2月のバレンタイン
Happy Happy Valentine!! と書かれた大きなポップが快斗の視界に飛び込んできた。
「……ああ、もうそんな季節か」
2月。日本は未だ世間も季節も冬真っ直中だ。それでも店内は華やかに彩られ、不景気も寒さも吹っ飛ばしてはしゃいでいるように見えた。
……バレンタインか。
快斗は内心嘆息した。
バレンタイン。快斗にとってそれは決して不快なイベントではない。元々非常に甘いモノ好きな彼は、只でチョコが貰えるのなら大歓迎♪な姿勢で両手を大きく広げて、昔はこの日を待ちかまえていたものである。
……バレンタインの意味を知るまでは。
うっかり貰っては後々面倒な事を背負い込み兼ねない、恐怖のバレンタイン。まさに旨いチョコには裏がある、である。
ちょっとした一件があってからは、この日にくれる物は例え食べ物でなくとも断る事にしている。バレンタインと言うモノは、そうであると言うだけで、恋の告白を正当化出来るらしい。
しかし、好きな女の子がいる男ならまだしも、快斗のように別に付き合いたい女が居る訳でもない人間からしてみれば、はた迷惑な行事に過ぎない。
……いや、あんな下らないアソビは撤廃すべきである。と、快斗は昨年のバレンタインデーからずっと思ってる。
実の所、快斗は決して恋愛否定者などではない。恋だってした事あるし、目下片思い続行中でもある。
只、好きになったのが女の子ではないので、別にバレンタインなど快斗個人には関係ない。
しかし、決して無視出来ないものでもあった。
そう、あれは昨年の事。どこぞの血迷った野郎が、よりによって快斗が恋焦がれて告白すら出来なくて、もう一緒にいられるのならずっと友達のままでも構わない!とまで思い詰めている相手に堂々とチョコなど渡しやがったのだ。
恐ろしく向こう見ずな野郎である。どう考えても男がチョコを渡すなどという不自然極まりない行為を、さも当然の権利であるがごとく快斗の想い人の前に差し出した時、一瞬目眩に襲われそのまま倒れそうになった。
しかも、当の相手がそんな奴の茶番に対して、生真面目にも受けたのだ。
そのあまりの出来事に、快斗はこの世から消滅しそうになった。いや、実際数秒間は消えていたかも知れない。
チョコをあっさり受け取った事も、相手が男だった事もショックだったのだが、何より辛かったのは、それまでもたくさんの女の子達からチョコ&プレゼント攻撃を受けていたにも関わらずさらりとかわしつつお断りを入れていた事だった。
……そう。奴からのチョコだけを受け取ったのである。
まさかまさか、あんな野郎に気があったのか!?と、想い人の趣味の悪さに泣きたくなったのだが、表向き親友の位置をキープしている快斗としては、動揺する事など許されなかった。
少しくらい吃驚するのは許容範囲内だが、それ以上はマズイ。あくまでも友人としても発言しか出来なかったのは、この関係が壊れてしまうのを恐れたから。
快斗が告白なんかして、もし二人が二度とこんな風に一緒に連んでいられなくなったら……そう思うと、これ以上前には踏み出せなかった。
男からのチョコを受け取ったものの、どうすれば良いのか困り果てている想い人に、当たり障りのない事しか言えず、そんな快斗の言葉にも彼は真剣に考えて悩んでいる姿を見守りつつ、断って欲しいと願っていた。
断るものだと思っていた。
……だって、非常識だ。そんなの変だ。
それが許されるのなら、先に快斗が告白するべきなのだ。
ぽっと出の輩に奪われて良いはずがない。そんな事、神様が許しても快斗が許さない。
しかし、現実は快斗に厳しかった。
彼はあっさりその野郎と付き合いだした。傍にこんなにこんなに強く想っている人間がいるのも知らずに。
流石に親友としても、ここまでお人好しに二人を祝福してやる事は出来なかった。何なら今からでも奪ってやろうとすら思った。
ある時、さり気なく訊いた事があった。「もしかして、女の子より男の方が好きだったのか?」と。
もしそうなら、快斗にも望みはある。……というか、告白しても疎まれる確率は低いのではないかと。関係が歪んでしまうのは避けられないが。
しかし、快斗の一縷の望みも彼はあっさりとうち砕いた。
「普通に考えて、男と付き合うなんて、考えただけでも気持ち悪い」
嫌そうにそう吐き捨てる想い人に、「じゃあ、何でアイツはOKなんだよ!」と叫びたかったが、「アイツは特別」と、そう答えられるのが辛くて、何も言えずに曖昧に笑うしかなかった。
二人の間に何があったのかは知らないし、快斗も根掘り葉掘り聞く気もない。
しかし、幸運な事に二人の関係は僅か半年でその幕を閉じた。快斗にとっては、地獄のような半年間だった。
そして快斗は再びフリーとなった彼と、今も昔と変わらぬ関係を続けている。『親友』という、揺るぎない関係であり、快斗にとっては、時に強くもどかしい気持ちにさせられる関係を。
彼を好きな気持ちは変わる所か、一分一秒募り続けている。
「快斗!」
売場の前で物思いに耽っていた快斗の背後に掛けられる声に、彼は急速に現実へと引き戻された。
少し弾んだその声は、快斗が恋して止まない想い人のもの。
「新一」
振り返りざま、最高の笑顔で彼の名を呼んだ。
「買い物終わった?」
新一が本屋に入る時は、快斗は決して近付かない。彼は、書籍を物色している時に傍にいたり、ましてや話しかけたりすると怒るのだ。彼にとって、本屋は誰にも邪魔される事なく居たい場所だった。
だから快斗は彼の買い物が終わるまで、時間を潰していたのだ。
「ゴメン、少し待たせたよな」
いつもの袋に入りきらなかったのか、手提げ袋に入れられたそれは少し重そうに底が出っ張っていた。快斗はさり気なく、だがさも当然と言わんばかりに彼からそれを取り上げるとにっこり笑った。
「いいんだよ。オレが付き合うって言ったんだから、ゆっくりしてても」
とっておきの笑顔でそう応えて、一休みしようと近くのコーヒーショップに誘う快斗に新一は素直に頷き、そしてふと彼の背後に設けられた華やかな売場に視線を移した。
「……チョコだ」
「ん?……ああ、もうすぐアレだから」
バレンタイン、と複雑な響きで呟く快斗に新一は小首を傾げ、それから少しだけ意地の悪い笑みを見せた。
「好きだよなぁ……お前も」
「え?」
「チョコ」
快斗の心中などお構いなしに言ってのける。
「折角お前の好きなお菓子をたくさんの女の子達から貰えるって言うのに、何で毎年受け取らないんだ?」
「受け取れる訳なねーだろ。バレンタインのチョコは只のチョコじゃねーんだから」
不愉快な顔を見せてそのまま歩き出す快斗に、新一も慌てて着いていく。
「でもさー。……本当は欲しいんだろ?」
「何が」
「だから、チョコだよ。売場の前で物欲しそうに突っ立ってだじゃないか」
楽しそうに笑いながら肩を叩く新一に、快斗はふと足を止めた。
「新一は、欲しくないの?チョコレート」
「オレ?……別にいらない」
甘いの苦手だし、貰っても食べないし。
「あ、そう」
快斗はそうしてまた歩き出す。そんな彼の態度に、新一はほんの少し不審な眼差しを向けたが、彼もまたすぐに歩き始めた。
一歩下がった場所から着いてくる新一に快斗は僅かに歩調を緩め、二人並んで歩いた。そっと隣を窺うと、何やら考え込んでいるような、床に視線を落とした新一の綺麗な横顔が見えた。
ああ、どうしよう。やっぱり新一が堪らなく好きだ。
いっそのコト、バレンタインデーに乗じて告白しようか。
別に男からでも構わないよな。だって、去年は男からのチョコを新一は堂々と受け取った事実があるし。
でもやっぱり無理だろうなぁ。
そんな根性あるのなら、とっくの昔に告白なり何なりして、あっさり玉砕してるはず。
切ないなぁ。
快斗は、新一に気付かれぬように小さく溜息をついた。
「ゴメンね。オレ、こういうのは受け取らない事にしてるんだ」
もちろん、告白も無しね?
と、ウィンクまじりにそう告げて、さり気なく手を振ってその場を離れる。
去年と全く変わりない今年のバレンタインデー。
女の子達の好意に笑顔でお断りを入れながら、快斗はこの日、新一の傍を離れようとはしなかった。
「変な女に引っかかって、抜けられなくなったら困るだろう?」と、からかい混じりにそう言って、その実警戒していたのは、女ではなく、男。
去年のように「鳶に油揚げ」な真似は断じて許さないし、認めない。
新一の方は呆れ顔で溜息をついていたが、本当は幾分心強いと思っていた。
一人で猛烈アタック仕掛けてくる女性に対抗するには、少し力が足りない。肉体的にも精神的にも。
快斗も新一も突出した容姿と才能とカリスマ性を兼ね備えた人物だったから、この日を静かにやり過ごす事は、女性達が許すはずもない。
二人して、もう何人の女性をお断りしてきただろう。一人寄ってくると、その背後に30人は付いてくるようで、正直二人ともうんざりしていたのだ。
「……何か疲れたね、新一」
「……そうだなー」
冬の日の午後は早い。夕方に差し掛かったような寒空の下、二人の吐息は白い。
「そう言えば、昼メシ食べ逃したよな」
「……おちおち食べていられないもんな」
快斗は黒いコートを翻しながら「腹減った」と呟いた。元来、食の細い新一としては、別に一食抜いた所で何ともないのだが、そんな快斗の少し情けない声の響きに、新一はふと彼を見た。
冷たい風が二人の髪を軽く乱した。新一はコートに両手を突っ込んだまま、寒そうに肩を竦める快斗を見つめた。
「──なぁ、快斗」
「何?メシでも食いに行く?」
快斗の少し弾んだ声に、新一は少し躊躇いがちに視線を彷徨わせていたが、その後小さく頷いた。
はっきり言って、快斗はかなり空腹だった為、味よりも早さ優先で近くの店をピックアップした。快斗と違いさほど味に拘らない新一はそこでいいと頷いて、二人並んでその店に向かう。
「やっぱりさ……欲しいんじゃねぇ?」
ふと隣で歩く新一がぽつりと呟いた。
「何を?」
「だから、……チョコ」
お前、甘いモノには目がないだろ?本当は、目の前に差し出されるチョコ欲しがってたんじゃないのか?
さり気なく視線を合わせずに、新一はそう言って小さく笑った。
「あのな。……確かにオレは甘いモノは好きだ。それは認める。けど、こんな日に貰ったチョコなんて、怖くて食えるかよ」
うんざり、と言うよりげっそりとした表情で快斗は溜息をつく。
誰から貰ったって、チョコはチョコ。メーカーこそ違えど、さほど味に変わりない。確かに一粒何百円とする高級チョコも存在するが、手渡された人間によって味が変わる筈もなく、誰から貰っても口に入れてしまえば皆同じ。
しかし、ロハで何の見返りもなく、この日にチョコをくれるような女など居よう筈もなく。温度差はどうであれ、明らかに「好意以上」の感情でもって差し出されたモノなど受け取れる訳がない。
そんな事、新一だって最初から承知していた筈だ。それを今になって何故話題にされなければならないのだろう。
正直、この日が早く過ぎ去って欲しいと願っている快斗としては、今日だけはバレンタインを連想してしまうようなモノの話題などして欲しくはなかった。
「今日だけはチョコの単語も聞きたくない」
今はそんな気分。……今の所、新一は誰も相手にしていないし、去年のように知り合いに迫られる事もなく、比較的安心しているが、これ以上彼にちょっかいをかけるような輩は出てきて欲しくはなくて、その事で頭が一杯の状態の快斗としては、自分の事など気にも留めてなかった。ましてや、彼女達が手に持っているチョコなど想像範囲外だ。
しかし、そんな快斗の態度を余所に、新一は何処か残念そうな寂しそうな顔で快斗に背を向けた。
「そっか……チョコ、いらなかったのか」
オレ、てっきり欲しがってると思ってた。
そう声を落とす新一に、快斗は不思議そうに首を傾げた。……何故、そこで落胆されなければならないのだろうか。快斗としては、新一に食べ物で釣られるような軽い男とは思われたくなかったし、第一、好きでもない子から貰って喜ぶような浅はかな人間だとでも思い込まれていたのだろうか。
もしそうなら、快斗としてはすぐにでも訂正しておかねばならない事である。
しかし新一は、いつもなら甘いモノに飛び付くような快斗が、今日に限っては顔を顰めているその事に疑問を持っているようだった。
「チョコ……嫌いだった?」
「そりゃ、甘いのは好きだけどね……うん」
好きなヤツから貰えるのなら、そりゃ滅茶苦茶嬉しいけど。と、心の中だけで呟く。
絶対に貰える筈のない相手を目の前にして、コイツから貰えればどんなに幸せだろう、なんて夢のような事を考えた。
すると新一は暫く何かしら言い澱んでいたが、ふいにぴたりと立ち止まり、半歩遅れて快斗も立ち止まると、どうしたのかと声を掛ける前に新一が口を開いた。
「オレさ……オレ、お前はてっきり欲しがってると思って……お前にやろうとチョコ、持ってるんだ」
「……え?」
新一が何を言ってるのか咄嗟に判断出来なくて、快斗は呆けた声を上げた。
「だから……お前が女の子達からのチョコを受け取れない気持ちは良く分かるし、オレだって見ず知らずの子から食い物貰ったって、素直に喜べはしない。……けど、あの子達が持っているのは紛れもなくチョコで、お前の大好物な訳だろ?気持ちとしては受け取れないけど、チョコそのものは食べたくて仕方がないんじゃないかと思って、お前の為に用意してやってたんだ」
そう言いながら、新一はコートの大きなポケットからガサゴソとラッピングされたモノを取り出した。
「女の子達が持ってたような高級なモノでも手作りでもない、只の駄菓子だけとさ。……まぁ、チョコには違いないだろうと思って」
これ……と、躊躇いがちに差し出すそれを快斗は未だ思考混乱中のまま受け取った。
それは新一が言ったように、流石に「バレンタインプレゼント」な代物ではなかった。薄いブルーのラッピング袋に直接チョコレートが詰まっている。お菓子売場の一角に設けられている、所謂量り売りのお菓子のようだった。
金色のビニタイで上部をキュッと留めただけの味気ないそのラッピング袋を持ったまま、快斗は暫く呆然と突っ立っていた。
……これは、一体何だろう。只のチョコはチョコなのだが……今日この日に、よりによって想い人から貰えるチョコを果たして「バレンタインチョコにあらず」などと思えるであろうか。
……いや、思いたくない。
「……新一」
「何だ?……その程度じゃ不服か?」
出所がはっきりしてるから、貰っても平気だろ?と新一は微笑む。
「そうじゃなくて……」
快斗は口ごもった。
何と言えば良いだろう。
「これ、バレンタインチョコとして貰って良い?」と素直に訊いてみたいのは山々なのだが、……そんな事言って、新一に戸惑われても困る。
そんな事言って、イヤがられて迷惑がられて……そしていつの間にか疎遠になったりしたら。いや、それ以前に嫌われたりしたら……。
そう考えると、何も言えなくなってしまう。
黒羽快斗は、いくらでも強引に出られる性格の持ち主であった。しかし、流石に恋……しかもこの世に生を受けて以来、これまでになく本気の恋を自覚している相手に対して、ダメもと強引な発言は出来ない。
ここ一番で小心者な自分を、快斗は情けなく思った。
しかし。
新一が快斗の為だけに買ってきてくれた。
……それだけでも幸せな事だと、快斗はそう思い直した。
「新一、オレ嬉しいよ。ありがとう」
「……本当に?安物ダセー、なんて思ってないか?」
「んな事!」
快斗は心外だと言わんばかりの顔をして、ビニタイを解いた。色とりどりの銀紙で綺麗にくるまれた、たくさんのチョコレート。その中の一つを取り出して……ふと、ある事に気が付いた。
(あれ……?)
快斗が取り出したのは、綺麗なピンク色の光沢眩しい銀紙に包まれた小さなチョコレート。それをマジマジと見つめ、それから残りのチョコの入っている袋を覗き込む。
そのどれもが、包まれた紙の色こそ違えど同じ種類のもので、……快斗は数瞬考え込むように目を伏せてから新一に視線を戻した。
「新一、このチョコさ……新一からオレへの『バレンタインチョコ』として受け取って良い?」
言い出したくて、言えなかった言葉。
高級なモノでも手作りでもない、只の量り売りのチョコレート。それでも快斗が突然、そう決心して言えたのは……彼がくれた小さなチョコレートの全てがハートの形をしていたから。
「お前は……どうなんだよ」
ぽつりと呟く新一に、快斗は微笑で応える。
「そりゃもちろん、そうであれば嬉しいよ。……オレも新一の事、好きだからさ」
色とりどりのハートがたくさん詰まったチョコレート。
売場にはきっと様々な種類のお菓子が売られていただろう。チョコレートだって、それこそ色々ある筈だ。……なのに新一が選んでくれたのは、ハート形のチョコばかり。
快斗はそれに賭けたのだ。
快斗の告白を聞いて、新一は暫く黙ったまま快斗を見つめていた。無表情とも見て取れる顔つきで、何も言わず動かず、じっとしたままで。
言葉にしたものの、黙ったままの新一を見ていると段々不安が増してくる。
いい加減、このままの状態を維持し続けるのは辛くて、何でも良いから言って欲しいと快斗が思い始めた時。
──突然、新一の身体が己の意志に反して崩れ落ちた。
「し、新一──!?」
地面と対面する前に素早く動いた快斗がその身体を支えると、新一はうっすらと瞼を押し上げ呟いた。
「……よかった。好きって言ってもらえて……」
新一はそれだけ言うと、そのまま気を失った。
次に新一が気が付いたのは、自室のベッドの上だった。
「……あれ?」
一瞬、自分がどうして此処に居るのか分からず声を上げると、それに気付いた快斗が枕元にやって来た。
「気付いた?……大丈夫か?」
何処か痛い所はない?と続けざまに訊いてくる快斗に、新一はぼんやりした頭を必死に覚醒させようと何度も瞬きをした。
「オレ……何で」
「突然倒れたんだよ。……覚えてない?」
心配そうに気遣う快斗に、新一もようやく思い出してきた。
「本当に……突然倒れるから、オレ吃驚したよ。でも、気を失ってるだけみたいだったから、そのまま此処に運んだんだけど……本当に大丈夫?」
「ああ……ゴメン、迷惑かけて」
「それは、別に構わないけど……」
気遣う快斗に配慮しつつも、新一は起き上がった。軽く頭を振って、倒れた時の事を思い出す。
「えっと……それでね、新一」
倒れる前の事、覚えてる?と、少し不安気な表情で訊いてくる快斗に、新一は静かに頷いた。
「覚えてる」
そう言うと同時に、僅かに新一の目元が朱に染まった。
「ゴメン。……実はオレ、ずっと緊張してて」
新一はベッドの上に半身を起こすとそう言って、もう一度謝った。
快斗の為に用意したチョコレート。本当は会ったら真っ先に渡すつもりだったのだと新一は言った。
「オレ……その、快斗には変な負担掛けたくなくて……男からチョコ貰っても困るだけだろうとは思ってたんだけど。でも、何故だかどうしても渡したくなって……」
昨日までは、そんな事考えもしなかった。……正確には、自覚していなかった。
今年もバレンタインがやって来る。毎年見知らぬ女性から色々誘われる新一ではあったし、その事に対して実はとっても迷惑な気持ちでいたのだが……今年は別の事で気が滅入っていた。
この時既に新一は快斗への恋心を自覚していた。
だから、新一にとって、自分の元にやって来る女よりも、快斗に近付く女を見る方がずっと辛かったのだ。
去年迄は快斗は誰のチョコも受け取らずに軽くあしらっていたけれど、今年もそうだとは限らない。もしかしたら、好きな子が出来たかも知れない。もしかしたら、今年は誰かお目当ての女性が居るのかも知れないと、新一は不安で不安でならなかった。
バレンタインなんて、来なければ良いのに。そうとすら思っていた。
新一が快斗に対して抱いていた感情は、友人に対してはあってはならないもの、しかも同じ男で。流石の新一も、彼に想いを告げようとまでは考えが及ばなかった。
男を好きになるなんて、おかしい。以前、短いながらも男と付き合った事のある新一ではあったが、そう言った事実は棚に上げて、ずっとそう思ってきた。
しかし、そんな気持ちを瓦解させるきっかけを作ったのは、昨日街でたまたま出くわした小さな友人達だった。
以前新一が薬で小さくなっていた頃知り合った元クラスメイト。彼等は新一がコナンであった事は知らないが、コナンに良く似た探偵でもある新一を、彼等は殊の外慕ってくれていた。
そんな彼等にせがまれてやって来たお菓子売場。お菓子の量り売り場で透明ボックスに入れられた色とりどりのお菓子を覗き込んでいる彼等を微笑ましく見ていた新一は、その菓子を買ってあげる事にしたのだ。
一人200g迄と決めると、皆はしゃいでお目当てのボックスに飛び付いた。楽しそうに選んでいるその表情を見て、新一も嬉しくなった。
気まぐれに自分も買ってみようと思ったのはその時である。
新一は決して甘いモノが好きな訳ではない。並んでいるお菓子はどれも甘そうで、新一の食欲をそそるようなものではなかった。それでも、子供達に混じって買いたくなったのは……コナンの頃を思い出したからかも知れない。
可愛らしいラッピング袋を手に取って、どのお菓子にしようかと物色する。色形、種類豊富なお菓子の中からチョコレートを選んだのは無意識だった。
たくさん詰め込んだ袋を見た少女に「わぁ、ハート形のチョコばかりだね」と楽しそうに指摘されるまで、自分が何をしているのか気付いていなかった。
全く自覚していなかった筈なのに、──新一はこれを快斗にあげようと選んでいたのだ。
だって、こんなにたくさんのチョコレート、新一の周りには快斗以外に食べる人間などいやしない。
だからこれを快斗にあげようと、新一は決心した。
あげたいのは、快斗を好きだから。
でも、恋愛には興味なさそうな快斗に、新一の想いはきっと重荷になるに違いない。只でさえ同じ男同士。それに、今のままでも充分幸せなこの時を、新一は壊したいとは思わなかった。
……そう思う事で、彼に嫌われる可能性を少しでも低くしようと、そんな姑息な事を考えた。
新一の気持ちに気付いたら、快斗はきっとそれまでのような笑顔を見せてはくれないだろう。
好きだと告げるには、まだまだ新一には無理だった。なら、さり気なく気取られないようにさらりと渡してしまえば良い。そう言った状況に持っていくのは難しいかも知れないが、普段通りに何気なく渡せば気付かれない。……きっと快斗も素直に甘いモノを喜んでくれる筈。
昨晩新一はそう何度も考えて、バレンタインデーにこのチョコを渡そうと心に決めた。チョコではあるけれど、どう見ても駄菓子屋さんでかき集めたチョコにしか見えないのも好都合だった。
きっとこれなら気にせず受け取って貰える筈だ。想いはたくさんこもっているけど、その気持ちを快斗はきっと気付かない。
……気付くはずがない。
──しかし、そうは思っていても、実際相手に渡すとなると、並々ならぬ精神力が必要だった。
新一はこの日、朝からずっと緊張しっぱなしだったのだ。上手くタイミングを見計らって渡してしまおうとそればかり考えて。他の女達が快斗に気軽に声を掛けてくる事実に別の妬心さえ覚えた。
何時まで経ってもタイミングが掴めず、正直、新一の緊張はピークに達していたのだ。
だから、何とかチョコを渡し終えて、……しかも当の相手から聞けるはずもない言葉を聞いた時、新一の緊張の糸はぷっつり切れてしまった。その場で気を失ってしまったのだった。
痞えながらも、静かにそう話す新一の言葉に、快斗は俄には信じられない思いで一杯だった。
……だって、そんな夢みたいに都合良い事、信じられる?
新一も、快斗の事が好きだったなんて。その「好き」が恋愛感情からなる「好き」だなんて。
「新一……オレ、嬉しいけど。お前にそんな風に想ってもらってスゴク嬉しいけど……でも、何時から?新一って、オレの事をずっとそんな気持ちでいてくれてた訳じゃないよな」
快斗は恋愛事には聡い方だと自負している。新一がずっと想い続けていてくれたのなら、何かしら気配に気付いていた筈だ。
快斗の言葉に、新一は微苦笑を浮かべた。軽く頭を振って、快斗の双眸を柔らかく見つめる。
「オレ、前に言ったよな?お前と居ると楽しいし安心出来るし心地良い、って」
そう感じるのは快斗にだけで、最初はその事に対して別段気に掛ける事はなかった。
気の合う相手というのは少なからず存在する訳で。快斗もそんな友人の一人だと、ずっとそう思ってきた。
それが何時からだろう。……心の奥に普段とは違う別の感情が生まれたのは。
それが恋である事など、新一は知りようがなかった。もちろん彼も男だ。朴念仁ではない。しかし、恋と言えば……その昔、幼なじみに対して感じていた淡い想いくらいしか経験していなかった新一としては、恋愛そのものに疎かった。
それに、相手は女性ではなく、男である。しかも友人で、親友なのだ。
好意を自覚する事は出来ても、恋と自覚するのは難しかった。
しかし、ある時新一は自分のこの想いを劇的に自覚する事となる。
「お前……覚えてる?去年のクリスマスの事」
「クリスマス……?」
さて、何だっただろうか。と、快斗は首を捻った。
去年のクリスマス。……確かその日も新一と過ごした筈だ。お互いに、一夜を過ごす彼女もいない者同士、侘びしく二人でケーキでも食べようと、さり気なく、しかし心の中では必死に新一を誘った事を快斗は思い出した。
「一緒にシャンパン飲んで、ケーキ食って……それなりに楽しかったよな」
「……ああ。だけど、さ……お前、本当は誰かに誘われていただろう?」
オレ、知ってるんだ。新一が寂しそうに頭を下げた。
「え?」
その言葉に、新一とは逆に快斗は顔を上げた。
「誘われたって、……オレ、覚えがないけど」
確かに、年末は色々誘われたような気もするが、新一と一緒に過ごす事しか頭になかったから、何があったかなんて、興味無い事はほとんど覚えていないのが実情だった。
しかし、新一は違うようだった。とぼけているとでも思ったのか、顔を上げると、きっと快斗を睨み付ける。
「すこぶる美人だったよ。お前さ、イブはその人と一緒に過ごすの誘われてただろ」
大学の構内の一角、普段はあまり人が近付かない場所。特に寒い時期は吹きさらしで寒いその場所で、新一は快斗がふるいつきたくなるような美人と仲良くイブの約束を交わしていたのをたまたま目撃してしまった。
好みはどうであれ、新一が見ても難点を付ける事は出来ない程の外見を持った女。普通の男であれば、このチャンスを逃す事などあり得ないとすら思える程の極上品。
当の相手も己の容姿に絶対的な自信を持っているのか、断られる筈はないと、その態度に顕著に表れていた。
そして、相手にしている快斗の方も満更ではない表情をしていた。……新一には、そう見えた。
そう感じた時、新一の胸の中に何か得体の知れない感情が生まれたのだ。
快斗が新一以外の人間に見せるその表情は、自分の時と違って見えた。感情が新一以外の人間に向けられる事への不安。そして……妬みや嫉みと言った醜い感情が、じわじわと新一の胸の中を侵食していくような感覚に襲われた。
嫉妬。そんな感情を初めて持ったと同時に知った、快斗への想い。
それは、友人に対する感情以上のモノだった。
──快斗と一緒に居ると、何時だって楽しいし安心出来るし、気持ちがゆったりした気分になって、とても心地良い。
それは、友人だからとか、気の合う相手だからとかそんなありふれた関係だったからじゃなくて、──それ以上に好きだったからなのだと、新一は漸く気付いたのだ。
新一がぽつりぽつりと話す告白に、快斗はしきりに首を捻っていた。
何故なら……一生懸命に思い出そうとしているのだが、その例の『すこぶる美人』を思い出せないのだ。
快斗も男だから、新一以外に全く興味はないものの、好い女の顔くらいは覚えている。しかし、新一が言う所の女の存在がどうしても掴めない。
新一の事だから、快斗を誰かと見間違えたとは考えにくい。……それでは一体誰?
「快斗……オレ、てっきりその人とイブもクリスマスも過ごすものだとばかり思ってた。それより少し前にオレと約束してたけど断られるとばかり思ってて、そんな事は聞きたくなくて、あれから数日間はお前から逃げてた事、気付いてたか?」
「……あ」
そう言えば、そんな事もあったと思い出す。何時も一緒だったのに、あの時はケイタイですら連絡付かなくてやきもきしたのを覚えてる。イブの前日にようやく繋がったケイタイに「今頃になって、裏切るなよ」と釘を刺した事も。
「断られるかも知れないと、ずっと思っていたから、そう言われた時、スゴク嬉しかった。……あの女よりオレを選んでくれたんだって、そんな気持ちになった」
そう言う新一だが、快斗としても似たような事を考えていたのだ。
クリスマス直前になって連絡が付かないのは、他に好い女でも出来たのではないだろうかと。断るのが気まずくて、快斗から逃げているのではないかと、そう思っていた。
だから連絡が取れた時、ほっとした。相手が快斗と過ごす事をさも当然のように語っていくれたから。
「新一、オレは新一よりもずっと前からお前の事が好きだった。新一が男と付き合い出した時は……スゴク辛かったよ」
「かい……と」
ゴメン……オレ、気付けなくて。
「良いんだ。それはまだオレだけが思っていただけで。……オレも勇気なくて、新一に嫌われるのが怖くて、ずっと言い出せなかった報いだから」
『好き』とその一言がどうしても言い出せなかった。たった二文字の短い言葉なのに、どうしてこんなに重い言葉なのだろう。
二人は顔を合わせてぎこちなく微笑い合った。……正直、互いの気持ちが通じ合った所で、これからどうするか、どうなるかなんて、まだ考えられないし急く事もない。
快斗は新一から貰ったそれを大事そうに抱えた。
「ずっと大事にするからね」
「……ばーろ。食いモン大事にしてどうすんだよ。とっとと食え」
照れ隠しなのか、ぶっきらぼうに言い放つ新一に、快斗は苦笑する。
「じゃ、大事に食べる」
袋の中から一つチョコを取り出して、包みを剥ぐと艶やかなココア色のハートが顔を出した。それをそっと口の中に入れる。
誰から貰ったって、チョコはチョコ。メーカーこそ違えど、さほど味に変わりない。
だけど、手渡された人間によって味は劇的に変わる。好きな人から貰ったチョコは、口に入れると甘い幸せが広がる事を、快斗は今日、初めて知った。
後日。
相思相愛となった二人だが、その関係は以前とほとんどと言って変わりないものだった。
只、お互い今後出現しようのない彼女の事を考えずに、堂々と二人一緒に居られるだけで幸せだった。
快斗は初めての本気の恋愛に、決して破局を迎える事がないようにと恋人に対して恐ろしく慎重だっだし、新一の方は『好き』の想いが先行し過ぎていた為か、気持ちが通じた時点で満足しているらしい。
表面上は、バレンタイン以前と変わらぬ付き合いを続けている二人であったが、精神的には満ち足りた日々だった。
そんな二人は何時もと同じように仲良く構内を歩いていた時、ふと隣の新一が突然歩みを止めた。
「?……どうかした?」
何の予告もなく、いきなり立ち止まった新一に快斗が怪訝に顔を寄せると、思いの外硬い表情をした新一とぶつかる。
「……あの女」
新一の視線は遙か先を見据え、抑揚のない声でぽつりと呟いた。
その声に快斗も遅れて視線を向ける。……するとその先に一人の女がこちらを見ていた。
美しいとしか言い様のない外見を持った女がそこに居た。誰もがその姿に視線を奪われずにはいられない程の極上に部類される女。
ふるいつきたくなるような美女。
快斗はその姿を認めた時、ふいに脳裏にあの日の事が蘇った。
「……紅子」
思い出した。新一が誤解した、あの冬の日の出来事。
「あかこ……随分親しそうだな」
明らかに名前で呼んだのが気に入らなかったのか、新一は憮然と呟いた。
当の名前を呼ばれた相手は、その口の動きを読み取ったのか、艶やかな長い黒髪を優雅に靡かせて近付いてくる。
……ああ、確かに美人には違いない。と快斗は思った。まさに外見だけは非の打ち所のない女なのだ。
「ご機嫌よう、黒羽君」
濡れた口唇が言葉を紡ぐ。しっとりとして艶やかな様。
彼女の視線はまず快斗を捉え、程なくして隣に立ち尽くす新一へと向けられた。そして、まるで彼を虜にするような微笑を贈ると、また快斗に視線を戻し、明らかに楽しげな笑みを見せた。
「紅子……お前、何しに来た」
「あら、随分に言い草ね」
不機嫌に睨み付ける快斗の視線などモノともせずに紅子は甲高く笑ってみせる。
「私は、貴方がとうとう光の魔人の守護を手に入れたから、そのお祝いを言いに来ただけよ」
嫣然と言い放つ紅子に押され気味の快斗だが、新一に腕を取られ我に返る。
「快斗」
一体何者なんだ。とその瞳が詰問に似た眼差しで問いかけてくる。快斗は一瞬乾いた笑いを浮かべたが、益々険を含む恋人の視線に大仰に溜息をついた。
「小泉紅子。オレの高校の時の同級生。それだけ」
「……それだけ?」
「そう。確かにそれだけね、黒羽君」
紅子は可笑しそうに口元に微笑を湛えたまま、新一に向き直った。
「本当に……こうして間近に拝見出来るなんて光栄だわ。工藤新一さん。……流石に並々ならぬ輝きを持っていること」
漆黒のような長い髪がふわりと揺れた。
「それにしても、私はてっきりクリスマスに勝負を懸けるのかと発破かけていたのに、随分遅い成就ね」
「……るさい」
きっとこの女には、どういった経緯でこの恋が成就したのか、全てを見知っているのだろう。さも可笑しそうに笑っていた。
「この人は、貴方と共にクリスマスを過ごせる事を私に惚気ていたのよ。この私を前にして、ね」
そして彼女は、己が虜に出来なかった男が、未だ恋一つ成就出来ない事を嘲笑っていたのだ。
一度は手に入れようとした男。その男の幸せと同時に不幸を願ってしまうのも……女故の感情。
「この私を袖にしたのだから、余程の人物が相手でないと認められないと思っていたけど……」
黒羽快斗はすこぶる趣味が良いらしい。赤魔女として見ても、快斗の隣に佇む男はそれこそ極上の人間だった。
「当たり前だろ。新一程の男は早々いねーよ」
もちろん、彼の容姿や……ましてや紅子の言う所の『光の魔人』云々で惚れ込んだ訳ではない。
快斗の心が魂が選んだ、唯一の存在。それが新一なのだ。
「あら、また惚気られてしまったわ」
紅子は別段気にする事もなく、鈴を鳴らすように笑うと、優雅に身を翻した。
「このまま傍に居てもお邪魔のようだし、これ以上当てられない内にお暇するわね」
光を手放さない限り、貴方は生涯、災いという不幸から身を守る事が出来るでしょうね。
意味深な言葉を残し立ち去る彼女に、快斗は不機嫌そうに顔を顰め、新一は訳も分からず首を傾げた。
「あの女、何者?」
「魔女だよ。悪名高き赤の魔女。……占い師みたいなものかな」
「ああ、占い師ね」
新一はようやく納得したかのような顔を見せた。……まぁ、快斗も嘘は言ってないだろうと曖昧に笑う。
「そうか、快斗って占いに頼るタイプなんだ」
「いや、そうじゃないけど……」
そう言いかけて、ふと口を噤んだ。それから「ま、いっか」と乾いた笑みを見せた。
「新一を手に入れられるのなら、占いだって何だって利用するよ」
当然だろ?と笑う快斗に、新一は苦笑で返した。
何だかんだ言って、実際先に行動したのは新一の方だ。……だけど、それを一々突っ込む程、新一は子供ではない。
きっかけがどうであれ、今こうして二人で居られる事が一番大切なのだと知っているから。
「じゃ、これからメシでも食いに行く?」
この話はお終いと言わんばかりに、快斗はそう言って微笑った。
新一が、彼に対して好きを自覚する前とちっとも変わらないその笑顔は、やっぱりとても眩しくて。
新一はやっぱり内心ドキドキしなから頷いたのだった。