした。
「……今夜の新一は、スゴク淫らで好いね。オレも余裕ぶっていられない……」
掠れた声が耳朶をくすぐる。
そんな些細な吐息すら、官能に繋がる。
「……キッ…ド…」
思わず上げた声が、思いの外甘くねだるような響きで、新一の頬が熱を帯びた。

キッドに慣らされた身体は、彼を受け入れるのに苦痛はほとんど感じない。辛いと感じたのは最初の内だけで、後はずっと快楽しか与えられていない。
「身体の相性が良いから」なんて恋人は言うけれど、身体だけでなく心も相性が良いともっと嬉しいのにと思う。


「……あぁ…っ!」

喘ぎが吐息となって、夜の空気に溶けていく。
こんな風に啼かされている自分がキッドの眼には一体どう映っているのだろう。一瞬、そんな事が頭を過ぎる。

しかし、その後は与えられる快感だけが脳裏の全てを占めて、只離れないようにとキッドに縋る事しか出来なかった。











「……天の川」
ぽつりと新一は呟いた。
欲求が満たされて、ようやく理性が回復した新一は恋人の腕の中で微睡みながら彼をそっと見上げる。

「何?」
聞き取れなかったと言うようにキッドは新一の髪に触れながら訊いてくる。

「天の川……見たかったんだろ」
星が見たいと言ったのは新一だったが、満天の星の中、天の川が見たいと言ったのはキッドだった。
芝の上に寝そべっていた二人。キッドが新一の言葉に頷いて、降るほどの星の瞬きを見上げた。そんな彼の顔に新一の手が伸びた。掛けられたままのモノクルを外す。

それから、そっと彼の口唇に触れるだけのキスをする。


「……今夜はびっくりで、幸せだな」
触れるだけでは満足出来なかったのか、離れる新一の口唇を再び引き戻して深く口づけた後、キッドは嬉しそうに言った。

「新一から誘われたのも、キスしてくれたのも、全部初めての体験で、幸せ」
「……言ってろ」

新一は外したモノクルを弄びながら、自らも仰向けになって夜空を見上げた。
星座の形がわからないほどの満天の星空。その中にくっきりと見える白い帯。星が集まり過ぎて、地上からは白くにしか見えないそれは、まるで本当の川のように揺らめいていた。

新一…とキッドが囁くように名を呼んだ。ふと隣に頭を向けると見上げたままのキッドが楽しそうな笑みを見せた。
「オレ達今、銀河系の輝きを直接目にしているんだよな。……何かそう考えるとスゴイと思わないか?」

天の川は銀河円盤の断面に過ぎない。銀河系は星々や塵やガスなどからなる巨大な光の円盤で、二人はその中に存在している。
「宇宙規模で考えると、オレ達の存在なんて塵にもならないし、そもそも銀河系だってそれが全てじゃないんだよな、きっと」
好奇心に満ちた男の弾む声が聞こえた。
「天の川って夜空の2割以上を占めてるって知ってた?」
「……さぁ」
「あの天の川の向こう側を知りたいと思わないか?あそこに一体何が潜んでいるのか……もしかしたら、別の銀河が隠れているかも知れない。そう思わない?」
楽しそうなキッドの声と裏腹に、新一の心は深く沈んだ。
きっと彼の興味は至る所にあるのだろう……新一の興味と違って。
そんな事思ってはいけないのに、だけど哀しくて、ただぶっきらぼうに「別に」と応える事しか出来なかった。

「……夢がないね、新一は」
やっぱり、事件と謎と暗号にしか興味ない?
ほんの少し呆れた声で溜息をつくキッド。堪らなくなって「そうじゃない」と新一は顔を背けた。

「新一……?」


「オレは……お前だけが居てくれれば良い」
「……え?」
「今のオレは、それ以外に興味なんてない……から」
天の川の向こう側に何があろうがなかろうが、そんな事どうでも良かった。例えそこに宇宙人が隠れ潜んでいたって驚かない。だって、新一の夢はキッドしかないのだから。

言うんじゃなかった。思わず言ってしまった言葉を新一はすぐに後悔した。
新一の気持ちを重荷に感じたら、キッドはいずれ自分の前から姿を消すだろう。……彼にはそれが出来るのだ。

新一は、彼が何者であるのかすら知らない。偽りの名前と罪に彩られた過去しか。

キッドは常に新一と一定の距離を保って接している。
彼は新一の恋人ではあるけれど、決して独占する素振りは見せない。
ちゃんと新一個人を認め対等に接し……物事を割り切って楽しんでいる。……少なくとも新一にはそうしているように見えた。

ずるずるとのめり込んでいる新一とは大きく違う。


今、新一は嫉妬しているのだ。……夜空の星に、天の川に、その向こう側の宇宙の存在に。
恋人の興味をさらえるそれらが悔しくて、どうしたら自分だけを見て貰えるだろうと、出来もしないことを考える。





背中を向けた所為で頬に芝が当たり小さく痛んだ。けれど、身動きすら取れなくて、音の消えた空間は風の音すら聞こえない。只、重い空気がのし掛かる。

「……新一が、そんな風に想っていたなんて、気付かなかった」
ふいに、背中が温かなものに包まれて、新一は彼に抱き寄せられた事を知った。

「キッド……」
驚いた表情で振り向いた先に、嬉しいような困ったような顔をしたキッドとぶつかった。
「新一は何時だって冷静沈着で、どんな時も自分を見失わない人間だと思ってた」
新一と逢うのは限られた時のほんの一瞬で、その短い逢瀬の中で、それでもキッドは必死になって関係を深めてきたつもりだった。
新一は、キッドと逢う時も自分を崩さない。僅かに揺らぐのはキッドが彼を抱き寄せた時くらいで、腕の中にいる時だけは素直な表情を見せてくれた。
それだけでもキッドには大きな喜びだった。それは間違いない。

「新一は、束縛されるのを嫌っているみたいな態度ばかり取っていたし……」
独占されるのを拒んでいるように感じた。
「だからオレも、新一に煩わしい存在にならないよう気を遣って、接してきた」

新一がドライな関係を望んでいるような態度しか取らなかったから。彼がそれを望むのなら、キッドもそれに併せるしか無かった。
そうすることで、少しでも二人の関係が長続きするように、彼なりに努力してきたのだ。


「……でも、そうじゃなかったんだ」
二人が互いに気を遣い合っていたのだ、相手の事を想いながら。

思いやる気持ちは大切な事で、どんなに近い間柄でも二人は他人だから、それは間違っていない。

ふいに髪に優しい吐息を感じて、新一は小さく身じろぎした。
「キッド……?」
「……ああ、やっぱり今日は幸せな夜だ」
漆黒の絹糸のような髪に口づけて、うっとりと囁く。
「新一、もしかしてオレを殺すつもり?……嬉しすぎて心臓止まりそうだよ」
新一から誘われたのも、キスしてくれたのも、こんなに強く想っていてくれていた事も知ることが出来て、もう幸せ過ぎる。

背中から回した腕が新一を強く抱き締めた。そんな彼の態度に不満を感じた新一がごそごそと体勢を変えて、キッド向き合う。
愛しげに微笑んだ恋人の顔を見つめ、新一は改めて思った。
この男を絶対に失えないであろう自分を。彼は既に新一の核と最も近い場所で繋がっている。もう、切り離す事は出来ない。

「オレはもう二度とお前を離す事は出来ない、きっと。……それでも、構わないのか?」
まるで乞うように訊いてくる新一に、キッドはゆったりと微笑んだ。
「新一、それはオレも同じ」
そっと口唇に触れてきた指先の暖かさに新一は静かに目を伏せた。



もう満天の星も銀河の向こう側への興味も、その全てが消え失せて、只二人だけが真実になった。





NOVEL

2002.10.13
Open secret/written by emi

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