続続・しんいち と かいとん
快斗──通称かいとんが、工藤邸の玄関ドアを開けると、門の外に宮野志保が立っているのが見えた。
パタパタと掛けてくる快斗に、志保は小さく微笑んだ。
「どうしたの?わざわざ来るなんて珍しい」
彼女はお隣さんであるが、滅多にやって来ない。大抵は、呼びつけるからだ。そんな彼女が、この暑い最中わざわざ足を運んでくるなんて……何かあると思わざるを得ない、と思うのは仕方のないことだった。
快斗が門扉の鍵を開けると、志保は涼やかな声で挨拶した。
「工藤君……居るかしら?」
「居るよ……けど」
新一は、昨日警視庁の捜査一課のお手伝いに駆り出され、明け方帰ってきていた。何度もあくびをかみ殺しながら、出迎えた快斗の頭を撫でて、昨日散歩に連れて行ってやれなかったことを詫びたのだ。
「そんな事良いから、一休みして?」
快斗はかいがいしく彼の着替えを手伝うと、強引にベッドに押し込んだ。それから数時間、彼は死んだように眠り続けている。
「新一のさ、身体から石鹸の匂いがしたんだよね。一瞬浮気されたのかと思ったんだけど、一日汗だくで駆けずり回っていたから、帰りに庁舎内のシャワー室借りて一汗流してきたんだって」
これどう思う? と快斗は言う。
「どうって?」
「だから……所謂オレを嫉妬させる為にわざわざ出先でシャワー浴びてきたんじゃないかなと思って」
なら、もっと猜疑心たっぷりに問いつめるべきだったんじゃない? そう快斗は言う。
志保は大きく溜息をついた。
「何処の世界に、自分のペットに嫉妬させようという飼い主が居るっていうのよ」
別のペットでも飼ってかまったというなら兎も角、愛玩動物に浮気の疑惑を示す必要性が何処にあるというのだ。
「でもさぁ……新一ってば、オレにメロメロで夢中だろ?」
メロメロで夢中だなんて、今時使うかどうか分からない表現でノロケる快斗の方が『メロメロで夢中』である事に彼は何時になったら気付くのだろう。
志保はそう思ったが、自分から教えてあげる気は、さらさら無かった。
「で、新一に何の用なの?」
居間に通されてコーヒーを出され、そのカップを手に取った時、快斗がそう訊いてきた。
志保はそのまま一口コーヒーを飲むと、カップをソーサーに戻し、携えてきた茶封筒を取り上げた。
「これをね……工藤君に見て貰おうと思って」
茶封筒の中身は分からない。快斗は内心首を傾げて考えた。
「新一の……健康状態に何か異常でも?」
それは、快斗の一番危惧する所だ。
なんと言っても、彼は以前、とある薬により、身体が小さくなってしまったという過去を持つ。小さくなったと言っても、縮んだ訳ではない。10歳ほど若返ったのだ。
若返ると言うのは素晴らしい事である。世の熟女と言われる女性達ならば、10歳若返る事が出来たら、狂喜乱舞であろう。
新一は、10歳も若返るという驚異体験をした数少ない人間の一人である。
世の奥様連中から見れば、羨望の的になってもおかしくはなかった。しかし、如何せん新一は当時高校生。高校生が10歳も若返るのと、熟女が若返るのとでは、大きく異なってくる。
新一も、せめて30歳くらいであったなら、仮に10歳くらい若返ってしまったとしても、何時までも瑞々しくて若々しいと思われた程度で済んだだろうが、10に満たない子供になれば、大問題だ。
不幸にも新一は高校生だった為、元の姿を取り戻す必要性に駆られたのだ。
その為、同じく数少ない体験をした宮野志保と共に試行錯誤を重ね、なんとか解毒剤とも言うべき、『元に戻れる薬』を開発し、無事今日の姿に戻れたという訳ではあるが……もちろん、その薬の副作用がないとは言い切れない。
そもそも、飲まされた『アポトキシン何とか』が毒薬として使われた事も大きな問題である。若返ったのは副作用で、本来ならば、飲んだと同時にあの世行き、の筈だったのだ。
なので、彼等には何時でも命の危険が付きまとっていると言っても過言ではない。
そして、その命の危機にいち早く察知できる人物が、快斗の目の前に座る宮野志保なのだ。
快斗にとって、彼女は新一の次に大事な女性であるとも言える。だから、こうして丁重なもてなしをしている訳ではあるが……彼女の反応は、少なくとも今の快斗の危惧を一掃してくれた。
「いいえ、今日はそんな事で来た訳ではないの」
しかし、別の意味で大きな爆弾の投下準備に入っていた。
「じゃあ、それは何?……オレが見ても構わないもの?」
「ええ、別に構わなくてよ?というか、黒羽君にも是非見て貰いたいわね。釣書だもの」
「……釣書?」
快斗は頭の中にパッと浮かんだ物の存在を即座にバッと打ち消すと、ぎこちない笑みを浮かべて訊いた。
「釣書というと……家系図、とか?」
「なんでそんな物を見せなきゃならないのよ。釣書と言えばアレでしょ、おみあ……」
「わーわーわーっ!!!」
両手で耳を押さえ、喚き出す快斗に、志保は目を丸くした。
そのあまりにもガキっぽい態度に、純粋に驚いたのだ。
「いやだ、オレは信じないぞ!新一が、新一がぁぁぁああああ!!」
しかし、志保は大きく首を竦めると、封筒をひらひらと振る。
「だけど、これは工藤君が自ら頼んで来たのよ。誰かいい人紹介して欲しいって」
「聞きたくないっ、聞きたくないっ!!」
ぶんぶん首を振る快斗。目の前てひらひらと釣書を振る志保。そして……。
「おい、何だ。うるさいぞ、かいとん」
ほんの少し間延びした声と共に居間に入ってくる家主。
「しんいちっ!!」
快斗は起きてきた新一に飛びついて、抱きついた。
「しんいち、しんいち、嘘だよね!?」
「んー?どうしたんだ?」
まだ寝起きの所為か、ぼんやりとした声でなすがままに抱きつかれたまま、新一はかいとんの背中をぽんぽんと叩いた。
そして、その向こうで、澄ました顔でソファに腰掛けている隣家の科学者の姿を認めた。
「あれ、宮野。どうしたんだ?」
そう言ってから、新一はすぐに彼女の訪問の理由に思い至った。
「あ!もしかして、もう持ってきてくれたのか?───お見合い写真」
「しんいちぃっっっっ!!」
それは、正に断末魔の叫びに似ていた。
しかし、その声を聞いた二人には、快斗の苦悩などまるで意に介する事はないように、志保は立ち上がると釣書を差し出し、新一は嬉しそうに受け取った。
「かいとん、邪魔。ちょっと離れろよ」
更に超非情な言葉をぶつけて、快斗を奈落の底の底に落とし込む。
「なんだよ、かいとん。年頃なんだし……見合いの一つや二つしてもバチは当たらないだろう?」
お見合い写真は一つではなかったようだ。テーブルの上に嬉々として並べる様など、とても快斗は正視出来なかった。
「そんな……酷いよ、しんいち。そんなにオレの事が嫌いなの?」
ウジウジとしているかいとんに、新一は苦笑する。
「誰も、お前を追い出したりしねーよ。……お前はオレの……大事なペットだ」
そう言いながら、新一は志保と、あーでもない、こーでもないと、楽しそうにお見合い写真に見入っている。
「流石宮野。どの子も可愛い。嫁さんにするのに申し分のない子ばかりだ」
「ええ、もちろん。どの子を選んで貰っても、決して後悔はさせないわ」
太鼓判を押す志保に、新一も安心したように笑う。……もう、聞いていられない。
快斗は、居間の隅でイジイジしていたが、耐えられなくなって立ち上がった。此処に居て、これ以上新一が他の女を褒める様子を見ていたくはなかったのだ。
なのに、彼の飼い主は非情だ。
「かいとんも、拗ねずにこっちに来いよ。お前は誰が良い?」
天真爛漫とはこの事を言うのか。快斗はそう思った。楽しそうな、嬉しそうなしんいちの笑顔。快斗が大好きな大好きなしんいちがそこに居た。
「そうよ。これから一緒に暮らすのよ?それには、貴方の意見が一番重要だわ」
志保がそう続ける。みんな、あんまりだ。快斗は泣きそうなった。
しんいちと一緒に居たい。この家のペットになれば、一生一緒に居られる。確かに居られるだろう。
だけど、それはしんいちと二人きりの生活を夢見ていたのであって、他の人間を引き込んでの生活を望んでいた訳ではなかった。
居間の隅から動かないかいとんに、新一は苦笑した。仕方がないなぁ、と言いながら、新一は見合い写真を束ねると、蹲るかいとんの元へとやって来る。
「ほら、お前も見てみろ。……可愛い子ばかりだろう?」
それはそれは、とても優しい声だった。今まで聞いてきたどの声よりも優しくて。次々に広げられるそれを視界の外に追いやりながら、尚も抵抗を示す快斗に新一は、ほんの少し呆れた風に首を竦め、それから再び優しい声で囁いた。
「この子なんかどうだ?すごくキュートだろ?こっちの子は美人だ。可愛い子と綺麗な子……どっちが好き?」
「……しんいちがいい」
「バカだなぁ。オレはダメだろう?じゃあ、この子はどうだ?……すごく毛並みが良さそう」
「そんなの……毛並みなんて、どうでも……とうでも…って、え……?」
快斗は、はたと思った。それから、恐る恐ると言った体で、お見合い写真に視線を合わせてみる。
そこに現れたのは、いずれも劣らぬ美姫ばかり。但し……。
「何これ!犬ばっかりじゃないか!しんいち、犬と見合いするの!?」
思わず、新一の両肩をガシッと掴んで、そう叫ぶ。
そんな、新一ってば、獣○が趣味だったのか!?信じられない!! と、喚く快斗に新一は、一瞬声を失う。
「ばっ……何言ってんだ!オレが犬と見合いなんてする訳ないだろ!?」
「へ?じゃあ……」
「これは、お前のだ。お前の見合い写真!!」
その言葉に快斗はまた驚いた。
「ええええっ!オレ、獣○の趣味はないよっ!!」
酷い。新一に、そんな趣味を持っていると思われていたなんて……!!
あたふたと焦る快斗に、冷静な新一は溜息を一つ。
「かいとん……お前、バカ?」
何はともあれ、志保が持ってきた釣書は、全てかいとんのもので、全ては新一が彼女に頼んだ事だった。
かいとんに可愛い(あるいは綺麗な)お嫁さんを娶らせてあげようという、一種の親心。……快斗には迷惑極まりなかったが。
でも、新一は心配だったのだ。
「だって、お前さ……発情期のシーズンになっても、別に普通だっただろう?それって、ちょっと……何だ、……可哀想かなぁ、と思って」
常に新一と一緒に居るかいとんが、外を出歩くのは散歩の時のみ。そんな小さな世間しか知らないかいとんでは、好きな子を見付けるのも苦労するだろう。
発情期が来ないのは、雄として大変不憫でならない。
しかし、そう思っているのは新一只一人で。
「そんな……オレは年中発情してるから……」
もちろん、「……しんいちに」とは言わなかったが、それを聞いて新一は、パッと明るい笑顔を見せた。
「そうか?そうなのか!?オレ、てっきり、こんな狭い家に閉じ込められて、辛い思いしているんじゃないかと心配してたんだ」
二人の向こうでは、「雌が傍に居ないのに、年中発情し続ける犬なんて、居るわけ無いじゃない」と呟いている女性がいたが、そんなツッコミなど新一には聞こえる筈もない。
「お見合いなんて、本当に必要無いんだよ。オレは今のままで充分幸せだし、しんいちだって、オレ以外の犬の世話なんて大変だろう」
「オレは構わないぜ?お前の子を抱き上げるのは、オレの夢でもあるんだから、かいとんの子供を産んでくれる子の面倒も、ちゃんとみる自信あるし」
「そんな、オレはしんいちに産んでもらいたいくらいだよ」
「あはは。ホント、かいとんってば可愛いヤツだなぁ。人間と犬では子供は出来ないんだぜ?」
「雄同士でも、無理でしょ」 という志保の台詞も、当然聞こえていない。
何はともあれ、一人と一匹は幸せそうに微笑み合った。もちろん、釣書は全て返してしまった。そんな二人に志保は小さく溜息を一つついて、冷めたコーヒーを飲み干した。
やっぱり、全ての真相を知らず幸せなのは、新一只一人。
この世で一番幸福にならなければならない名探偵。
しかし、しんいちとかいとんの幸せ生活の終焉は、もうすぐそこまで迫ってきていた……。