怪盗KIDの舞台は、別に夜に限った事ではない。
確かに月夜の晩は嫌いでなかったし、仮にも『月下の奇術師』と呼ばれている怪盗だ。
しかし、新一がキッドの元に来てから、なるべく夜に仕事を入れる事はしなくなった。
彼を1人で一夜を過ごさせないように。
My Only One 2
その日も真っ昼間に標的を手に入れる事にKIDは軽い高揚感に包まれていた。
衆人環視の中で、展示されている宝石を頂く。
警察は、その標的を隔離するとなく、展示し続けていた。しかも、普段と変わらぬ様に客を入れている。
警備員代わりに警備するのは警察官。周囲は素人には気取られぬ程度の緊張感が漂うのみ。
残念な事に、怪盗KIDが『乙女の涙』を盗み出すという予告は、メディアには伝わらなかったようだ。
……それは多分、故意にだろう。
「信頼されているのかね…オレは」
怪盗KIDは人を傷付けない。その事は広く知られている。
だからこそ、人は彼に喝采を送るのだ。
もちろん、KIDはその『信頼』を壊すような真似はしない。それは、彼の信条に反する事だから。
警察は、彼が客に扮して近付く事を期待しているのだろうか。
だが、白昼を狙うKIDには別の思惑がある。
「それでは、セオリー通りに」
実の所、展示会場にいる客の約半数は警官が扮していた。
『乙女の涙』、その名の通り、大粒の涙のような形をしたそれは、展示ケースの中からでも、遜色のない輝きを放っていた。
さり気なく移動しながら、視線は常に大粒のダイヤに注がれいた。
だが、まさにその瞬間。
突然、全ての照明が落ちた。
昼間とは言え、窓のない展示室は薄闇に包まれる。
ざわめく会場。
しかも、その一瞬後に……展示ケースから『乙女の涙』は忽然と姿を消していたのだ。
中森警部の怒号と慌てふためく警官達の乱れた動き。突然の出来事に戸惑う一般客に、会場は混乱の極みに達する。
その中、1人だけ冷静な瞳でショーケースを見つめている者がいた。
ケースの周囲には、防犯センサーが張り巡らされている。
そのセンサーに引っかかることなく、しかも硬質ガラスも割られることなく、忽然と中身だけが消えた。
ショーケースを見つめる人物。服部平次は、鋭い瞳を僅かに眇めた。
そんな手品じみた事……この状況で可能だろうか。
怪盗KIDは、マジックが得意。しかし、それは種も仕掛けもあることで。
目の前に見えるのはどう見ても空っぽのケース。
だか、それは本当に中身は空なのだろうか……。
「悪いけど、センサー消してもらえんか」
服部平次は、動揺の隠せない責任者にそう指示すると、速やかに電源を落とさせた。
髪の毛の一本も通さぬように張り巡らされていた防犯センサーは消え、平次は、ようやくケースに手をかけた。
カギを借りて、ケースのロックを外していく。そして全てを解除して、その蓋を開けた。
「……ない」
重厚で肌触りの良い天鵞絨の窪みに鎮座していた宝石はやはり影も形もなかった。
「そんな、アホな……」
さっきまであったものが今無いなんて、そんな事は常識的に考えて不可能だ。それとも、展示前からすでになく、何かしらの細工で見えないものが見えるように仕掛けられていた……?
──いや。そんな事はあり得ない。
平次は今日開場される前に現物を確認したし、それから一切目を離していない。
照明が落ちた時もだ。確かに、目を離さなくても、突然落ちた照明に一時視力が揺れた。
しかし、薄暗さが目に慣れるまで、数秒も無かったはず。なのに、一瞬後には宝石は消えていた。
その間にセンサーに引っかかることなく、ケースをこじ開けることなく宝石を取り出す事が可能だろうか。
そんなこと、いくら魔術師でも無理だ。
KIDは超能力者などではないはず。
その魔術の全てに種があるのなら、それは観客を巧みに騙して、その眼を逸らせているに過ぎない。
ならば……何処に平次の眼を逸らせる機会があっただろう。
照明が落ちた時から今まで、ケースに近付いた者は居ない。
近付いた者と言えば……。
平次本人と……このケースを開く為に鍵を渡してくれた人物。
この宝石展の担当責任者。
「──!」
平次は慌てて周囲を見回した。
彼がガラスケースを開けるまで側にいたはずの人物は、今や何処にも見えない。
「やられた……!!」
あの状況で、宝石を盗み出す事が出来る瞬間は今しかなかったはずだ。
「クソッ……!!」
平次はそう確信すると、会場を飛び出した。
湿った空気。
湿度の高さは梅雨時の日本であれば仕方がない事だろうが、全身白ずくめの怪盗はうざったそうにマントを翻した。
白昼では、これが『パンドラ』かどうかの確認が出来ない。
以前なら、愛しい探偵に早く宝石を返したくて、仕事は月の輝く夜と決めていたのだが、現在の東の名探偵は捜査協力していない。
なら、すぐに確認する必要はない。
月が出るまで待って……それから確認した後、『パンドラ』なら粉々に砕き、そうでなければ……。
「あいつにやるのも良いかもな……」
別に返さずとも支障はない。盗まれた責任は、警察が負ってくれる。
どんよりと曇った空の下、いつものように屋上から脱出を試みようとやって来た場所で、KIDは本日の戦利品をさして興味なさそうに見つめていた。
こんなモノより……新一の深く蒼い瞳の方がもっと美しい。
あんな綺麗な宝石を二つもその瞳に宿して、そこに映るは自分自身の姿。そう考えるだけで、身体が昂揚する。
「あいつよりも劣るモノをやっても……仕様がないか」
キッドはそう思い直し、苦笑に唇を歪めた。
そうして、それを胸ポケットに納め、飛び立とうと身を捻ったその時。
「あいつって……誰や」
イヤな声が聞こえた。
耳障りな声。その声は、しかし否応なしにKIDの鼓膜に届いた。
背後に感じる、人の気配。KIDはモノクルで表情を消すと、ゆっくりと振り返った。
そこには、想像通りの人物。
KIDや新一と同じ年頃の少年。
その姿は彼よりも数段男らしい風貌で、こちらを睨み付けている。
……視界に留める事すら、嫌悪するその姿。
……関西に引っ込んでいれば良いものを……!
KIDは内心舌打ちしつつ、そうとは感じさせないほどの気障ったらしさで、目の前の人物に腰を折った。
「これはこれは西の名探偵……ごきげんよう」
優雅に一礼してみせるKIDに、西の探偵、服部平次は苛立しげに眉をひそめた。
その応対は些か大仰ではあるが礼儀に沿ったもの。しかし、それは平次から見れば馬鹿にされた態度に過ぎない。
しかし彼は、今はそんな事で不機嫌になっている暇はなかった。
「あいつって……誰のコトや」
KIDの口から零れた呟きを、平次は聞き逃しはしなかった。
「西には、貴方を煩わせるような事件はありませんか?」
だが、KIDは答えない。こんなトコロにまで出張ってきた平次を不快に感じてか、目も合わそうとはしなかった。
「誰に、宝石(それ)やるつもりなんや……」
「しかし、警察も不甲斐ない。……民間人に助けを借りるなど」
「答えろや……!」
「しかし、貴方では私の相手など……もちろん、それは他ならぬ貴方自身が自覚されている事でしょうね」
「KID!!」
「私を捕らえる事など、不可能」
感情を抑えきれず叫ぶ平次とは逆に、冷静な仮面を外すことなく告げるKID。
ポーカーフェイスは、彼の方が遙かに上だった。
しかし。
「工藤は何処や」
平次の口から漏れた、東の名探偵の名前。
その言葉にもKIDは表情は変えなかった。
しかし、ほんの一瞬、キッドの瞳が険しくなったのを平次は見逃さなかった。
何かを知っている……眼。
「あいつを何処へやった……」
言いつのる言葉にもKIDの表情は崩れない。だが、確かに感じたそれは確信。
「お前が工藤を何処かに連れ去ったんやろ!」
この男が、新一を攫ったのだ。
しかし、目の前の男はそれに冷笑で応える。
「おやおや。根拠のない嫌疑をかけられるのは……あまり嬉しい事ではありませんね」
「答えろや」
「何を?」
「……工藤を……何処へやった!?」
普段の人好きする瞳は、今や恐ろしいほどの凄味を見せてKIDを捕らえる。
KIDは決して、平次と視線をあわせようとはしなかったが、一度だけその鋭い視線に侮蔑を込めた眼で一瞥した。
眼が険しくなるのは仕方の無い事だった。
しかしその分、唇には微笑を湛えて……。
「貴方と押し問答する気はありませんよ。……私は貴方を認めてはいませんから」
KIDはおもむろに胸に手を入れた。
身構える平次にいとも優雅に微笑んでみせると、そこから今日の標的であるダイヤを取り出す。
「……!」
とっさに奪い返そうと平次が身を乗り出すのと同時に厚く覆われた雲が一瞬切れた。
顔を覗かせた太陽がダイヤを更に美しく輝かせる。
それは瞬く間に激しい光となって、平次の視力を閃光の闇へと誘った。
「くっ……!!」
まるで鏡の反射が直接目を直撃したかのような光に、思わず腕を覆って、目を庇う。
光はほんの一瞬で消えた。
だが、怪盗KIDが平次の前から姿を消すには充分な時間でもあった。
再び視力を取り戻した平次は、遅れを取った事を知らされる。
忌々しげに舌打ちする平次の神経を更に逆立てるように、姿の消えた怪盗のいた場所には、白い一枚のカードが舞っているのに気付いた。
平次はそれを手に取ると……躊躇うことなく握りつぶした。
そして確信した。
工藤新一は、怪盗KIDの元に捕らえられている、と。
都心から少ししか離れていないその地は、梅雨時とは思えない爽やかさでキッドを迎えた。
しかし、そんな事でこの気持ちが払拭されるはずもなく、仕事は難なく成功したのにも関わらず、あの男の所為で気分は最悪だ。
最悪なまま真っ直ぐ屋敷の裏手に降り立ったキッドは、表へと回ると、重厚な扉を押し開く。
乾いた空気に、しん、と静まり返った邸内。
人の気配が消えている。
キッドの眉間が僅かに寄った。
新一が、いない……?
そんな訳はない。
例え屋敷の外へ出たとしても、そう遠くへは行っていないはず。
呪縛のリングをはめている限り、この森からは逃れられない。
──それは、赤魔術の魔女と交わした契約でもあった。
しかし、そうは思っても……心の奥底に灯る、不安。
こんなにイヤな気分なのに、この気持ちを癒してくれる人物が側にいないなんて。
そんな事、耐えられない。
キッドの脳裏に新一の姿と……それからふいにあの関西人の姿が重なった。
嫌な……予感。
それと同時に背中から這い上がるような悪寒。
キッドはそれを頭を振る事で紛らわせると、踵を返した。
再び表へ出ると、長い指を微かに曲げて差し出す。
すると、まるで無から取り出したかのように、一羽の鳩がキッドの指先で羽を休めていた。
「悪いが、新一を捜して来てくれないか」
そう鳥に告げる。
鳩は言葉を理解したかのように、一度大きく羽を広げると、そのまま空へと飛び立った。
内心の苛つきを隠しながら新一の帰りを待つキッドに、暫くすると彼は息を切らして駆け込んで来た。
「……おかえり…っ」
そう言ったのは新一。
まるで慌てて帰ってきたかのように肩を上下させて呼吸を整える新一に、キッドは先程までの苛立っていた気分が和らぐのを感じた。
キッドは、こちらに近付いてくる新一に微笑みかけた。
現在の新一は、キッドの側にいる。それは紛れもない事実で、……しかし魔法の力を借りた偽りの真実でもあった。
新一を見ていると、喜びと不安が交錯するようだ。ふいにまたあの男の姿が新一の姿と重なる。
本来の……新一の心を独占する、殺しても飽き足らない男。キッドは思わず両手を差し出し、新一の身体を引き寄せた。
そのまま包み込むように抱きしめる。
新一の髪に顔を埋めると、微かに汗と陽の匂いを感じ、抱きしめた身体はうっすらと汗ばんでいるのに気付く。
キッドの身体に灯る微かな情欲の炎。
しかし、先程相対したあの男の影がちらついて、離れない。
気にしているつもりがないなどと、そんな風に自分に嘘ついてもどうにもならない。
気にしなくても、脳裏にこびりつくように、キッドに否応なしに思い起こさせる。
忌々しい。……このままでは、自分自身が侵食されてしまいそうだ。
不快で、不快で。
あんな男にこれ程までに翻弄されるのが屈辱だった。
ただ、『工藤新一』が真実に愛しているという事実だけなのに──!
こんな事が許されるだろうか。……たかだか西の探偵ごときに。
……そんな事、許される訳がない。
どのような形であれ、工藤新一以外にこんなに気を取られる訳にはいかない。絶対に。
……ならば。
ならば、いっその事──。
「新一……」
囁くように名を呼ばれ、新一は顔を上げた。
「何だ……?」
見上げたものの、キッドは新一の双眸から逃れるよに眼を逸らした。
「……?」
おかしい。どことなく違和感を感じて新一が声を上げようとしたその時、キッドの唇が微かに動く。
それは、声にならない言葉となって、新一はその口元を読む。
もし…。
もし、オレが新一の今の幸せを護る為に、罪を犯したら……。
お前は……許してくれるか?
「……キッ……ド?」
訝しげに尋ねてくる新一に、キッドはほんの一瞬揺らいだ表情を見せただけで、次の瞬間にはいつもの顔に戻っていた。
心配げに見つめてくる瞳にキッドは苦笑すると、その磁器のような肌にそっと触れる。
「いや……なんでもない」
キッドは殊更穏やかに微笑むと、ゆっくりと新一に唇を寄せた。
薄く開いたその唇に静かに重ね合わせて……だが、次第に深く貪るように激しい口づけへと変わる。
あの男には、絶対に渡さない。
キッドは一時も離すまいと、強く新一の身体を抱きしめた。
「っ……あ…」
それは昼間からの事で。
「や……っ…あっ…」
太陽は高く、レースのカーテンが開け放たれた窓から吹き込む風に揺れている。
そのカーテンが翻る度に、新一の顔や、はだけたシャツの間に見える白い肌の上に淫靡な影を作り出す。
「キッ………んっ」
胸の上を行き来するキッドの唇の動きに抵抗仕切れなくなる身体の代わりに、息も絶え絶えの声でそれでも制止を求める新一の、その薔薇色に濡れた艶やかな口唇をキッドは己の唇で塞いだ。
何時もになく性急で、なのに何処となく緩慢な愛撫。
ゆっくりと、そして次第に激しく熱くなる身体を新一は身じろぎする事でやり過ごそうとする。
僅かに残る理性が、新一にある確信を伝えている。
陽が高いうちからこんな事に耽っているなんて、退廃的な事は普段はしない。
しかし、全くしないという訳でもなく……霞む思考で思い出すだけでも3回、いや4回か。
そして、そんな時は必ず……。
「……何を考えてる……?」
ふいに耳元で囁かれ、新一は思わず小さな吐息を漏らした。
「これでは……生ぬるい……?」
新一の最も熱を帯びている場所にキッドの手が伸びる。触れては掠め、それを数度繰り返した後、そっと包み込む。
「はっ……んっ!」
息を呑む新一の頬が、今までになく朱に染まる。
と同時に口唇をも強く噛み締めている事に気付くと、キッドの空いている片方の手が新一の口唇をなぞった。
震える口唇がキッドの指先にその振動を伝える。
「新一………唇が切れる」
優しく窘めると同時にそっと口づける。
なぞられていた指から舌の感触に取って代わると、新一の力が徐々に抜けていくのが分かった。
口唇をなぞるように嘗めていたキッドの舌は、新一が小さく息つぎする瞬間を逃すこと無く、口内に侵入を果たす。
口内を犯し………そして、もう一方への刺激も怠らない。
薄く眼を開ければ新一の睫毛が悩ましげに震えているのが見て取れる。
白い肌は熱を持って、鮮やかに色づく。
その様は、どんな宝石よりも美しく、極上の美酒よりも遥かに甘く酔える。
……溺れているのは新一ではなく、キッドの方かも知れない。
そう思い……そしてその思いを肯定するかのように、新一の身体にのめり込む。
確かにその時は、彼は紛れも無く新一の手に落ちていた。
新一が己の快楽とは別に冷静にキッドを見つめていた事に、彼は気付く事はなかったのである。
どんなにキッドの事が好きでも、愛していたとしても、新一は自分が探偵である事を捨ててはいなかった。
時に思考は混濁されてしまうが、キッドに関しては別だった。考えれば考えるほど、霞がかる意識の霧が晴れていくのが分かる。
キッドが新一を想う気持ちを疑った事はない。
もちろん、その逆も。
時計の針もまだ正午をほんの少ししか回っていないと言うのに、新一を抱き寄せたキッド。優しさと激しさの入り交じった態度で求められ、素直に従った。
気の遠くなるような快楽の後、遅めの昼食を摂って、また愛し合う。
愛してくれるのは解る。
しかし、そのキッドの行為はそれだけではない。
昼間の情事は常に濃厚だった。疲れ知らずのキッドを相手にしていると、新一の身体が保たなくなる程。
実際、それまでの新一なら、疲れた身体をベッドに投げ出して、そのまま朝まで眠るのが常だった。
次の日の朝、新一が目覚めた時には、キッドが隣で眠っている。
それは何時もと変わらない朝に見える。
……しかし、新一はキッドが何時ベッドに入ったのか、全く覚えていなかった。
新一が疲れて眠っているから起さなかった。……最初はそう考えていた。
しかし、常に新一を抱き寄せて愛すキッドがそんな優しさを見せるのは決まってこの時だけで。
流石にそこまで考えれば、容易に想像がつく。
キッドは、わざと新一を疲れさせるような抱き方をしているのだ。心身共に疲れさせ、そのまま朝まで目覚めることの無い眠りにつかせる。
そこまでして………キッドは何をしているのか。
新一が気にならないはずはない。
この日、新一の身体が解放されたのは、夕方も遅く……もう既に夜の帳が落ちかける時刻。
キッドは新一を真新しいシーツの上に横たえると、軽く肩まで布団を掛けた。
そして憔悴しきって眠る新一の前髪をかき上げ、額にキスを落とすと静かに寝室を後にする。
新一は、半分睡魔の虜になりながらも、もう半分はキッドの動きをじっと伺っていた。
キッドは時折姿を消す。
それは昼間に限った事だと思っていたが……どうも違うらしい。でなければ、新一をこんな風に抱く事はないだろう。
新一が大人しくベッドに横になってから、小一時間ほど経過した後、小さな物音が聞こえた。多分、耳を澄まさない限り決して聞き取ることは出来ない、小さな音。
新一は、疲れた身体をゆっくり起すと、そっと窓辺に近づいて、厚いカーテンをほんの少しだけ開けた。
今晩は月の光が眩しいほどに地上に降り注いでいる。
キッドがハンググライダーを使って飛び立つ。
その月明かりのお陰で、その姿を新一ははっきりと確認することが出来た。
そう。
陽が高いうちからこんな事に耽っているなんて、退廃的な事は普段はしない。
しかし、全くしないという訳でもなく。
そして、そんな時は必ず……。
「……オレに黙って抜け出すんだよな、お前は」
カーテンの隙間から、新一はその口元に笑みを見せると、そう呟いた。
現場を荒らす事なく、……その痕跡を残すこと無く、新一は基本的な情報を掴んでいた。
この場合、『現場』とはキッドの私室を指す。
つい数日前、外出先から戻ってきたキッドの様子がおかしいと感じた時から、隙を見ては彼の部屋であらゆる資料に目を通した。
もちろん、新一が知りたいと思うような情報はなかった。
そもそも『何を』知りたいのか、それが解らないのだから探すと言ってもどこをどうすれば良いやら思案に暮れるというものである。
キッドが何処で、何をしているのか。
知ろうとすることは、彼に対する裏切りではないはずだ。
むしろ、新一には知る権利がある。
キッドの部屋で一番目を引いたのは、奇しくも工藤新一に関する書類だった。過去の殺人事件と新一の関わりが詳細に綴られている書類の山。
懐かしい……とそう言っても良いのだろうか……事件。
新一はそれをぱらぱらと捲っては、その時の事を思い返していた。
(そうそう。この事件の時はもうちょっとで、犯人を逃がしちまう所だったんだよな)
犯人の目星もついて、証拠も揃った。後は犯人を告発するだけで、気が緩んでいたのかも知れない。
新一が指さした先に居た犯人が、そのまま逃走を図るなんて、考えもしなかった。
あの時、『あいつ』が居なかったら……絶対、逃げられてた。
「……あれ?」
新一は、ふいに脳裏に浮かびかけた人物に首をかしげた。
その人物は、新一がはっきりと思い描く前に……泡沫に消える。
知っている。
新一は確かにその人物を知っているはずだった。しかし、再び思い出そうとしても、うまくいかない。
躍起になって思い出そうとするのだが、そうすればするほど曖昧になっていくのを感じる。
新一は思考まで奪われていくような気がして、すぐさま頭を切り替えた。
不必要な事は考えなくても良い。そう誰かが告げているような気がした。
それもそうだと、新一は思う。
今、新一が知りたいのはキッドの事で、彼の事を考える分には、この頭脳は正常に働いてくれる。
「……かなり真剣に惚れている、ってコトか…?」
苦笑混じりに呟いた時、ふいに新一の視界の端に無造作に置かれている一枚の紙が目に入った。
何気なく手に取って見る。
それは、何の他愛も無い一枚のチラシ。
『世界の宝飾展』と刷られた文字とその下に展覧会の目玉なのだろう、美しいエメラルドのペンダントが載っていた。
『キッドが宝石に興味がある』なんて、知らなかった。
知らず知らずの内に笑みが漏れる。
隠してた?
いや、隠すほどのものでもないだろう。別に男が宝石に興味があったって、別におかしくもない。
そんな事で、新一がキッドに対して不満を持つことなんて、全くない。
それどころか、逆に興味が湧いたくらいだ。
好奇心旺盛な頭脳が新たな知識を吸収したがっている……そんな感じだった。
「それにしても……出掛けるのに、わざわざあんなモノ使うかな?」
新一は視界から消えたキッドの姿を思い出しながら呟いた。
今、この屋敷には誰も居ない。
一人きりだ。
新一は、服を着替えて素早く身支度を整える。
キッドが向かった先は、多分、あの宝飾展が開催されている会場だろう。
根拠のない確信。
否、根拠ならある。
あのキッドが、行きもしない展覧会のチラシなんて、何時までも置いておくはずがない。
そして、あの時見たチラシに記載されていた開催期間。
確か、今日が最終日だったはずだ。
しかし、こんなに夜遅くまで会場は開いていただろうか。
新一の記憶が正しければ、終了時刻は、最終日で21時。
部屋の柱時計は午後8時を回っていた。
「閉館ぎりぎり……ってトコか?」
新一は、自分がいる場所をはっきりと掴んではいない。
だが、時折いなくなるキッドの行動パターンを分析してみれば、新一が想像している以上に都心に近い場所に居るような気がしてならなかった。
都心に近ければ、この屋敷を囲っている森も、そう大した面積ではないだろう。
通りに出れば、車をひろう事が出来る。そうすれば、ここが何処なのかはっきり解るはずだ。
それは、ちょっとした好奇心。
別に、新一の推理する場所にキッドが居なくても構わない。
ただ、彼が居ない屋敷に新一が居続けなくても……誰も困りはしない。
大丈夫。ほんの少し、留守にするだけだ。
キッドは、多分それほど早くには戻ってこないだろう。
新一をあれだけ疲れさせたのだから、もしかしたら、今夜は帰ってこないかも知れない。なら新一も、キッドが帰ってくる前に戻れば良い。
そうすれば、彼も心配する事はないだろう。
好きな人の帰りを何時までも大人しく待つなどという、性格の持ち主でないのは、キッドだって承知のはずだ。
ならば、ほんの少し、思い通りに行動したって、罰はあたるまい。
新一はそう結論付けると、寝室を後にした。
屋敷を出ると、先ほどと同じ月が今度は新一にその光を浴びせた。
雲はなく、月は煌々と光り、星は散らばる。
夜はまだ始まったばかりだ。
明かりに頼らずとも、視界は良好だった。空から降り注ぐ月の光は、木々の葉の隙間から地上へと、柔らかな光を落としていた。
その中、若草を踏む音だけが、静かな森に響く。
最初は楽観視していた。ここは見た目ほど広い森ではない、と。
しかし、歩き続けるうちにその予想が外れていた事を知る。
屋敷を出てから、どけほどの時間が経過したのだろう。
30分?1時間?
時間の感覚はまるで解らない。
しかし、空を仰げば、先程から少しも動いていないように月が輝いている。
月の位置から考えれば、新一はあの屋敷を抜け出してから数分と経っていない事になる。
だが、新一の身体は歩き続けた所為で疲労困憊だった。
元々、疲れ切った身体をどうにか騙し騙し動かしていたのだが、それもそろそろ限界に近付いているのを自覚せずにはいられない。
それにしても、と思う。
延々と続く月夜の森。これだけ移動しているのに、何故視界が変わらない?
まるでさっきから同じ場所をぐるぐる廻っている錯覚に囚われ、新一は足を止めた。
ゆっくりと、周りを見渡す。
月から注がれる光によって影をなすその角度。周囲の木々の位置。ゆっくりと流れる雲の流れ。
何処にも変化は感じられない。
故に、おかしい。
新一は、自らがはめている『呪縛のリング』の所為でこの森から抜け出せない事に気付くはずはなかった。
月の輝きに小さく反射するリング。
銀色に輝くそれは、幅は細く作られ、何一つとして宝石(いし)は付いていなかったが、新一のそのしなやかな指によく似合っていた。
片時も外す事のない様に念を押された。
そんな事言われなくても、キッドが新一に贈った唯一の贈り物。外すつもりは毛頭なかった。
だが、この場所に不信感を抱きはじめた頃から、さかんにリングが乱反射している事に新一は気付かない。
だから、それに気付いたのは全くの偶然だった。
必要ないと思いつつも、小さなライトをかざしていたそれの電池が切れかかっている事に気付いて明かりを落とした。
小さなライトをポケットにしまい込みながら、電池が切れるほど使用したという事実を思い知る。
相変わらずの月の動き。
それを見つめ続けるには眩し過ぎて、思わず右手をかざした時、その薬指にはめられていたリングが不自然に反射した。
「……?」
よく見ようと目の前にかざしたそのリングが、月光の力を借りて銀色の光線を何本も作る。
「何……!?」
乱反射するそのリングを新一は暫く戸惑いの表情で見つめていたが、次第にそれはある一方向を指し始める。
その方向には、これと言って何の変わり映えのない景色。大木と言うには少々若い木々が伸びやかに思い思いの方向に枝を伸ばしている。
その入り込むには些か軽装備な新一の格好では、とても入っては行けない場所。
リングが放つ、その光の道筋。
新一は手を左右に振ってみせたり、上下に動かしたりしてみた。
しかし、光は只一点を指すのみ。
元来、超常現象の類は信用していない新一でも、流石にこれでは引っかかるものを感じずにいられない。
眼を眇め、じっとその光の先を見つめる。
視覚には何の変化も顕れない。
ただ、見たままの木々に……少し風が出てきただろうか、葉がさらさらと音を立てる。
新一は、訝しみながらも一歩踏み出した。
ゆっくりと近付いて、この格好ではこれ以上近寄れない所まで来た時──新一は目を見開いた。
それまで、木々が立ち並んでいた場所が、急に靄がかかったように霞みだしたのだ。
錯覚……?いや、そんなハズはない。
それまで、確かに生えていた木々は霞と共に消滅し、獣道と言うには使い慣れた風な道が伸びていた。
真っ直ぐ伸びたその道に視界を塞ぐものは何もない。
だからそのまま真っ直ぐに先まで見渡せ……その先にはライトを照らした車が行き来しているのが見える。
耳を澄まさなくとも、自動車の排気音が耳に届いている。
「……」
何故、気付かなかったのか。どうして、聞こえなかったのか。
すでに森の端までやって来ていたのに、何故……?
しかし、新一は僅かな躊躇の後、その『開かれた道』に足を踏み入れた。
足下に感じるのは、芝生のような草に覆われた感触。一歩一歩を踏みしめながら、出口へと急ぐ。
ほんの数十メートルの道の終点は、公道だった。かなり頻繁に行き交う車。
タクシーを捕まえるのは、思っていた以上に容易だった。
新一は後部座席に乗り込むと、行き先を告げる。
シートに凭れる前に、前方に表示されている時計に目をやった。
その時刻は、新一が屋敷を出てから、10分と経っていなかった。
「よろしいのですか、お嬢様」
言外に咎める口調で尋ねる執事に彼女は無言で制す。
『呪縛のリング』は、その持ち主を決して外界には放さない。
主であるキッドが望まぬ限り、この屋敷と周囲の森からは出る事は不可能。
ただ1人、それを生み出した者以外には。
「………手出しはするなと、そんな契約は交わした覚えはないわ」
紅子はそう呟くと、もう用のなくなったこの場所から離れるべく踵を返す。
紅子が唯一どのような手段を講じても、手に入れることがなかった怪盗が、最も欲したその相手。
魔術で人を虜にしたとしても、それは一時の夢でしかなく。
覚めない夢を何時までも見続けるには、キッドも新一もまだ若すぎる。
若すぎるからこそ、もっと……もっと別の方法があるのではないだろうか。
紅子は、そう思わずにはいられなかった。
あの屋上でKIDとの邂逅を果たしてから、一週間。
平次は、あの時風に舞った予告状を一度は握り潰したものの、あの男に会わなければ何も解決しない事に気付き思い直した。
平次の手から渡されたその予告状にしたがって、警察はその美術館に厳戒体制を引いた。
美術館の特別展示場で催される『世界の宝飾展』。
現代で作られるのは不可能なアンティーク宝石を始め、中世の貴族が華やかに着飾った時に用いられた、数々の宝石。
王室の曰く付きの宝石たち。
当時の職人達の熟練した技法で作られた、逸品。
それらを一同に集めた宝石展は、前評判通り盛況のうちに終了した。
本日は、展示会の最終日。
怪盗キッドの予告日は、今日。
標的は、『ヴィーナスの神秘』と呼ばれるエメラルドの首飾り。
輝きを最大限に引き出すために屈折率を計算されたエメラルドカットは、新緑にふさわしい緑色の美しさを最大限に引き出されていた。
しかも、エメラルドにはインクルージョン(内包物)含む宝石が多い中、これはその大きさであるにも関わらず、極微量で、しかも肉眼で見るにはほとんど判らない程の一品。
黄色味を多少帯びた美しい緑色で、しかも内包物もほとんどないと言えば、それは正に一種の奇跡。
神の栄光や恵みを象徴する、宝石としては最高に位置するものでもあり、それに相応しい宝石だ。
そして、エメラルドを取り巻くに相応しいダイヤたちがエメラルドの豪華さを更に花を添え、それらの一番小さい一粒ですら、十分ソリティアで通用する程の大きさのもので飾られている。
今では、値段すら付けられない程の価値があるそれを、怪盗キッドは盗みに来ると言う。
西の名探偵を名指しして。
眺めているとつい吸い込まれてしまいそうなほど、神秘的な首飾り。
平次は、暫くの間その美しい宝石をじっと見つめていた。元々、宝石の類にはあまり興味のない平次だが、ここまで来ると芸術。
ネックレスの形には仕上げてあるが、今やそれを身につける者はなく、こうして人々に晒される観賞物と化している。
それは、宝石にとって良い事なのか、悪い事なのか……。
だからと言って、あの泥棒に奪われて良いものでもないはずだ。絶対に。
現場の警備は全て中森警部が取り仕切っている。
平次は、一応警察の要請を受けてはいるが、彼等の指示に動かなければならないという制限はない。
なら、平次は平次のやり方でこのエメラルドを護るだけだ。
今夜の美術館は、閉館後もなかなかに騒々しい。
ライトアップされた建物が見える、しかしあちらからは死角に位置する場所に降り立ったKIDは、想像通りの警備体制に苦笑を漏らした。
相変わらす……懲りない面々。
オペラグラスで、懐かしい顔見知りを見つけると、再び微苦笑を浮かべる。
そして、ついと逸れた場所に今夜の獲物と……憎々しい敵の姿を発見すると、その表情は一変する。
怪盗KIDは人を傷付けない。
KIDはそれに誇りすら持っていた。
盗むのは宝石。
他人を傷付けることなく、華麗に獲物を奪い取るその盗みのテクニック。KIDの手にかかれば、人を犠牲にせずとも、それは容易だった。
怪盗KIDは、決して人殺しはしない。
KIDは世紀の怪盗。
怪盗は、盗む為以外の罪は犯さない。
しかし……。
「一度くらいの例外くらい、あってもいいんじゃねーの?」
KIDは呟いた。
なぁ、西の探偵さん?
お前をもう二度と。
「あいつには逢わせない」
やると言ったら、確実に、新一の目には二度と触れさせない。
その為には……。
「──消えてしまえ」
誰かに呼ばれたような気がして、新一は顔を上げた。
……キッド?
タクシーは僅か20分で新一を目的地へ届けた。
降り立った美術館は、煌々とライトが照らされていて、何処か物々しく感じた。
入り口付近まで行くと、『本日の閉館は都合により午後7時迄』と紙が張り出されていた。
「……変だな」
新一が見たチラシでは、最終日は午後9時になっていたはずだが、何かあったのだろうか。
首を傾げつつ、それよりもこれからどうすべきか思案にくれる。
ここにキッドがいるかも知れないと、只それだけで出てきてしまった新一には、別に他に行きたい所などない。
やっぱり、大人しくあの屋敷で彼の帰りを待っていれば良かったのか。
キッドに黙って出てきてしまった事、ばれることはないだろうが、ほんの少しは後悔してる。
全てを束縛する事だけが愛のかたちではないとは思うけど、こんな風に……まるで彼の秘密を暴くような真似をして、それは決して誉められるものではない。
ただ、知りたい事だけど、やたらと引っかき回すことではない。
いささか配慮が足らなかったかも知れないと、今更ながらに思い、意味もなく心の中で詫びる。
そして、考えた挙げ句、屋敷に戻ることにして踵を返した時──新一を呼び止める声がした。
「工藤新一君…?」
その声に、新一は思わず振り返る。
「……中森警部?」
思い出そうとする必要はないほど、自然に零れた名前。
彼の姿を認めた瞬間、彼が何者なのかか、瞬時に思い出す。
怪盗KID捜査の現場責任者で、彼が若い頃からずっと追い続けているという。おそらく、警察内部で最も『怪盗KID』の事をよく知る人物。
その彼がここにいる。なら、理由は明確だ。
「怪盗KIDが……狙ってるんですね」
声が震えそうになるのを必死で押し止め、新一は極冷静に声を発した。
知ってるはずなのに、知っていたはずなのに、何故、今まで結びつけなかったのだろう。
世紀の怪盗である『KID』と、新一の側にいる『キッド』。
同じ人物のはずなのに……何故か新一にはその2人が重ならなかった。
……と言うより、『怪盗KID』そのものの記憶が欠如していたのだ。
──この中森警部に会うまで。
どうして。どうして、こんな重要な事を忘れてしまっていたのだろう。
新一にとって、『怪盗KID』とは浅からぬ因縁があった。
泥棒には興味のなかった新一が──これ程までに深く関わってきたというのに。
「いや。君まで駆けつけてきてくれるのは嬉しいんだが、一応ここは警察の仕事だ。我々の邪魔だけはしないでくれよ」
新一の内心の動揺に気付くことなく、中森警部は告げる。
「……分かっていますよ、中森警部」
新一の心の中に蠢く様々な感情を押し殺して、応える。民間人が協力する事に、彼は決して喜んではいない。
当然警察のメンツがあるから。
民間人を犯罪の現場に巻き込む事は、決してするべき事ではないから。
そして何より、彼自身が長年追い続けてきた怪盗をこの手で捕らえたいと願っているから。
新一はようやく作り出せた何時もの営業スマイルで頷くと、これを機会にとばかりに館内へと足を踏み入れた。
そこで、とある事に気付いた。
中森警部はさっき「君まで…」と言っていた。
新一まで駆けつけてきてくれるのは嬉しいが…と。
……なら、新一以外の誰が、警察に協力しているのだろう。
ふいに脳裏に浮かんだのは、倫敦帰りの名探偵。彼が来ているのだろうかと中森警部に尋ねようと振り返ったが、すでにそこに彼は居なかった。
「ま……いっか」
別に大した問題ではない。
それより今の新一には、この状況と新一自身のまるで整理の付かない記憶をまとめる事が第一だった。
言い換えれば、予告時刻もその標的すら……今の新一の眼中にはなかったのである。
キッドを捜さなくては。
新一は、混乱する頭を抱えながらも駆け出した。
標的も犯行時刻も関係ない。
今夜の新一は『怪盗KID』を捕らえる為ではなく、キッドを見つける為に来たのだから。
……多分、現場近くに彼はいないだろう。
もし居たら、新一がこの美術館に来ている事を知ったはず。そうしたら、キッドは新一の前に姿を現したはずだ。
……それとも、新一には気付かれないと踏んで、見なかったふりでもするだろうか?
新一は、混乱しつつも必死になって考えた。
(オレがKIDだったら、どうする?)
予告通りの犯行は怪盗KIDの信条だ。なりふり構わずなんて盗みは彼のする事じゃない。
KIDがキッドなら──盗みも新一も、両方手に入れるだろう。
KIDなら、それが可能なはずだ。
(キッドは、オレの前に必ず姿を現す)
新一はそう確信した。
今回に限って言えば、新一は彼を追いつめるつもりなどなかった。
この状況の中、新一は自分が以前からずっと『怪盗KID』を追っている事を思い出している。
追っていた頃のKIDに対する気持ちと、今現在のキッドに対する想いとが鬩ぎ合って、新一自身答えが出せない。
出せないのなら、本人に問い質すまでた。
この時も、確かに新一にとってキッドは『大切な存在』。
好きな気持ちは、彼が犯罪者である事を思い出したからと言って、失われるモノではない。
大丈夫。
キッドの想いも本物なら、こんな事で2人の関係など壊れはしない。
キッドさえそうであれば──。
新一は、思いもよらなかった。
新一自身の想いこそが『偽り』であるという事に………。
予告時刻まであと10分を切った頃、──それは突然起こった。
突如として鳴り響く警報。けたたましい音が館内に響き渡った。
しかし、騒然とし始めた展示室とは裏腹に、新一がいる階段の踊り場は静かだった。上方の窓からは綺麗な満月が光を放っている。
地下へと続く階段は、これから先には地上の光を取り込むことは出来ないだろう。今晩も、この月を背景にして『怪盗KID』はどこから侵入してくるのか。
だいたいの見取り図は頭の中に入れたが、今回は何処からやって来るのか見当が付かない。
じっくり対策を練る時間が無かったこともあるが……。
地上から潜入して、地下へ潜るか。それとも、地下から屋上へ逃げるか。
「……あいつなら、地下に逃げる事はないかな…」
あの怪盗は、ギャラリーを重要視している節がある。
とすれば、観客のいない地下へと逃走を計るより、屋上から華麗に飛び立つ方を選ぶだろう。
──なら、来るのは地下からか。
降り注ぐ月の光を浴びながら考えていた時だった。地下から階段を駆け上がってくる音が、新一の聴覚を刺激した。
それほど周りには反響していないが、それでもこの静けさの中、一際響いて聞こえた。
……キッド?
いや。彼なら気配は消してくるはず。
それに、この気配も足音も彼のものではない。
──しかし。
新一は軽く首を傾げた。
突然。何故か、奇妙な懐かしさに似た感情が沸き上がった。
何か……何処かで聞いたことのある足音。そう感じた瞬間、誰かの顔が脳裏に浮かんだ。
それが誰なのか認識する前に、新一の中の静寂が破られる。
鼓膜を刺激する声。
「……工藤?」
え……?
新一は思わず声のした方へと目を向けた。
地下へと続く階段の途中に人影が見える。どうやら、その人物が新一の名を呼んだらしい。
新一は、自分の名を呼ばれた事にさして驚きはしなかった。
ただ。
その名を呼んでくれた人物の声が……誰かに似ていたような気がして。
独特のイントネーションは関東ではなく関西地方の訛り。
そうだ。
こんな風に名を呼んでくれた人間は、1人しか知らない。
「はっ……とり?」
新一が彼の名を口にすると同時に、突然抱きしめられた。
一瞬、何が何だか判らなかった。
「工藤……逢いたかった…っ」
耳に心地よく、低く響く声に新一の心が鷲掴みにされた。
「服部……」
オレは……。
どうしてこいつの事を忘れていたんだろう。
微かに聞こえる警報の音。それはまだ鳴りやまない。遠くでその音を聞きながら、新一は平次の腕の中にいた。
「めっちゃ……めっちゃ心配したんやで、オレ」
まるで泣いているかのような声音に、一瞬びっくりする。
「服部」
「厄介な事件に関わっとるいう話は聞いとったんやけど、オレには直接連絡来ぃひんかったし……また、何かヘンな事に巻き込まれたんかと心配しとったんや」
「……ゴメン」
そう応えるしか無かった。
新一は平次の腕の中で、安心感と戸惑いを交互に味わっていた。
何が何だか判らない。心の整理が付かない。
何故、自分はここにいるのだろう。
この男の腕の中に。
こうしていることはある意味正しい。新一はこの男を知っているし、好きだった。
なのに……素直に喜べない自分が存在している。
分の心が見えない。何が正しくて、間違っているのか。
自分は、ここに来てはいけなかったのだろうか。
新一は、益々混乱していく思考に眩暈を覚えた。頭の奥に鈍い疼痛を感じる。まるでそれは新一がこれ以上考えることを諌めているかのように疼く。
それに促されるように、新一は下げたままの腕を持ち上げると、平次の胸にそっとあてた。
そのまま、ゆっくりと押しやる。
「……工藤?」
突然離れた温もりに、目の前の男は訝し気に新一を見つめた。
その瞳が、……胸に苦しい。
強く、胸の奥から沸き立つ心。
相手を強く想う実感。
この気持ち──紛れもなく『本物』。
なのに。どこか。何かが、『違う』。
違う……のは、彼ではないかも知れない。
違っているのは、自分自身。
何だろう……この、まるで心が二つに別れてしまったかのような感覚は。
平次の事……忘れてしまうには、あまりにも深く関わりすぎている人物だと言うのに───まるで、思い出しもしなかった事実と。
平次を想う心と同じくらい、強く引き寄せられるキッドへの強い熱情。
全てを真実と認識してしまうには、あまりにも身勝手な事実。
平次に見つめられるのが辛くて、平次を見つめ返すだけの勇気がなくて、新一はふいと視線を逸らした。
「……どないしたんや、工藤。何や、おかしいで…?」
いつもの鋭く生気を湛えた眼差しは影を潜め、今は只不安気に揺らいでいる。
そんな新一の態度に戸惑いながらも、平次は手を差し伸べた。
俯く新一の頬に指を滑らせ、自ら上体を屈めて新一を見上げた。
触れた指先から伝わる振動。新一は、震えていた。
訳も分からずに平次は囁く。
「具合……悪いん……?」
「な……んでもない…」
触れている平次の手を退けるように新一の掌が重なった。
僅かに後ずさりして、彼から逃れる仕種をする。
……それが、堪らなく平次を不安にさせた。
何かがおかしい。何かが。
目の前にいるのは、紛れも無く『工藤新一』で、この世で一番大切な人。なのに、彼が平次に見せるのは、不安や戸惑いと言った、負に近い感情で、久しぶりに逢えた恋人に対するそれとは、まるで違っていた。
感情を表に出すのが極端に下手な新一だとしても、今の彼はとても普通とは思えなかった。
一体、どうしたのだと言うのだ。
平次が僅かに顔を歪めた時だ。
ふいに見慣れぬものが平次の視界に入った。
見下ろした先に見えたもの。
新一の細い指にしっくりとはまった細い銀のリング。それは、まるで彼の為にあつらえたかのように、指元を控えめに飾っていた。
しかし、平次の知る新一は、決してこんなものをつけるような人間ではなかったはずだ。
自分の身を着飾る装飾品の一切を好まない新一にとって、時計ですら煩わし気につけていたというのに。
一体、新一の身にどの様な心境の変化があったのか。
連絡が途絶えていた僅か数週間に、新一に何があったのか。
平次は、戯れにしているようには見えないそのリングのはめられた手をそっと取った。
漠然とした不安が脳裏を過ぎったが、気付かない振りをして……尋ねる。
「工藤、この指輪……どないしたん?」
「え……?」
平次に問われて、新一はそれに気付く。己の指に光る、見覚えのあるリング。
それは窓から差し込む月の光に照らされてきらりと反射した。
ああ、そうだ。
これは大切な……大切な人から贈られた。
ただ一つの宝物。
「……ッド」
新一の口唇が、何かを形取った時だった。
微かな音と共に、突然照明が落とされた。
人工の光を無くした踊り場は、外からの光を取り込んで暗闇にはならなかったが、それでも2人の姿が一瞬、影った。
平次が慌てて腕時計で時間を確認する。
「あかん。予告時刻や」
怪盗KIDが告げた予告時刻。時計は丁度その時刻を指していた。
「さっきの警報騒ぎもこの停電も、全部KIDの仕業や……!」
「キッ……ド……」
新一は、KIDの名前に僅かに反応した。
──キッド……。そうだ、彼に逢わなければ。
思わず、身を翻した。
しかし、階段を駆け上がろうとする新一の腕を咄嗟に伸ばされた平次によって拘束された新一は、その場に不自然に立ち止まる事を余儀なくされる。
「くど…っ!何処行くねん!」
だが、新一は平次の言葉を無視して、捕まれた腕を振り払った。
「工藤!」
「キッドを……捕まえなきゃ」
平次の声に新一はそれだけ言うと元来た階段を戻ろうとする。
「工藤、何処行くつもりやねん」
「何処って。……ヤツの選びそうな逃走経路を先回りして…」
「そんなん、今更遅いわ。あいつはもう宝石を手に入れて、とっくに逃げおおせとるはずや。今から追っても間に合わん」
平次の言葉に新一は我に返った。
なら──。
「……早く帰らないと」
あいつが帰る前に屋敷に戻らないと心配する。
そう思ったら、居ても立ってもいられなくなる。
「帰るって……何処へや?」
しかし、真摯に問いかけてくる平次に、新一は目を見開いた。
彼が、目の前に居たコトを一瞬でも脳裏から消し去っていた自分に気付く。
何か……拙い言葉を漏らしただろうか。
彼が不審がる事を──。
新一は、躊躇いがちに平次を見つめた。心配そうに……不安気に見つめ返してくる、彼の瞳。
平次には、言えない。何故だかそう思った。
キッドの元に帰る──なんて事を言ったら、どんな反応が返ってくるか、考えたくもない。
混乱する美術館の中。
この場所だけは、静かで、重い沈黙に包まれる。
平次はそんな新一に何か言いかけて……口を閉ざした。何を言えば良いのか解らないのだろう。
そんな事を新一は考えた。
それに、何を問われても、今の新一には相手に納得させられるような言葉なんて言えやしない。
何より、自分自身が納得出来ないのだ。だから、無性に逃げたかった。平次の前から。
彼の眼差しから。
だから……逸らさなければ。
「負けを……認める気かよ……」
俯いた口から漏れる言葉を平次は聞き逃さなかった。
「工藤?」
「KIDを追いもしないで、端から諦める気か!?」
お前は、非公式ながら警察に協を依頼されたんだろう?
「なら、最後まで責任を取るのが筋ってもんじゃないか」
平次の探偵としてのプライドを突いて、新一は促す。
自分の前から消えて貰う為に……。
消える。
……そう思ったら、急に泣きたくなった。
どうして、こんな事になってしまったんだろう。
一番好きなヤツ相手にして、どうして離れなければならないのか。
……一番、好き?
ふいに何かを感じた時、まるでタイミングを計ったかのように、平次が頷いた。
「せやな。……最初から勝負捨ててお前の側に居りたい言うんは探偵として失格や」
「はっと……」
「工藤はここに居ってや?お前は別に警備に協力しに来た訳やないやろ?」
「え……?」
「何処にも、行かんといて……な?」
平次の瞳に見つめられて、懐かしい感情が湧き上がった。
こいつは何時も優しかった。
何もかも、自分の思い通りにするのではなくて、相手の気持ちをきちんと尊重した上で、まるで柔らかなシフォンで包まれるような心地よさをくれる。
平次と一緒にいる時が幸せだった。
しかし、そう思い至った時には、既に平次は駆け出していた。
『怪盗KID』を捕らえる為に。
新一は、そんな平次の後ろ姿に思わず手を伸ばしかけたが、届きはしなかった。
「はっ……とり……」
新一は、大切なモノが、二度と自分の手の届かぬ所に行ってしまったような気がして、俯くしかなかった。
勢い良く駆け上がった階段。
屋上へと続く扉を開け放っても、可能性はほとんどゼロに近いと確信していた。
怪盗KIDはもういないだろう。
予告時刻から、かなり経過している。
展示室の周囲では、既ににKIDは白い鳥のように夜空に舞い上がるのを目撃している者もいた。
大半の警官は中森警部に率いられ追跡を開始している。
人の少なくなった美術館。
ショーケースから、ものの見事に消え去った『ヴィーナスの神秘』。
大粒の美しきエメラルドの首飾り。
しかし、平次の予想は大きく裏切られた─────。
「待ちくたびれましたよ、西の探偵さん」
屋上に続く、スチール製のドアを開けた瞬間に聞こえた声。
玲瓏とした……そして、どこかからかいを含んだ声。
まさか、まだこの場所に留まっているとは思わなかった。
「何や……今晩はえらくのんびりしとるやないか」
相手のペースに乗せられぬ様に至って落ち着いた声で相手を牽制する。
「今夜は貴方の相手をしなければ帰れませんからね」
そう言いながら持ち上げた左手の中で輝く今夜の標的。
平次は思わず身を乗り出しそうとして、踏み止まる。
相手の思うがままにはならないよう、何とか平静を保つと、KIDは少し面白くなさそうな表情で平次を見た。
だが、それもほんの一時の間。すぐにいつもの人を食ったかのように口元に笑みを見せる。
遠くで聞こえるサイレンの音。
未だ回り続けるライトの光。
天空から降り注ぐ月の輝き。
そして、それ以上に存在感を誇示する白い影。
平次は、目の前の男を睨み付けながらも、彼の言葉を待つ。
しゃらり…。KIDの手の中の宝石が鳴った。
「お前は、エメラルドの硬度を知っているか?」
放たれたKID言葉は、意外なモノだった。
「……硬度?それが何やと言うのや」
予想もしなかったKIDの問いに、平次は内心首を傾げた。
……確か、エメラルドの硬度は7.5〜8。
比較的硬い事は知っているが…。それが一体何だというのだ……?
「エメラルドの硬度は高い。……にもかかわらず強度はあまり強くない。しかも熱に弱く、割れたり変色したりしやすい。結構脆い宝石なのを知っているか」
そのため、エメラルドカットという独特のカッティングが存在している。
四角い形に仕上げられるそれは、なるべく欠けないように仕上げられ、KIDの手の中にあるそれも、例に漏れることはない。
細心の注意を払って作られた逸品。
「硬度の割には、衝撃に弱い。割れる事なんてざらだし、変色もしやすい。しかも、内包物は当然あるし。……もちろん、あってこそ天然石である証拠になるんだけどな」
宝石の講釈を始めるKIDに平次は意味のない彼の言葉に苛立ち気に声を上げた。
「それが何や言うんや!お前の手に握られとるんは、紛れもないホンモノの『ヴィーナスの神秘』やし、オレはそんな講釈聞きに来た訳やあらへん」
「『5月の風』とも呼ばれるエメラルドは、もちろん5月の誕生石」
「それが……」
「似ていると思わないか……?」
モノクルがサーチライトに反射する。
似ていると言ったKID。平次は敢えて『誰に』とは問わなかった。
「芯は強そうに見えて、案外脆い。どんな手段を講じても手に入れることは出来ないように見えて、案外良い色に染まってくれたりするし……少しばかりの欠点は、彼が彼である証拠」
「……お前」
「誰にだって、間違いはあるさ。──ま、よりにもよって、西の探偵を恋人に選んでしまったあいつのミスは、オレが正せばいい」
キズのないエメラルドを得る事は、欠点のない人間を捜すより難しい。
キズがあってこその宝石の価値ならば、西の探偵との過ちも、それが彼である証拠で、欠点にはならない。
だから、その事でKIDが彼を恨んだりする事はない。
しかし。──目の前の男は別。
「オレはあいつを恨むつもりはないし、お前との事であいつが悩む必要もない。けどな、後顧の憂いは取り去った方が安心だ。──そう思わないか?」
KIDが今までこの場所に留まっていた理由。
今夜を限りにして、目の前の男には……新一の前から消えてもらう為。
「オレにとって……お前は邪魔な存在なんだよ──西の探偵さんよ」
「………勝手なコト、よう言うわ」
KIDの鋭い眼差しを受けて、それでも平次は平静を保ちつつ落ち着いた声で応えた。
改めて尋ねなくても解る。
エメラルドを新一になぞって、平次に宣戦布告しているのだ。
……というより、一方的な勝利宣言か。
尚且つ、平次に向けられる──隠しようもない殺意。
KIDの視線から感じるのはそれだけで、相手は端から隠すつもりなどないようだった。
「物騒な眼やな」
牽制するように平次は薄く笑った。
「これは失礼。……貴方をこの眼に映していると、自分の眼球すら潰したくなるくらいでね」
「気ぃ合うなぁ。……オレも同感や。早よ、その首飾り置いて、とっとと帰り。今夜はオレ機嫌がええねん。見逃したるわ」
眇められた瞳に互いの姿を映して、ぴくりとも動かない。
互いにタイミングを計る。
どちらかが動けば、均衡は崩れる。それを知ってか、2人はなかなか動きを見せなかった。
「ほう……ご機嫌ですか。それは良かった。不機嫌な貴方を消してしまったら、流石に目覚めが悪いですから…ね」
少しでも幸福であるうちに、あの世に送ってあげますよ、と暗に仄めかすKIDに平次の背中に冷たい汗が流れる。
冗談などでは済まされない。──紛れもない、本気。
怪盗KIDは人を殺めない。
確かに。盗む為に人を殺す事はKIDの主義に反する。
だが、これは怪盗の仕事ではない。。
世紀の怪盗と謳われたKIDとしてではなく、一個人として……目の前の男を抹消する。
そうしないと、いつまでも心の中に不安を抱えて生きなければならない。
この世で、一番大切なものを無くしてしまう、不安。
こんなに弱くなるなんて、思いもしなかった。
こんなに人を深く愛するコトになるなんて、思いもしなかった。
ただの戯れに、目新しい遊びにちょっと興味を惹かれただけだと思っていたのに。
執着が生まれ、独占欲が強くなる。
それと同時に許せなくなるのは、愛しい人が真実に求めている相手。
KIDが平次を始末したい理由は十分あった。
生暖かい風が吹いた。肌にまとわりつくような、気持ちの悪い風。
その風に煽られて、KIDのマントが軽やかに跳ね上がった。
隙を見て何とか怪盗の動きを封じ込めようと考える平次の目の前でKIDは殊更優雅な仕種で右手を胸に滑らせる。
取り出したのは一枚のカード。
それは53枚あるトランプの一枚……Joker。
「こんなモンでも、十分肉を裂くコトが出来るんだぜ?」
手首を返して投げられたそれは、平次の頬を掠めて落ちた。
「喉元掻き切れば、十分致命傷になる」
頬に感じる鈍い痛みを感じながら、平次はKIDに向ける鋭い視線を崩そうとはしなかった。
平次が再び目線をKIDに合わせると、その右手の中に黒光りするトランプ銃に捕らえられている。
平次は頭を振った。
「只の愉快犯が殺人犯に格上げか?」
相手の持つ銃は拳銃ではない。だから、よほど切り所が悪くない限り死にはしないはず。そう思いつつも、彼が勝算のない行為に出るとは考えられなかった。
KIDなら、殺人未遂犯などという無意味な犯罪者にはならないだろうという直感。
互いに動くことなく、時間だけが止まることなく進む。
刻の音すら聞こえてきそうな程静まり返った屋上で、互いが次に行動に移るタイミングを計る。
その時。
──ギシッ……。
緊迫した空気の漂う中、微かに響いた扉の音に2人は顔をしかめた。
誰かが──来た!?
部外者の介入を望まぬ彼らにとって、それは静かなる戦いを中断せざるを得ない状況を意味した。
そして、2人の緊張が瞬時に解けた。
何故なら、その緊張の糸を断ち切ったのは、警察でも美術館関係者でもなく……。
「新一……?」
KIDの鉄壁のポーカーフェイスが崩れる。
平次も突然姿を現した新一に戸惑いの表情で見つめる。
そして、当の新一も呆然とした表情で2人を見つめていた。
キッドは強引に口唇を重ね合わせた。
相手の抵抗などものともせずに激しく口唇を重ねて、無理矢理舌で口唇をこじ開ける。
戸惑いと驚愕の瞳で見つめてくる新一の視線を無視して、逃げる舌を絡め取り、吸い上げる。
美しくベッドメイクされた真っ白なシーツの上にその身を押し倒し、自らも新一の身体の上に覆い被さり、押さえつけた。
逃げられないように固定して、更に口唇を貪る。
息苦しいのか、新一が首を振って逃れようとしている事などお構いなしに口腔を犯す。
言葉は、聞きたくなかった。
だから、何も考えられないようさせたかった。
キッドの上着の袖をぎゅっと掴んでくる手。
見開いている瞳に浮かぶ涙。
何かを必死に訴えようとしているのに、キッドはその全てを見えていない振りをして、新一を追いつめるべく愛撫の手を進める。
キッドの指が新一のシャツのボタンを引きちぎる。今までにない乱暴な行為に新一の瞳が見開く。
その、責めるかのような色を湛えた瞳から逃れるように、キッドの口唇は胸へと辿った。
新一の白く滑らかな肌に舌を這わし、嘗め上げ、吸い上げる。
キッドの紡ぎ出す愛撫に呼応するように、言葉にならない声が新一の口から零れる。
意味のなさない声ならば、キッドは安心出来る。
ただ、いつもなら、キッドの背中に回る新一の腕が今はなく、ただシーツを掴んでいるだけである事に気付くと、訳もなく苛立った。
ただその一点で全てを拒絶されているような気がして。
拒絶されても仕方のない事だと理解っているけど──。
キッドの愛撫は止まることなく、下方へと向かう。
「キッ…………!!」
最も熱を帯びた箇所を躊躇うことなく口に含むと、新一の身体はびくりと震えた。
緊張を解かなかった身体が、徐々に弛緩していくのを感じる。と同時にキッドの口内で息づくものは、まるで反比例するかのように張りつめてくる。
キッドは更に新一を高ぶらせるべく、それにねっとりと舌を這わせた。
根元から先端まで這わせ、強く吸い立て、嬲り、時折甘噛みすると、もはや新一の口から溢れる嬌声は止まらなかった。
乱れきった吐息は熱に冒されたように甘く熱い。
新一のその声にキッドは漸く安心したように、進める愛撫の手を和らげた。
今の新一には、きっと自分以外の事など考えられないだろう。
本当はもっと優しくしたいけど、新一の思考を今だけは自分だけのモノにしたかったから。
考える暇を与えないように。
「新一……」
くぐもった声で、キッドは愛しい人の名を呼んだ。
その新たな刺激に新一の身体が跳ねた。
何時まで側に居てくれるか判らない。
どれだけ身体を繋げても、この身体を縛っても、真実を知ればきっと自分から離れていく。それは当然の結果であり、そういう彼もキッドは愛していたから、仕方のない事だった。
でも、これだけは……あの男の元に帰る事だけは許せないから。
自分自身すら翻弄されたいが為に、新一の身体を貪る。
脳裏に浮かぶあの男の姿を消し去りたくて、キッドは夢中で新一の身体にのめり込んでいった。
だるい…。
新一が目覚めて最初に感じた気持ち。
指の先すら動かせないくらい……身体中から力が吸い取られてしまったかのような虚脱感。
ぴくりとも動きやしない。
暫くの間起きあがろうと(心の中では)努力したが、結局諦めた。
白いシーツの上に手足をだらしなく投げ出したまま、目を閉じる。
疲れた。
そして脳裏に過ぎる昨晩の出来事。
あの夜。
ここで待つように言われた平次の言葉を無視して、新一は屋上へと続く階段を駆け上がった。
白い影が屋上から飛び去ったという情報を受けた中森警部は、既に追跡を開始していた。
閑散とした館内ではあったが、それでもまだ内部に潜んでいるやも知れぬと、念の為に捜索を開始していた警察に協力するふりをして、新一は屋上の確認を引き受けたのだ。
あそこには平次が行っているはず。だから、あまり行きたくはなかった。
でも、もしそこにキッドがいたら……?
捕まる訳が無いと思いながらも、平次だって新一と肩を並べる優秀な探偵だ。
甘くみたら、痛い目にあう。
平次とキッド。どちらが大事とかいうのではなく、ただ反射的に身体が動いた。
どちらが真実で、どちらが偽りなのか。
それとも、もしかしたら両方ともそうなのかも知れない。
自分の心なのに、自分の本当の気持ちが見えない不安の中で、浮かぶ2人の姿が交錯する。
結局。息を切らして駆け上がった先に待っていたのは、戸惑いの表情をしたキッドと呆然と佇む平次の姿だった。
そしてその2人を見て、新一の身体は一歩も動く事が出来なかった。
その後、聞こえたのはヘリの音。
逃走していたKIDのダミーに気付いた警察が引き返して来て……屋上にいる怪盗KIDを見つけて、近付いてきたヘリコプター。
その風とものすごい轟音とで思わず身を屈めた時、真っ白なマントに新一の身体は包まれた。
まるで、庇うように……隠すように。
その時、平次かの声が聞こえた。
何か言ったみたいだったけど、ヘリの所為でまるで聞き取れなかった。
キッドも何かを言っていたみたいだったけど、彼の声も轟音にかき消されていた。
最後まで、新一は何も解らなかった。
心に残る、漠然とした不安。
結局、キッドによって再びこの屋敷に戻ってきた新一は、物言わぬ彼の手に再び堕ちた。
逃げ出したつもりはなかったが、キッドにとってみれば、この夜の新一の行動は裏切りに見えたかも知れない。
裏切ったつもりはない。
新一は今でもキッドの事が好きだった。
しかし、脳裏に浮かんでは消える平次の姿が、懐かしくて。狂おしいほどに心をかき立てる瞬間がある。
心が何かを訴えようとしているのに、そんな時に限って、それ以上に強くキッドの事を想ってしまう。
右手の指にひっそりと輝く銀のリング。
それを見つめる度に、思考力は低下し……キッドの事しか考えられなくなる。
彼の側に居る、今の幸せを噛みしめている自分が存在する。
新一は、頭を動かすと縋り付くかのように自分の右手を見た。
まるでそれは新一に安心をくれるかのように光っている。新一は右手を引き寄せて、そのリングに口づけた。
キツドがよくする仕種。そっと手を取り、指に口づける。
新一はキッドの行為を真似てみた。
まるで、リングに誓うかのように口づけるキッドを思い出し、少し新一の表情が曇った。
──別にリング(コレ)に誓わなくてもいいのに。
誓うなら、新一自身に誓ってくれればいい。
その誓いは決して破らないから。
絶対に──。
それは──魔が差したとでも言うのだろうか。
キッドの言葉を忘れた訳ではなかった。
絶対に外してはならないと、ことある事に囁いていたキッド。でもその時に限って、彼が新一を信用していないかのように感じてしまった。
まるで、婚姻届やマリッジリングでしかその座を主張出来ない女のように、キッドも新一にリングを贈る事で、恋人の証明をしているように感じて。
そんなモノなくても、新一はずっとキッドから離れやしないのに……!
ほんの少しの哀しみに新一の胸が痛む。
キッドは新一を信用していないのだろうか…?だから、リングで自分を縛っているつもりでいるのだろうか。
そう思うと……このリングにすら嫉妬してしまう。
だから、それはちょっとした反抗心。
こんなものなくても、ずっと側に居られる証明。
こんなモノに誓わなくても、新一はずっとキッドの側いるから……。
──だから、新一は右手の薬指に手をかけた。
数分後。
ベッドのサイドボードの上にリングは置かれたままで、新一の姿は忽然と消えていた。
どうしても言わずにはいられない事がある。
それはほとんど怒りにも似て、キッドは紅子の元へ向かった。
新一が屋敷で眠りについている頃。キッドの姿は朽ちかけた洋館にあった。
突然姿を現したキッドを見ても、紅子は驚かなかった。
ある程度は予想していたのかも知れない。紅子は落ち着いた表情でキッドを見つめた。
「………取り敢えず聞いてあげましょうか?」
漆黒の髪を揺らしながらそう言う紅子に、彼は苛立だしげに髪をかき上げた。
「あいつを森の外に出したのはお前だろう」
「そうよ」
当然じゃない。と紅子は言う。
紅子が操る赤魔術によって、工藤新一はキッドの手の中に堕ちたのだ。
魔術を破る事が出来る人間は、キッドと紅子しかいない。
「何故、介入した」
契約違反を暗に咎めるキッドに、紅子はまるで意に介さない顔で答える。
「私が虜にしたい人間が、別の人間に…しかも男を手に入れたがっていると知って、素直に手伝うとでも思っていたのかしら」
その言葉。半分は本当で……半分は嘘。
しかし、冷静さを欠いているキッドには、その紅子の心情を理解する余裕すらなかった。
「魔女との契約が、これほどまでに軽んじられるものだとは知らなかったな」
怒りを押さえ込むように吐かれた言葉。しかし、紅子はたじろがなかった。
それは、決して間違ったことをしたとは思えないから。
たとえそれがキッドにとって『契約違反』に当たろうとも──。
彼は忘れてしまったのだろうか。
紅子の魔法は本物だ。
魔法の力を借りれば、全て望み通りの結果が得られるだろう。
しかし……。
魔法でムリヤリ心を盗んでも、さみしいだけ、と。──そう言ったのはKID自身ではなかったか。
KIDの心を手に入れる事が出来なかった紅子。
魔法の力ではKIDを虜にすることは叶わなかった。
そして、同じ手段で愛する者を手に入れようとしたKID。
彼の行いは、一時の幸福をもたらした。しかし、生涯続くはずがない。
気紛れに手中にするだけならば、紅子は気にしなかった。
飽きたら捨てる程度の想いならば、もっと強力な秘薬を渡してあげたかもしれない。
遊びで手に入れた相手なら、それこそ一生離れられなくしてあげた。
呪縛のリングは、はめる指さえ間違わなければ、生涯互いが離れる事はない。愛し合った者たちを引き離す事は決してしない。
万が一、物理的に離ればなれになったとしても、それでもお互いが恋い慕い、再び逢う為なら死して魂のみになってまでも結びつこうとする。それほど強力な魔法を秘めたリングなのだ。
しかし何時だって、真実の愛には魔法なんて、只の子供だましに過ぎないのかも知れない。
紅子は、そのことを当のKIDによって気付かされたのだ。
そして、己の心に宿る小さな想いも………。
「私…今回ばかりはとても良い事をしてあげたつもりよ。魔女にあるまじきお人好し加減には本人も呆れてるくらい」
その涼やかな声には、後悔の欠片もない。
「……オレを騙していたと言う訳か」
「魔女が正直者だなんて、思わない方が良くてよ」
まるでほめ言葉をもらったかのような笑い声がキッドの神経を逆撫でする事などお構いなしだ。
キッドの氷のような眼差しが紅子を射抜いても、彼女は哄笑を止めなかった。
「……お前に、こんな事を頼んだという事自体、間違っていた」
「そうね」
紅子は笑いをおさめるとキッドを見据える。
その瞳に先程の哄笑の影はない。──彼女のその眼は、最初から笑ってはいなかったのだ。
「そもそも、魔法で心を奪うなんて事はやるべき事ではないと、そう言ったのはキッド……あなたの方よ」
真実の愛を求めるのなら、魔法は使うべきではない。──使っても、手に入ることはなく、虚しさが付きまとうだけ……。
「あなたの精神が切羽詰まった状況だったって事は、私に会いに来た事で理解ったわ。……そんなあなたには何を説いても無駄だって事もね」
「紅子……?」
キッドの瞳が怪訝そうに揺れた。
「魔法に囚われた人はね、偽りの幸福の中で生きるの。……それは、夢と現実、過去と未来の狭間の時間のない永遠の刻の中」
そこから抜け出さなければ、囚われた人は何も気付かずに幸福の刻を過ごす事が出来る。
でもそれは、捕らえた人にとっては、相手の心の中にある大きな穴を何時までも埋める事が出来ずに藻掻き続ける運命を背負う。
相手を虜にするというのは、真実その全てを手にする訳ではなく、相手の心の一部分だけを甘受する行為なのだ。
欲しい所だけ手にとって、他の煩わしいもの、己を不快にさせるものには蓋をして、封印する。
そんな相手を愛する事が、全てを手に入れたと言えるのだろうか。
恋や愛に狂いきった人間なら、その小さな心の世界で満足出来るかも知れない。お互いが魔法の虜になってしまえば、気付くことはそれこそ永遠に来ないのかも知れない。
しかしそれは『永遠に続く愛』であると同時に『未来のない愛』でもあるのだ。
「あなたは、俗世の全てを捨てて彼と……愛だけを摘み取って生きていける?」
意地悪く尋ねる紅子にキッドは無言だった。
「人間は、絶対に社会から隔絶する事は出来ないわ。生きていく為には食べなきゃならない。食べていくには働かなきゃいけない。……あなたがあの世で永遠を誓うと言うのなら、可能でしょうけど」
あなたは、自分が『怪盗KID』である事をやめる事が出来るかしら。
目的を完遂することなく、全てを捨てる事が出来るかしら。
たった一人の為に……。
紅子は、阻止したかったのだ。
彼の本気を知った時から、それは絶対に囚われてはいけないと。
刹那の熱情は、遠からず血の涙を流す事になると。
泣けない魔女が心の中で流す鮮赤の……。
「──新一が森を抜けたのも……そもそも、あの指輪をはめさせたのも皆結局は新一を解き放つ為だったのか」
独言のようなキッドの声が乾いた空気に溶け込んだ。
そして紅子は何も語らなかった。
怪盗KIDは工藤新一に何の魔法も施していなかった真実を。
あの時渡した薬も指輪も…魔法と呼ぶにはあまりにもお粗末な代物で、全て紅子の掌の上で踊らされていた事も。
弄んだ訳ではない。
それが……彼女なりの彼への愛情。
想いが返されないのなら、別の意味であなたの力になってあげる。
その決意は、時に胸を切なくさせたけれど……憎くて憎くて堪らなく憎くて、そして一番大切な人が真実(ほんとう)に幸福になってもらいたい為に。
「一つ……頼みがある」
長い沈黙の後、キッドはぽつりとそう言った。
「あいつが……新一が思い煩う事のないようにして欲しい。今回の事で、『怪盗KID』を見る目が変わらないように」
今までの夢こそ忘却して欲しい……。
そして、次に相まみえる時は、一人の探偵と怪盗として。
紅子の髪が僅かに揺れた。
キッドにはそれで十分だった。
Open secret/written by emi
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