しんいち と かいとん
新一には、不安な事があった。
それは彼にとって、とても重大な事だった。……新一自身の事ではない。しかし、決して無関係で済ませられるモノではなかった。
それというのも、新一は彼の重大な秘密を知ってしまったからだ。
証拠は、ない……と思う。しかし、新一だけにしか通じない確証はあった。
もし……万が一、その秘密が他人様にばれてしまったなら、彼には恐らく身の破滅以外の道は残されてはないだろう。
そんな、とてもとても重大な秘密。
この秘密。新一は隠し通す事も考えた。新一だけが知らない振りしていれば、誰も傷つかない。幸せで居られる。
だけど、だけど。
新一は、悩みに悩み抜いた挙げ句……その秘密を相手にぶつけてみる事にした。
「かいとん」
恐る恐る彼を呼ぶ。
「ん、何?」
いつものように優しげな彼の声。新一は意を決して、彼に尋ねた。
「かいとんは、オレの事……すき?」
「もちろん、大好きだよ。当然だろ?」
「ほんとうに、すき?」
「しんいちの事、嫌いな筈ないだろう?」
「じゃあ、じゃあ……オレに嘘はつかない?」
「何?何が訊きたいの?」
「……かいとんって……ううん……かいとんは本当は『怪盗キッド』なの?」
びくびく、と言った表情でおずおずと見上げてくる。その仕種がとても愛らしくて、彼は内心にんまりと笑った。しかし、表情には一切出すことなく、真面目な顔で彼の問いに頷いた。
「そう。そうだよ。オレは怪盗キッドなんだ」
途端に新一両眼がじわりとにじむ。
「じゃあじゃあ……かいとんは犯罪者なの?」
「……犯罪者?このオレが?」
彼の思わぬ台詞に、心外なという顔をしてみせると、新一は少し拗ねた表情で口を尖らせた。
「だってだって。キッドは悪い人なんでしょう?悪いことするんだよね!?」
「悪いこと?……違うよ」
彼はキッパリとそう言い放った。しかし、新一は信じなかった。
「違わないよ。だったら、キッドは何だって言うの!?」
「うん?そりゃあ、怪盗キッドと言えばアレだろう?……世界的に有名な」
「ゆうめいな……?」
「スーパースター」
「す、すーぱーすたー……?」
思いも寄らない言葉に、新一は目を丸くした。綺麗な青い瞳がこれ以上はないくらい大きくなる。
「そうだよ?……それ以外の何だったって言うの?」
「キッ、キッドは……犯罪者でしょう?」
それまで確信めいたその事項が、彼の堂々とした言葉に怯んでしまい、揺れる。
「ひどいな、しんいちは。……オレの事、犯罪者だって言うの?悪い人だって、思ってるの?」
「だっ、だって」
怪盗キッドというのは、とても頻繁にブラウン管にお目見えする。その姿をはっきりと捉えられた事は皆無に等しいが、テレビでは何度も特番が組まれ、中継も多い。
そして、必ず警察の人達が彼を追いかけているのだ。
そう。まるで、悪い人を捕まえようと頑張っているみたいに。
「警察の人達がいっぱい……いっぱい追いかけてた、キッドを。つかまえようと、してた」
新一が呟くように吐き出す言葉に、彼は大仰に肩を竦めて、ついでに大きく溜息を洩らす。
「違う。そうじゃないよ、しんいち。……あの人達はね、『怪盗キッド』を警備しているんだ」
「け、けいび?」
彼は鷹揚に頷いた。
「言っただろ?キッドはスーパースターだって。世界的に有名なスーパースターなんだから、身の回りの危険から守る為に、わざわざ警備してくれているんだ」
キッドの生中継見たことある? と彼が尋ねると、新一はぎこちなく頷く。
「なら、現場にはたくさんのギャラリーがいるの見たことあるよね?キッドはとても人気のあるスターだから、彼が現れる所にはたくさんのファンが押しかけるんだ。でも、あれだけ沢山居たら、すぐに取り囲まれてもみくちゃにされちゃって、ボロボロになっちゃうでしょう?……それに、スターだと、妬まれることも多いからね。理不尽な恨みで傷付けようとしてくる不届きな奴等も居る。そんな危険から守る為に、わざわざ警察の人達が沢山出動して、守ってくれているんだ。人気者は辛いけど、それは仕方のない事だね」
警察の人達にも、大変申し訳無いと思っているよ。だけど、市民の安全を守るのも警察の職務だからね、オレはありがたく思っているよ。 と、彼はそう言って微笑んだ。
彼のその長い説明を聞いて、新一は心底ホッとした顔で頷いた。
「な……なーんだ、そうだったのか」
ずっとずっと怪盗キッドは悪い人だという認識を持ち続けていたから、かいとんが実は怪盗キッドだったと気付いた時は、心臓が押しつぶされそうなくらい怖くなった。
だけど……そうじゃなかった。
キッドは、とても有名な、それも世界的に有名なスーパースターだったのだ。
良かった。 新一は己の見解が過ちだと知って心の底からそう思った。
大好きで大好きなかいとんは、悪いヤツではなかった。
「良かったよ、かいとん。オレ……スゴク不安だったんだ。もし、かいとんが悪い事をしているヤツなら、いくらオレでも庇いきれない。なら、オレの手で保健所に連れて行くしかないと……」
思わず涙ぐみ、言葉を詰まらせる新一。
「ごめんね、しんいち。余計な心配掛けて。大丈夫、オレはずっとしんいちの傍に居るよ。一生離れないから。だって……」
「当たり前だろ。……かいとんは、オレの大事なペットなんだから」
「うん、犬だもんね」
わんわん、と鳴いてみせると、新一は嬉しそうにかいとんを抱きしめた。
「かいとん……可愛い」
「可愛いのは新一の方だよ」
「じゃ、カッコイイ……」
新一が抱きしめると、かいとんの方もぎゅっと抱きしめ返してくる。かいとんは、とても大きな犬なので、新一の身体をすっぽり包み込んでしまう。しかし、それが新一には堪らなく幸せなのだ。
それまでの不安が一気にに払拭された事もあって、新一はご機嫌になった。
「よーし。今から散歩に連れて行ってやる。……リード持ってくるから、そこでちゃんと待ってろよ」
名残惜しそうに彼の腕から離れた新一がそう言うと、かいとんはまた嬉しそうに「わんわん」と鳴いた。
かちゃかちゃと、かいとんの首輪にリードを取り付けて軽く引っ張りながら新一が表に出る。そして、かいとんが忘れずに玄関に鍵を掛ける。
「さぁ、行くか」
「わん」
新一の笑顔にかいとんは一声鳴いて門の外へ出る。すると、偶然にも隣家の女科学者と出会った。
「あら、これから散歩?大変ね」
リードに繋がれたかいとんを胡乱気に眺めつつ訊いてくる。
「おう。犬は毎日の散歩が大事だからな。特に大型犬は、沢山の運動量をこなさないと」
楽しげにそう話す新一に同意するかのように、かいとんが吠える。
リードで繋がれた二足歩行のかいとんの体長は、主人よりも僅かに大きく、かなりの存在感がある。その、珍妙とも取れる姿に、しかしながら隣家の女科学者は、僅かに目を細めただけだった。
「気をつけて」と一言、首を竦めつつそれだけ言うと、彼女は自宅へと帰って行った。新一は特に気にする風もなく、かいとんのリードを引っ張り、先に歩かせつつ町内の散歩コースに向かう。
「公園に着いたら、リード外してやるからな」
「ダメだよ、リードを外すのば条例で禁止されているよ。オレはこのままでも大丈夫。しんいちが傍に居てくれるのなら、どんなに窮屈でも幸せだよ」
「かいとん……お前って、本当に可愛いな」
しつけの行き届き、物分かりの良い愛犬に感動する新一。
「だから、可愛いのは新一の方だって」
「……カッコイイ」
「わん」
こんなに行儀良くて、主人の言う事を良く訊く物分かりの良い犬なんて早々いない。とても大きな犬だけど、新一に決して飛びかかったりしないし、当然じゃれついて傷付けられた事もない。
確かに姿形は格好良いのだが、新一はかいとんが可愛くて可愛くてしようがない。新一には何ものにも代え難い大事なペットだった。
「公園に着いたら、一緒に遊んでやるからな」
「ボール遊びより、お昼寝したいなぁ。……しんいちと仲良く芝生の上でゴロゴロしたい」
「よーし、じゃあ一緒に寝ような」
新一が彼の希望を優先してやると、かいとんは少しつけ上がった。
「ねぇねぇ、出来れば夜も新一と一緒に寝たいな」
「何?かいとんにはちゃんと寝床を用意してあるのに?あそこじゃ眠れないか?」
リビングの隅に、新一自らがふかふかのクッションをたくさん敷き詰めて作った寝床が用意してあるのだが……彼は気に入らなかったのだろうか。
その不安を尋ねてみると、かいとんは、ふるふると首を横に振った。
「そうじゃないよ。……ただ、オレはしんいちの傍にずっと居たいから。しんいちと一緒なら何より一番安心して眠れるし」
可愛いことを言ってくれる。新一はにんまりとした顔を隠す事が出来なかった。……その必要もないのだが。
「仕方ないなぁ。……かいとんは、甘えん坊だからな。よーし、今夜はオレのベッドに来るか?」
「わんわんっ!!」
今までになく嬉しそうに吠えるかいとんに、新一は満足そうに頷くと、にっこり微笑んだ。
それ以上に満足そうににやりと笑みを浮かべているかいとんに、新一は全く気付く事は無い。
柔らかな皮の首輪から繋がるリードをしっかり持って、かいとんを散歩させる穏やかな日常。時折すれ違う町の住人に軽やかに挨拶を交わし、一人と一匹(?)の一日は今日も平和に過ぎていくのだった……。
で、真相。
「それにしても、どうしてそんな暗示を工藤君に掛けたのよ」
「だって、新一ってオレが『怪盗キッド』だって知っちゃったんだもん。ものすごく悲壮な顔して、だけど警察に突き出せずに、なのに、寄りにも寄ってオレから離れようとしたから……」
「だからって、わざわざ犬になってまで、彼の傍に居たいなんて」
あきれ顔の宮野志保に、快斗は笑う。
「一番近くに居られるのなら、何だって構いはしない。オレにとって新一は唯一だし、今の新一にとっても「かいとん」は何より一番大切なものになっているんだから」
「……ま、いいけどね。取り敢えず、工藤君が幸せであるのなら」
但し、と志保は言葉を続ける。
「米花町内でなら、あなた達がどんなに奇怪な行動を起こしても問題にはならないけど、それ以外の所で『散歩』なんてするんじゃないわよ」
町内で奇異の目で見られないのは、偏に新一が有名人であり、町の誇りであるからだ。
全国的に超有名な名探偵にSMの趣味があるなんて事実は、彼の評判を貶めるものであり、ひいては米花町の誇りを傷付けるものである。確かに、少し前まではもう一人名の知られた探偵が居たが、最近は鳴かず飛ばずで、彼より更に著名な新一の両親は海外在住の為、今や新一はこの町で唯一の超有名人となっていたのだ。
米花町の住民は、新一の秘密を決して外部には漏らさないだろう。彼が穏やかに住み続けられるよう、最大限の努力を惜しむことはない。
万が一、居心地悪くなって引越でもされたら大変だ。
「任せて、新一を悲しませることなんて、絶対にしないから」
快斗は胸を叩いて、彼女に確約してみせる。そんな彼の態度を頭から信じるまではないものの、志保も米花町の住人として、彼等の秘密を守り続けるのだろう。
全ての真相を知らず幸せなのは、新一只一人。
この世で一番幸福にならなければならない名探偵である。
そして、しんいちとかいとんの幸せ生活は、これからもずっと続いていくのでした。