My Only One 3




KIDの元から戻ってきた新一は、行方不明であったそれまでの経緯を平次には話さなかった。
話せるようなものではないのはもちろんのことだったが、それ以上に逢う所か声すら聞く事すら出来なかった。

意図的ではないとはいえ、新一のした事は紛れもなく平次への裏切り行為。
それを飄々として告げる事など、その様な立場に立った者でなくとも決して容易ではないと理解出来る。


突然、目の前にあった見えない靄のベールが切り裂かれ、現実を取り戻した新一は、訳も分からずあの屋敷を後にしたその足で、阿笠邸に赴いた。
真っ直ぐ向かったこの家で平次が屋敷に滞在している事を知り、使える全てのコネクションを駆使して、彼を大阪へ帰らせるよう仕向けた。
そして平次が工藤邸を後にして、大阪行の新幹線に乗り込んだ事を確認すると、ようやく自分の家に帰ってきたのだ。




帰ってきて驚いたのは、室内はが新一が家を空ける前と全く同じだった事。
脱ぎ放しにしていた上着も、読みかけの本もそのままに。平次がどんな気持ちでそれらをそのままにしておいたのか……痛いほどよく解った。


そして、所々に残る想い人の名残。


濡れたシンク。
水滴の付いたコップ。
綺麗に拭かれたテーブルにほんの少し引かれた椅子。
電話台の横のメモ帳に試し書きのように書かれた線。

そして、リビングのテーブルの上にある置き手紙。


それは手紙というより、メモ。

時間がなかったのだろう。
『帰ったら連絡請う』とだけ書かれたそれ。走り書きのように平次の名が認(したた)められている。

新一は、そこかしこに平次の気配を感じながら、それを見つめた。
そして思う。


──連絡なんて、出来る訳ない、と。




美術館で平次と出逢ったことを、新一は覚えている。
心配してくれていた平次。
新一を見た時のあの表情。


突然抱きしめられ、苦しくて、でも心地よくて、懐かしくて………泣きそうになった。
だけど、現在の自分はそんな平次に応えられるような人間ではなくなった。

平次は………多分気付いているだろう。


あの夜。美術館の屋上で、新一がKIDと姿を消した事、平次が何も思わないはずはない。
あれでは誰が見たって、新一は平次を裏切ったように見える。

事実、裏切っている。

それでも、心だけは変わらず平次だけを想っていると思ってみても──今度は新一自身に裏切られた。


目の前にちらつく白い影。
KIDの息づかいすら感じてしまうような感覚。
ここには、彼を感じる何物もないはずなのに、平次よりも強い存在感が新一の心を覆う。


──思い通りにならない感情が、苦しくて……。


一体、自分はどうしてしまったのだろう。
まさか。本気でKIDを好きになったとでも……?


「──まさか」
新一は思わず首を振って、その危険な考えを振り払った。
あれは不可抗力。身体を支配されたからと言って、心まで捕らわれた訳ではない。

そう思い込んでみても……気持ちはなかなか落ち着いてはくれなかった。



新一が不在の時、新一の大切な人たちに無事を知らせる連絡を入れたのは、おそらくKIDだろう。
その連絡は、平次の元には届かなかった事を阿笠博士から知らされた。
そして今、無事に戻った新一が、平次に連絡しないはずはない。こんな事でなかったら、真っ先に彼に無事を告げるだろうに。


出来ない。……そんな事、出来ない。
でも、……これ以上、裏切れないのも正直な気持ちだった。
彼を……これ以上不安にさせない為、安心させる為に新一は躊躇いつつも家の電話を取り上げた。

取り敢えず今は、無事を知らせるだけだから。
余計なことを言ったら、また心配させる。もちろん、それは『逃げる』事に他ならないけど。
しかし、そう思いでもしなければ、今の新一にはダイヤルボタンを押す事すら出来ないから──。











電話の向こうから聞こえる声に新一は耳を傾ける。
新一の無事な声を聞いて安堵する吐息が受話器から聞こえてくる。
いつもは饒舌な彼が、安堵した声で工藤邸に滞在していた旨を淡々と語っている。


新一の事は、何一つ尋ねずに……。


尋ねられても答えられない事を知っているのか。平次の話し声が新一の鼓膜をダイレクトに響かせる。
優しい声。大好きな人の声。確かに新一はこの声の主が好きだった。
もちろん、今でも好き。

普段の新一はそんな態度はおくびにも出さなかったが、態度で表せない分、想いは深い。
その電話の主は今は大阪で、新一と同じ学生生活と探偵業を両立させている。
一番話が合って、気が合って、それ以上にお互い最も大切な存在だった。


なのに今は、その電話の相手に今の気持ちを気取らせない様に、新一は慎重に言葉を選んで会話する自分…。


何故なら。……少しでも気を許すと……脳裏に浮かぶ白い影。
おかしかった。
──どうして平次の事を思い浮かべると……KIDの姿がちらつくのだろう。

こうして今、彼の声を聞いていても、思い浮かぶのは月下に佇む白い衣装を身に纏った人物だけ。
脳裏にこびりついて、離れない。気を抜くと、平次をKIDと呼び間違えてしまいそうなくらい。
考えている訳でもないのに……想っている訳でもないのに、むしろ憎んでいるはずなのに、……それでも消えてはくれない影。



(──体、どうしちまったんだよっ、オレは)




『工藤──?』
黙り込んだ新一に気遣わしげに声をかけてくる平次。その低く甘い声に、新一は我に返る。

「あ………何でもない」
受話器を持ち直し、やっとのことでそれだけ言うと、適当に言い繕って電話を切った。
結局、会話は10分と保たなかった。


おかしい──どうかしている。
そして、──どうしようもなく戻れない事実を知る。

それでも………それでも、何か縋れるモノが欲しかった。
自分の心を正当化する『何か』を。











にこにこ笑っている、幼なじみの顔。

「………何がそんなに嬉しいんだよ」
何時もと変わらぬ日常の…学校帰りの2人。蘭は校門を出てから、ずっとご機嫌だった。
……いや。多分朝からずっと。


「だって。今回は早く戻ってきてくれたじゃない?」
手の離せない事件があるからと──そう連絡をしてきた新一。
この前は、一年以上も帰ってこなかった。だから今回も、期待してはダメだと言い聞かせていたのだろう。

待つことは出来る。何時までだって待てる。
でも、なるべく期待しないように……
明日には戻ってくるかも知れないという甘い期待は持たないように、そんな思いで日々を送っていた。

なのに、思いもかけず新一は早く戻ってきた。
唐突に姿を消した時と同じくらい唐突に、蘭の前に姿を見せた。

──ただいま、と。

そう言った新一が目の前で微笑っていた。
……ほんの少し儚げに。


今、蘭の隣を歩く新一の表情は、何時もの様にちょっとぶっきらぼうに前を見て歩いている。
今までと変わらない、何時もと変わらない日常。


彼女にとっては……。








蘭と別れた後、新一は阿笠博士の家に向かった。
そこには以前彼と同じ境遇に陥った、1人の科学者が住んでいる。


「一応検査結果は出たわよ」
新一の主治医でもある宮野志保は別段表情を変えることなくこう言った。

新一には、KIDと対峙した夜からあの時まで、何故か漠然とした記憶しか残らなかった。
もちろん、それまでの出来事は事実、新一の身の上に起こった事だ。今でも様々な事を思い出せる。
なのに、まるで現実に夢を繋いだかのような違和感が残る。

KIDは新一の身柄を拘束し、尚且つ彼に屈辱的な行為を犯した。
それは、肌に鮮やかに残る薔薇色の跡や、気怠い身体がまざまざと証明していた。
今までの出来事は全て現実だったと。
それでも、ショックより、ただ信じられない気持ちが遙かに上回る。
衝撃を感じる程、新一の意識はそれを現実と認めきれていないのだろうか。


すべては夢のように朧気で。
しかし、鮮やかに蘇るKIDの姿。
何より恐ろしいのは、それまでKIDと共にいた時間よりも、現の方が恐ろしいほどはっきりとKIDの気配を感じてしまう。
目を閉じれば……恰も目の前に彼が佇んでいるかのように。


そして、向き合わなければならないもう一つの現実。


西の探偵と呼ばれている高校生探偵。
新一は彼が好きだった。もちろん、今もその気持ちに変わりない。
しかし、この状況でどの面下げて彼に逢えるというのだろう。

これは裏切り。
彼を……一番大切なヤツを一番ヒドイ方法で裏切った。
なのに、理性では彼に会わせる顔がないと言っているのに、平次の事を思うと決まって脳裏に別の人物が浮かんでしまうのだ。
KIDの姿が等身大で現れて、日毎大きくなる。

考えたくないのに、──あいつしか考えられなくなる。
……これではまるで精神異常だ。


だから、そんな自分を否定したくて、新一は志保に検査を求めたのだ。

あの夜、新一はKIDから何かしら異物を飲まされた。
それから意識が混濁し始めたのは確かだ。なら、今の新一とあの薬は何らかの関係があるに違いない。

しかし志保の言葉は、新一の望んだものではなかった。

「身体に異常はみられないし……薬物を投与された形跡もないわ」
現在の私達の身体では、市販薬すら受け付けられないから、飲まされれば何かしら体調の変化が起きたはずだけど……そんな事はなかったんでしょ?
そう問われ、新一は頷いた。確かに、身体の不調を感じた記憶はない。しかし、あの夜。KIDと対峙した時……確かに何かを飲まされたのは事実だ。
その後、急激に意識が遠のき、新一は自分の意志を奪われ、気が付いたらKIDの元に居た。

ほんの数日前の出来事だ。

「工藤君が飲まされたと感じたものは薬の類ではなかったのかも知れないわね」
身体に薬物の反応はない。毎月行う健康診断の結果と同じ。少なくとも、今現在は身体に何ら影響を及ぼすようなものは検出されてはいない。

「それは、……つまり、オレはまるっきりの健康体っていうことか?」
「身体はね」
「……?」
「肉体に関して言えば正常だけど、だからと言って『心』までも正常とは言い切れないでしょ?……それに、私はこの分野は専門外だけど……もしかしたら催眠の類に掛かっていた可能性がないこともないのよ」
「催眠?」
催眠術の催眠か、と尋ねる新一に志保は頷く。
「専門家じゃないしはっきり断言は出来ないけど、あなた、相当掛かりやすい体質だから」
集中力と想像力が強ければかなり掛かりやすい。新一にはその傾向があった。

心を侵される感覚は、むしろそういう手段によって行われる事が多い。

「……催眠というより、暗示に掛かっていたのかも知れないわね」
「暗示……?」
そんなもの、かけられた記憶はない。しかし、かけられなかったと本人が断言するのは難しい。

「暗示って、例えばどういう感じでかけられるんだ?」
新一の質問に志保ははっきりとした答えは言えなかった。
専門分野ではないし、第一興味がないから一般的な知識しかない。

しかし、敢えて言うならば、と前置きした上で、志保は口を開いた。
「暗示って言うのは、意識することなく、相手にかけたりかけられたりするものでもあるの。簡単な例を取ってみれば今回の検査。私が異常があると言ったら、あなたは信じたでしょ?」
そう言って志保はうっすらと笑った。

「片栗粉を薬と偽って、「これを飲んだら良くなるから」と言ったら、飲むでしょ?」
「そりゃ……」
「そして、効かない薬を本物の薬と信じて飲んで、それで体調が悪くならなかったら勝手に直ったって思うのよね。……最初から健康体なのに」
もちろん、この手の治療法や、自己治癒力を高める為に、わざと人体に影響を及ぼさないモノを薬として処方する事もある。

「日常生活に支障がない限り、私がしてあげられることはないわ。カウンセラーじゃないんだから」
何なら、良い精神科医でも紹介しましょうか?と尋ねられ、新一は首を振った。

今の自分の心を他人に吐露する事は、目の前の科学者以外出来ない事だった。

仕方なく、取り敢えずはその『信頼すべき科学者』に礼を述べると阿笠邸を後にした。





新一の元に奇妙な招待状が届いたのは、その日の夜の事である。
その奇妙な招待状は、日付と場所が書かれているだけだった。
そのいかにも妖しげなカードに、新一は一瞬躊躇った。

しかし、頭で判断するよりも早く身体が動いた。
まるで、何かに突き動かされるかのように。








「ようこそ、工藤新一」
そして、新一は此処にいる。

滑らかなその声は女性のものだ。
もう夏だというのに、そこは薄暗く肌寒い場所だった。

朽ちかけた洋館の中に足を踏み入れた新一はそこで1人の奇妙な男に案内されて、これまた新一の想像範囲外な装飾を施された部屋に案内された。
その部屋の中央に置かれた重厚な椅子に座って出迎えたのは、漆黒の髪の少女。
年頃は……新一とさほど変わらない。
しかし、その服装が普通ではなかった。
地味な長衣を身に纏った姿は決して華やかとは言えない。しかし、それでも様になるは、その少女が平均を遙かに上回る美貌の持ち主であった所為だろう。
長い髪を揺らしながら見つめる少女の深く見据えた瞳に新一は戸惑いを覚える。

「……似ているわね」
戸惑いつつも表情は完全なポーカーフェイスであったから、彼女は気付いただろうか。
新一が少なからず驚いたことを。

「怪盗KIDの知り合い、か」
なるべく感情を出さない声で、新一は言い放つ。

その言葉に少女───小泉紅子───は婉然と微笑んだ。
「知り合い……そうね、私はKIDを知っている」
「オレに何の用だ。何の為に呼び出した」

「私は只……私が虜に出来なかった男を虜にさせた人間を、この目で見たかっただけ」
「……?」
僅かに目を眇める新一を見て、紅子は満足気にその紅い唇を歪めた。

「あのKIDが、まさか同じ男に執着するなんて最初は信じられなかったけど、事実だったのね。……どう?嬉しい?」
女である紅子すらその気にさせられなかったのに、同性である工藤新一が彼女の最も欲した人を手に入れた事実。
だが、紅子の放った嫌味に新一は食らいついては来なかった。

「ソレを言う為だけにオレを呼んだのか」
なら帰らせてもらう。とそう言って踵を返しかけた時だった。

「忘却の夢の中で過ごした時は如何だったかしら……?」
紅子の口から零れた言葉。

「……夢?」
再び紅子の方に向き直ると、新一は先程と打って変わって厳しい表情で彼女を睨み付けた。
「お前………何を知っている」
あの……屈辱で覆われた夢のような現実と、目の前の女との関わりを感じて問い詰める。
紅子は相変わらずの微笑を湛えたまま、新一を見つめていた。

冷えた室内の温度が、更に下がったような気がする。
紅子は、そんな新一の表情をモノともせずに口を開いた。

「私とほとんど関わりを持とうとしなかったKIDが私の前に姿を現したのは数週間前。彼は、私に信じられないモノを用意しろと言った」

──1人の男を我がものに出来る薬が欲しい。

KIDは紅子にそう言った。
自分のものにして、一生傍にいられるように。

相手は、相当手強いから……残念な事にそれまで培ってきた手練手管ではどうにもならないからと、そう言って。
正直な所、その告白を聞いた時、紅子は可笑しくて堪らなかった。
それまでの怪盗KIDは、欲しいモノは何でも手に入れてきた。
それこそ容易に手中にしてきたKIDを知る紅子にとって、その時のKIDは相変わらずの無表情だったが、さして長くない付き合いの中でも内心の焦りが垣間見えた。

かなり本気で、しかも切羽詰まった態度。
普段、気障すぎるほどスマートに決めている彼が、形振り構っていられないとでも言う様に。

あまりにも真剣だったから、だからつい、手を貸してしまった。

もちろん。彼の望むモノを素直に与えた訳ではない。
与えていれば、現在の工藤新一はいないだろう。
恋して、愛して、死して魂だけになってもなお、惹かれ合う強い想い。そんな秘薬を紅子はもちろん知っていたが……。

「私は、彼の望むものを用意した。そして、それをあなたに使った。あなたは、KIDを愛した……忘却の夢の中で」
「………それで」
「私は、KIDの仲間でも何でもないわ。どちらかと言えば、憎い相手ね。だから、彼の望む通りに事が運ぶのは少し癪だった」
……故に、魔法は完全なものにはしなかった。

「綻びのある秘薬をそうとは知らせず彼に渡したのは私。……そして、目覚めるきっかけを作ったのも」
いとも簡単に術中に堕ちた新一を訝しみながら。


本来なら、彼はこれほどまでにあっさりと術に陥りはしなかった。
そう……本人が望まぬ限りは。


紅子は、心の中で小さくため息をつくと、言葉を続ける。

「……そして、仕上げ」
「仕上げ?」
「そう。私の作った薬を飲んでから、目覚めるのまでの時間。あなたの心は彼のものだった。……でも、魔法の解けた今、それは偽りの想いでしかない」
薬によって心乱され、真実と偽りが見分けられなくなったのは、その薬による後遺症のようなもの。

「あなたは真実、KIDを愛してはいない。それでもKIDの姿が脳裏から離れないのは、全て薬の所為」
「しかし、あの薬に身体的害はないはず…」
少し戸惑った表情で呟く新一に、紅子はくすりと笑った。

「魔女の作った秘薬がそんなに簡単に痕跡を残すとお思い?」
惑わすのは人間の心。魔法にかかった人間は、同じ魔法使いでもない限りそうとは見抜けない。

「あなたが、脳裏に彼を抱いて生きていきたければ、それでも構わない。でもそれが苦痛であれば、私の責任において、解いてあげる」
「解かれたら……あいつはオレの脳裏から消えるのか」
新一の問いに紅子は頷く。

「以前のあなたに戻るだけ。あなたがKIDを愛した事実は消えないけれど、それ以外は全て元通り」
もちろん、あなたが望むのなら……KIDとの記憶を消し去る事も容易。

「魔法にかかっている間は、それと同時に魔女である私の支配下にあるのと同じ。例え使い手はKIDであったとしても、それは只単に私の魔力を彼が使っていただけだから」



「何故……お前がそんな事をする」
しばらくの無言の後、新一は無表情のまま問う。

「私は、私の魔法にかかった人間に対して最後まで責任を持ちたいだけ。……それ以外に他意はないわ。もちろん、このままでも日常生活に支障はないから、無理にそうする必要はないけど」
それが可能な人間がいると言う事を知っておいて欲しかったから。
紅子は、そう言うと口を閉ざした。

選択権は新一にある。
どんな結果であっても……紅子は意を唱えるつもりはなかった。

それが彼の……キッドの意に染まぬ結論であったとしても。


新一は暫くは無言で眼を伏せていたが、軽い逡巡の後、意を決して頭を上げる。



それは、奇しくも怪盗KIDが望んだものと同じであった。


何もかも忘れて、未来を生きる。
それが、工藤新一の出した結論だった。











昨日まで、何をしていたのか。
何処へ行っていたのか。

事実には蓋をされて、夢のような出来事は記憶から消えて。
新一の心に残ったのは、それまでと変わらぬ人物。

ずっと以前からの付き合いで………これまでの人生で一番大事な時間を共有してきた人物だった。


それはあくまで変わらない日常。
それまでと寸分違わぬ日々。


しかし。
──全ては消えてしまったのだろうか。







大阪。

「あれ?あの人、工藤君とちゃう?」
教室の窓から顔を出して言う遠山和葉の言葉に敏感に反応したのは、もちろん服部平次である。

「ど、どこや!?」
和葉を押しやって、自らも覗き込む。
校門の側に佇んでいる人物は、その姿形から確かに工藤新一に見える。
平次は一瞬の躊躇いも見せずに身を翻した。

「ちょっ、平次!次の授業どうするん!?」
背中にかかる声に、
「服部は夏カゼで早退しました、言うといてや!」
それだけ言うと教室を飛び出した。




季節は、夏。梅雨は明けたと言っても、蒸し暑さはなかなか払拭出来ない、日本の夏。それでも時折吹く風は、街路樹の葉を揺らして心地よい音を立てる。
新一の柔らかい髪が揺れた。
駆けてくる、褐色の肌を持つ人物に眼を向ける。

「工藤!」
平次は、新一の側まで来ると、呼吸を整えつつ顔を上げた。

「どないしたん。急にこっちに来るなんて……」
そんな平次を見て、彼はにっこりと微笑む。

「逢いたかったから、来た」
「ほぇ……?」
あまりにも素直過ぎる新一の言葉に平次の思考が一瞬中断する。






「何か……信じられねぇくらい無性に…お前に逢いたかったんだ」
平次の家に場所を移し、襖を開けて初めて足を踏み入れた平次の部屋で、新一は躊躇う事なくそう言った。
畳の上に座って、平次自ら入れてくれたらしいアイスコーヒーに口をつける。

そんな新一を平次はまじまじと見つめている。

自分の感情を表に出すのが大の苦手で、恋人である平次の前でも、何枚ものフィルターを重ねて接しているように見える新一が、こんなにもあっさりと、しかも平次を狂喜乱舞させてしまうような台詞を吐くなんて……かなり、違和感。

「なんか……信じられへんのやけど」
「自分でも信じられないって言ってんだろ?」

それまで夢を見ていたかのような曖昧さが残る昨日。
そして今日目覚めて、真っ先の脳裏に浮かんだのは平次の姿だった。
もちろん、今日だって学校はあった。しかし、期末試験は二日前に終わり、後は惰性で授業が行われていただけだから、新一は思いきって授業をサボった。
事件以外で、こんな風に休んだ事はなかったけれど、工藤新一が休むのは事件がらみだと、学校は勝手に勘違いしてくれるから、大した言い訳は必要無かった。

いつもの、冷静沈着な自分が信じられない。

その思いは目の前の男より、新一自身の方が強かった。
だから、そんな風に言われる前に自分から先に吐いたのだ。

──からん。氷の溶ける音。ガラスのコップの中で鳴った。
毎日がうだるような極暑が続く日々の中、この部屋は丁度良い室温に保たれている。

「工藤……」
静かにエアコンがうなる中、平次が名前を呼んだ。
何気なく呟かれたような声だけど、平次の声を聞くと新一は安心する。説明の出来ない安堵感。

それは、彼が友達だからかも知れない。
恋人だからかも知れない。

辛いときに、助けてくれた親友だからかも知れなかった。
多分、それら全てをひっくるめて、新一は服部平次がとても大切な存在なのだ。でなければ、こんなにも強く惹かれるはずはない。


口唇が…新一の口元に降りてくる。
しっとりと触れてくる口唇に新一の手が平次の肩に触れた。
平次は、そんな新一を包み込むように腕を背中に回して引き寄せる。その優しい仕種に新一は安心したようにそっと瞳を閉じる。
触れ合う口唇を互いは殊更ゆっくり味わう。
軽く口を開けば、緩慢なまでの動きと共に舌が入り込み、待ち望んでいたものを絡め取り、吸い上げる。

「……んっ…あ」
口づけの合間に零れる声が艶を含む。
強い光を放つ両目は閉じられたままで、ほんのりとその目元が朱に染まっている。

平次はそんな表情で身をまかせている新一を軽く開いた瞼の隙間から確認すると、回していた手を新一背骨に沿って撫で上げる。
ぴくり、と跳ねる身体。軽く目を開いてその色っぽい目元で平次を軽く睨みつける。
そんな視線などまるで意に介さない平次は、ゆっくりと背中を撫で上げ、そしてそのまま腰まで移動させる。
明らかに熱を帯びてきた身体に、それだけでは収まらないであろう予感が交錯して、新一は軽く眉を寄せた。

「……そないな顔せんでもええやん?」
平次は新一の口唇から離れると、そのまるで日に焼けていない白い首筋へと舌を這わしていく。
きっちりと締めた首元。ネクタイを片手で器用にほどくと、シャツのボタンを外していく。

「ちょ……服部っ!」
真っ昼間からこれ以上の行為は遠慮したいとばかりに、その身をずらして藻掻く新一だったが、平次の手も口も、一向に離れようとはしない。
首筋と耳元を行き来していた平次の舌が、耳朶を甘く噛む。すると、新一の身体から一気に力が抜けた。
焦らずにじっくりと、新一の弱い箇所を的確に押さえていけば、抵抗など形にすらならない。
畳の上に身体を倒して、のし掛かるように身体を重ねて、新一の僅かな動きすら封じる。

全てのボタンを足り払われたその間から、しっとりと汗ばんだ白磁の肌が息づいている。
その肌の上を褐色の掌が静かに滑った。

「相変わらず……綺麗な肌やなぁ」
滑らかで、吸い付いて来るかのようなその肌を平次の手が堪能する。
男で、これほど極めが細かい肌なんて……それは正に一種の奇跡。その肌を……否、彼の全てを独占する事が出来る平次は幸せ者だ。
自分でもその幸運に感謝しながらその肌に口唇を寄せる。鎖骨の窪みに舌を這わせると、新一の声なき声が漏れた。
綺麗に色づいた胸元に指が触れると、身体が弓なりに反り返る。

あくまでも優しい愛撫。それでも次第に新一の身体が薄紅色に染まっていく。



──ふいに。



それまで身体は素直に身をまかせていた新一が、平次の身体を押し退けるようにの腕を持ち上げた。

「………何や?」
抵抗……と言うより、それは軽い自己主張のようなもの。新一は仰向けに横たわったまま、右手を差し出した。
平次の目の前に差し出されたのは、掌というより指。

「工藤?」
「……って、…ッド」
掠れた声ははっきりとした言葉は生み出さなかった。それでも、瞳を潤ませてぼんやりと見上げる新一の口元を平次は見つめる。


──誓って。


新一の口唇の動きを読みとって、平次は怪訝な表情をする。

「……誓う?……何に誓うんや、工藤」
差し出されたその指を取ると、軽く引いてその身体を起こした。
身体ごと引き寄せられた新一を待っていたかのようにその口唇に食らいつく。

「ふ……っん…」
喘ぎが零れる。それでも新一の口唇の動きは変わらなかった。


誓って……何時ものように。


何時もそうしていたように、その指に──リングに──口づけて、愛してると告げて欲しい。

無意識に強請った新一の行為に、平次は顔をしかめた。
多分何を言っているのか、気付いていないのであろう、新一の潤んだ瞳には平次ではない、別の誰かが映っているような気がして、平次の胸を締め付ける。

「くど……」
指を絡ませて、強く握り締める。
己の存在をしっかりと植え付けるかのように、強く。

「……っとり。……痛い」
その強過ぎる力に、新一は顔をしかめて平次を見上げた。
その顔に……先程までの表情は消えていた。

「どうした……服部……?」
優しい表情のの中に、何か得体の知れない感情が見え隠れしているようなその顔に、どうしてそんな眼で見つめてくるのか、内心の戸惑いを極力押さえて尋ねる新一。
自由な方の左手で、平次の頬をそっと撫でて。
その新一の優しい仕種に、何故か堪らなくなった。

「くどっ……」
新一の肩口に顔を埋め、じっと動かなくなった平次に新一は小さく微笑う。


「……ヘンなヤツ」


(──ヘンなんは、お前の方や、工藤。)


心の中で呟きながら、漠然とした不安を感じる。
それは次第に大きな奔流となって押し寄せてくる事を、平次はしっかりと感じ取っていた。











世間では、夏休みに入った7月の終わり。
連日の猛暑に身体が溶けかけていた新一の元に一本の電話が入った。

電話の主は、服部平次。
今から大阪を出るからと、3時間もすれば東京に着く。
そして、新一に会いに行くと。

夏休み。
それは、学生にとってはかなりの自由を許された期間。
そして、遠距離恋愛の2人にとっても、この長期の休みはとても貴重な期間で、平次が新一に会いに来るというのも至極当然の行動だった。
新一にとっても、嬉しくないはずはない。
例え、表面上はぶっきらぼうに振る舞っていたとしても。


だけど、電話の主はほんの少し後ろめたい気持ちを抱いていた。
それは、平次がついてしまった小さな……そして、その後の2人の運命を決める辛い嘘。







裏口から入ってきた彼に、この家の同居人はさして驚いた風も見せず、黙ってコーヒーを煎れた。

「そんなに彼に気付かれるのが怖い?」
宮野志保はそう言うと、彼の前にコーヒーカップ置いた。

「嘘ついてしもたからな。……バレたら絶対許してくれんわ」
些か乱暴に置かれたカップではあったが、平次は素直に礼を述べると、早速それに口を付けた。
室内は冷えすぎるほど空調が良く効いている。こんな環境でなければ、濃いめの熱いコーヒーなどはなかなか飲めない。
コーヒーを飲んで一息ついて、そしてようやく向かいに座っている志保の顔を見る。

先程新一に入れた電話では、これから出発すると告げたが、実際にはその時は既に東京駅だった。
新一に知られずに、どうしても彼女に会いたかったから。
彼の事を身体的にも精神的にも良く知る人物で、新一との関係を知り、且つ冷静な態度を取る人物は、今の所志保しかいなかった。

「突然連絡が来たのには驚いたけど……用件は工藤君の事かしら」
2人が互いに個人的に連絡を取り合った事はない。元々交流なんて、ないに等しかった。
そんな平次からの突然のコンタクトで志保にも関係ある事と言えば、工藤新一しかない。

「で?何があったの?」
ま、だいたいの事は分かるけど。……と、そう小さく呟いた言葉を平次は聞き逃さない。

「宮野……お前は工藤の…どの辺までを知っとるんや」
平次の問いに志保は極当然の返事を返す。

「工藤君が私に話してくれた事と、健康状態くらいかしら」
私はカウンセラーではないから、彼の心の内までは入り込む真似はしないから…。と、そう答え、コーヒーを一口飲んだ。

「工藤は……お前を信用しとるんやな」
「信用しなければ、彼自身が生き延びられないから」
彼女のその一言が、現在の彼がどのような状態であるのか、否応無しに理解させられる。

「そ……か……」
工藤新一の身体は、元の姿に戻ったとは言え、現在も不完全な状態であるのは否めない。
しかし、今はそんな思いに耽っている場合ではなかった。

「この数週間の間、工藤に何が起きたんか……宮野は知っとるんやな?」
「それは、彼が姿を消していた頃の事かしら?」
頷く平次に志保も軽く頭を動かす。

「知っていると言っても、私が直接この眼で見たものじゃないから。ただ、工藤の口から言葉を理解しただけよ」
「工藤は……何と言っとった」
「別に……貴方の想像している事とそれほど違わないんじゃない?……彼が私に言った事と言えば、彼が姿を消したのには、怪盗KIDが大いに関係している事。所謂、拉致監禁されていたらしいとの事。それから……」
まるで指折り数えるかのように順序良く話していく志保の言葉を平次は慌てて遮った。

「ちょお待てや。それは、新一が直接お前に話した事なんやろ?」
……それなのに、志保の口から放たれた言葉はまるで本人からではなく、他人が推測しているかのように感じられた。
拉致監禁されていた「らしい」なんて、おおよそ、当事者使うべき言葉ではない。

その疑問に志保はあっさりと頷く。

「そうね。拉致された当人が曖昧な事を言うなんて、普通ならおかしいわね。……でも、彼は……工藤君の場合は、そう言うのが精一杯だったのよ」
「それは……」
「彼がはっきり断言出来る事は、姿を消した日の夜の出来事。怪盗KIDと対峙して、そこで彼に何かしら薬のようなものを飲まされた。次に気付いたら、見知らぬ邸内。工藤君以外の人物の影もなく、どうしてその場にいるのか解らないまま、ここに帰ってきた」
つまる所、新一が拉致されてから己の意識を取り戻した時間は、彼の記憶から欠落していると言うこと。

「工藤は……何も覚えておらん、ちゅう事なんか」
「覚えてはいるらしいわ。……でも、それが現実に起こった事だという実感がないらしいの。まるで夢の中の出来事のようにね。もちろん、そんな曖昧な記憶でも状況証拠ならいくつもあるわ。彼が怪盗KIDに身柄を拘束されたのは紛れもない事実だし、その後意識がはっきりとした彼の身体には、情交の跡がいくつもあった。相手がKIDだなんて確証はないわ。ま、調べようと思ったら当時の工藤君の身体には、いくつもの証拠があったからすぐに調べられたけど、彼はそんな事するつもり、更々なかったみたいだし」

険のある形相を表し始めた平次をモノともせずに、志保は言い放った。

彼が求めているは、オブラートで包んだやさしい言葉ではなく、事実。なら、志保もありのままに述べるべきだと感じていたし、何よりそう言う風に話す方が楽だった。

「彼にとってしてみれば、起きてしまった事を確かめる事も思い返す必要も無かったのかも知れないわね」
もちろん、新一に一般人の持つ感情や貞操観念のようなものが欠落していた訳ではない。
彼には、それ以上に解き明かさねばならない『謎』が存在していたから、そこまで頭が回らなかったのだ。


「………『謎』?」
志保の口から零れた言葉を平次は怪訝に聞き返した。

「私に言わせれば、それは謎でも何でもない、ただの事実なんだけど……彼にはそれが理解出来なかったみたい」
どれだけ非凡な容姿、生活、生き方をしてきても、彼の心は普通の人と変わらないから。

「その、工藤が解かなあかん『謎』って一体、何なんや」
「……だから、それは『謎』でもなんでもないのよ。──事実を認められないから、『謎』にしてしまっただけ」
最後の方の台詞は呟きに変わる。

突然、物思いに耽ったような表情を見せた志保に平次は不安を抱きながらも尋ねる。
工藤新一は、何を認めることが出来なかったのか。


そう問われた志保は、微かに躊躇いを見せた。
それまでの、淡々とした態度とは打って変わった表情を見せる志保に平次も内心冷静ではいられなかった。
多分、平次にとってあまり聞きたくない、言葉。

それでも、彼女の言葉を待つ。平次にはそれしか出来ないし、そうしなければこの先新一と顔を合わせる事すら出来ないように感じられたから。
志保は、躊躇いがちに視線を泳がせていたが、すぐに平次の眼を捕らえた。その時見つめられた瞳で、志保の躊躇いの原因は新一にではなく、平次にあった事を知る。

もちろんこれは、工藤君が言った言葉ではないわ。……そう志保は前置きした。
今の彼は、まだ何も気付いてはいない。しかし、自分の持っている考えは、彼の深層意識に眠っている感情。


「工藤君はね。……怪盗KIDを愛しているのよ」
多分、貴方よりも…ね。




「……何や。それは、どういう根拠で言うとるんや」
至って落ち着いた口調だった。態度だった。

しかし、沸き上がる怒りに似た哀しみを必死に押さえ込んでいるかのような声だった。
そんな平次の態度に、志保は小さく首を竦めてみせるだけ。

長く感じられた短い沈黙の後、口を開いたのは志保だった。
「工藤君は、決して偽った訳でも裏切った訳でもないの」
だから、戸惑った。自分の感情が一体何を意味するのか、気付く事が出来なかったから……。

「貴方を好きになる前に、彼は別の人に心を揺さぶられていたの。でも、彼はその事に気付こうとはせずに、心に蓋をした」
そして、貴方と出逢い……貴方の想いを受け取る事で自分の心を完全に封印した。
それは、本人ですら気付くことのなかった、心の中の隠し部屋。

そして……その扉を無理矢理こじ開けられても、本人はまだ気付かない。
もちろん、気付けない要因が確かにあるのだろうけど。…そんな事は、自分の心と向き合えば些細な障害でしかない。

「彼はね、服部君。──彼は、KIDの手から逃れ、真っ直ぐこの家にやって来たの。ここに来た時は、多分貴方が想像している通りの事を彼は考えていたと思うわ。怪盗KIDに身を奪われて、貴方に合わす顔が無い、ってね。事実彼は、貴方を屋敷から遠ざけた。言い訳しようにも全てが朧気な頭に、そんな事は些細な問題でしかないと訴えているかのように残る身体の跡……。これで戸惑うなという方が無理な話よね」

しかし、ある日を境にして彼は変わった。

「何時だったかしら……。そう、あれはまだ梅雨が明けきらない頃ね。工藤君は私にこう言ったの。『今までの事は忘れてくれ』って」
「……何なんや、それは」
どう意味なのか判断付かずにそう尋ねる平次に志保もまた目を伏せると軽く首を振った。

「それまでの戸惑いも躊躇いも全てを忘れたかのような顔でそう言ったのよ。……私には何も聞くことなんて出来やしなかったわ」
何を思い煩っていたのか……そんな事も忘れた表情で、彼は言った。
そんな彼が幸せそうに見えた。

忘れてしまえるのなら……それに越したことはないと、志保はそう思った。

「それは……以前の工藤と変わらんようになった、ちゅう事か」
「あら?あなたは現在の工藤君を見て、前と全く変わった様子がなかったとでも?」
もしそうであれば、あなたがここにやって来た意味が分からなくなるわね。

上目遣いでそう微笑う志保に平次は押し黙った。

「あれほどまでに感情を抑えていた人間が、まるで掛け金を外したかのような振る舞い……工藤君らしくない。そう思わない?」
平次が感じたように志保もまた、工藤新一に『何か』が起きている事に気付いている。

「多分ね……工藤君は己の内にある『好き』という感情を全てあなたにぶつけているのだと思うわ」
それまでの自覚していた恋愛感情から心の中に燻り続けている仄かな感情まで、甘く切なく感じた気持ち全てを唯一の恋人に向けてる。
「結局……工藤君は打ち消したのよ。……心の中にある自分でもはっきり気付く事のない、曖昧な感情の全てを貴方に向ける事で、平静を保とうとした」

──つまりは、そういうコトなんじゃない?

志保は、平次の無言を納得したかのような表情で見つめていた。答えられないのは承知していたかのように。


「オレにはよう解らんわ」
「私もよ」
何だかんだと言ってみた所で……結局人の心なんて誰にも解らない。

工藤新一の心の内にある、別の心。
それが果たして真実なのか、偽りなのか。人の心はその本人ですら気付かぬ奥底に息づくもの。容易に気付くものでも認められるものでもない。
それでも、ふいに心の中を掠めるその影に、彼は戸惑い……躊躇った。
戸惑いが闇を生み、躊躇いが、魔女の誘いに乗った。

もちろん、そんな事までは志保も知らない。


現在の工藤新一は、怪盗KIDと共有した時間の全てを忘れてしまった。
そして、行き場を失った想いは全て平次に向けられた。

もちろん、そんな事は平次も知らない。


しかしそんな平次にも一つだけ言える事があった。
あの夜。……厳戒態勢の美術館で突然再会を果たした時の新一。居なくなる前と寸分違わぬ彼の姿で、たった一つだけ違った所。
彼の右手の薬指に光っていた指輪。


覚えている。そう、平次は確信している。
そして、それが全てを解く鍵である事に気付かない彼ではなかった。











程良く冷えた居間で好きな推理小説を読んでいた新一の耳に玄関の呼び鈴の音が響いた。
出迎えると、そこには平次が立っていた。門の前で軽く手を上げる姿は、どこか寂しげに見えた。

いつもなら喜色満面で底抜けに明るい笑顔を向けるのに、その時の平次はどことなく寂しげで、新一の心に小さな不安の火が灯る。
しかしそんな表情はちらとも見せずに新一は彼を家の中へと招き入れた。


そこで、ふと気付いた。
駅から家までかなりの距離がある。もちろんバスも走ってはいるが、バス停から工藤邸までもそこそこ歩くのだ。
今日も太陽はその存在を強くアピールしている。予想最高気温は34℃。

しかし……。
「服部……お前、汗かいていないんだな」
炎天下の中、ほんの数分陽の下にいれば汗が流れそうなのに、平次の肌はまるで汗ばんだ様子がない。

「ああ。……タクシー使うて来たさかいな」
何気なくそう言われて、新一も「そうか」と答える。

今まで一度だって、そんなものを使ってやって来た事はなかったのだが……そんな疑問を新一は心の中に押し止めた。

(学生の身だから、金をかけなくても良い所は極力抑えるって言ってたのにな……)
そう思いつつも、新一はいつものように平次を居間へと案内する。

案内されている方は、勝手知ったる他人の家とはいえ、大人しく着いてきた。

「何か飲むか?」
「せやな、冷たいモンでも頼むわ」
ソファに腰を下ろした平次に尋ねる新一にそう答える。新一は小さく頷くとキッチンへと姿を消した。
見えなくなってから、平次は小さく溜息をつく。


つい先程、阿笠邸での会話が蘇る。


(工藤…………)

心の中で、そう呟く。

宮野志保の言葉を100%信じたくない自分と、第三者の見る冷静な判断は、おそらくは正しいのであろうという思いが交錯する。
しかし、だからと言って、平次はそう簡単に新一から離れられる訳はない。

好きなのだ。この世の誰よりも、大切な存在。たった1人の人。

からん。と涼しげな音が響いた。
意識を現実に戻すと、新一が居間に戻ってくるのが目に入った。小さなトレイに、琥珀色した飲み物のグラスが乗せられている。

「アイスティーにしてみたんだけど……良かったか?」
「……ああ」
テーブルの上にことりと置かれたグラスから、また氷の触れ合う音が響き渡った。アールグレイが最近のお気に入りだと新一は微笑う。
平次は普段と同じ様に陽気で朗らかな声で礼を言うと飲んだ。
そんな平次を新一は柔らかな眼差しで見つめた。


少し、うざったそうに前髪を掻き上げる仕種に、思わず平次の手が伸びた。

「服部……?」
「髪……少し伸びたんとちゃう?」
伸ばした指先は新一の髪を梳き上げる。

さらり、と指通りの良い髪が流れる。それを更にかき上げて、露わになった白い額に口唇を寄せる。
軽く触れただけでも、新一の身体が僅かに震えたのを感じた。

「工藤……」
額、こめかみ、頬へと口づけは移動して、それからそっと口元に触れる。
形の良い口唇を己のもので塞ぎ、ゆっくりと味わう。触れている所からは徐々に熱を帯びてくる。下に垂れていた新一の腕が平次の腕を軽く掴んだ時には、既にその口腔を思うまま貪っていた。

性急に差し入れられた舌が新一のものを絡め取り吸い上げる。それは、次第に痛いほどきつく蹂躙する。

「……っ」
痛みの所為で思わず声を漏らす。掴んでいた腕に力がこもった。それに気付いた平次はすぐに力を緩めて、労る様に優しく

「痛かったか?……堪忍な」
名残惜しそうに新一の口唇を嘗めながら、平次は詫びた。

「……痛い」
おそらく生理的なものだろう。瞳を潤ませて、軽い抗議の眼差しで平次を見上げる新一。

「……痛くて、舌がまわらない」
ああいうのはキスじゃない。全然気持ち良くなかった。と、言外に告げる新一に反省の意味を込めて平次は苦笑する。

「ホンマにな……ちょお、急いてしもうたわ」
ぎゅっと抱きしめて、謝る。細い身体はすっぽりと平次の腕の中に収まった。


本当に……平次の心が急かされる。
大人しく平次の腕の中でじっとしている新一を更に強く抱きしめて、まるで何処にも行かぬように拘束してしまう。

そんな事しても、……本当の心は満たされはしない。



「……ヘンなヤツ」
抱きしめられる腕の中はかなり苦しかったが、そんな事は告げずに新一は小さく呟いた。
「今日のお前………ちょっとおかしいぜ?」
平次の背中に腕を回して、まるであやすかのように軽く背中を叩く。そんな新一の仕種に平次は小さく笑った。

「ホンマに……今日のオレはヘンやな」
多分、どれだけ求めても……平次の望んでいる真実には届かぬと理解っているからだろう。
きっとこのまま身体を重ねても……それは只の『行為の事実』にしかならない。

新一は拒まない。少し、不満そうな表情で形ばかりの抵抗の後、そのまま身を委ねるのだ。



「……せやけど、工藤。──お前の方がずっとヘンやで……?」

「え……?」
腕の中で微かに身じろぐ身体。平次が力をそっと緩めると新一は顔を上げて平次を見つめた。

「服部…?」
何を言いたいのか解らないと言った表情で見つめてくる新一に平次は小さな溜息をついた。

「なぁ、工藤。お前、何でこないに大人しゅう、オレの腕の中に収まっとるんや?」
「何で……って」
好きだから……。呟くように答える新一に平次は何とも表現しがたい顔で見つめた。

その瞳の中が奇妙に揺らいでいる。深く暗い影のようなものが混じり合って、新一を不安にさせる。

「何だよ。……オレがそう言ったらおかしいのかよ」
口を尖らせて尋いてくる新一に、平次は何も言わず、じっと見つめるだけだった。

「今までの工藤はオレにこんな態度で愛情表現なんかせんかった。好いてくれとるのは良う分かっとったから、気にせんかったけどな。……お前、知りたいやろ」
「知りたい…って、何を」
「オレに惹かれる原因」
「原因って……」
そんな事は理解ってる。自分は平次の事が好きで……好きだからだ。他に何の原因があるというのだ。


「嘘、ついたらあかんて」
「……何?」
「自分の気持ち、あやふやなままで何時までも居ったらあかん」
突き刺すような瞳の奥に決意の光を浮かべて、平次は言った。

「服部……」

怖い。
平次の瞳の色よりも、その何かを言いたげな口元が。


平次に比べれば、まだまだ自分は子供だと、新一は思う。
何時だって平次は、新一に優しかった。新一がどんな態度で接しようとも、平次はそんな新一のその態度の裏に隠された感情をきちんと読みとって抱きしめてくれた。
他人の心の機微を素早く読み取る事には、新一も長けている。しかし、平次のそれは、もっと別の……深くて広い心で包んでくれる。
それが堪らなく心地よかった。平次といると、心が安らぐ。

しかし、今の新一には、漠然とした不安だけが包み込んでいた。

自分にとって辛い『何か』を与えられそうで、怖い。


「工藤」
聞いてはいけないのだ。しかし、心地よい彼の声は内に真摯なものを秘めて、新一に囁くように告げる。



「認めろや。──オレより好きなヤツが居るて」




「──な、んて」

耳を疑った。
今、平次は何と言った?

好きなヤツ?
平次より……好きなヤツ?


「そんなヤツ、居る訳ねぇだろ!!」
新一は平次の胸を押して、彼から逃れた。
信じられない。
何でそんな事いうんだ!?

オレは、オレはずっとお前だけを……。




「──!」




突然、胸の奥がすっと冷えていくのが分かった。

何だろう……この感覚。
心が警鐘を鳴らしている。

思い出すな。
思い出すな。
思い出すな。


──思い出せ、……そして、気付け。



冷えていた胸に、かっと炎が上がった。その炎の中に見え隠れする白い輝きが強く心を揺さぶった。
新一はそんな自分に驚いて、ただ呆然としていた。

一体………何が起こっているのか、理解出来ない。

戸惑う表情でいる新一に平次はひどく優しげな仕種で右手を取った。

「この指にはめとった指輪……どないしたん?」
「ゆ……びわ?」
霞みがかった頭の中、新一はぼんやりと問い返す。

「美術館で、オレと会うた時はめとった指輪や。……工藤、えろう気にしとったで?」
優しい……哀しいくらい優しい声。

「知らない……そんなの」
頭を振る新一に平次は小さく苦笑を浮かべる。平次よりも数段白く細い腕。
その指元をそっと撫で、ゆっくりと顔を近づける。
あの時、銀色に輝いていたリングがはめられていたその指に口唇を寄せて。


誓うような……神聖なキス。
触れられたひの指に仄かな熱が伝わって、新一の心の奥に閉ざされていた記憶の扉が軋む。



始まりはキス。
その右手を恭しく取って……新一の指に口づける。
まるでそれは決まり事のように、彼に贈られたリングに。



──愛してる。愛してるよ、新一。



優しくて、穏やかな声の中に隠された真摯な想い。
その声が好きだった。
『愛してる』と囁いてくれるのが堪らなく嬉しくて、幸福だった。


「キ……ッド」
涙が溢れた。
どうして、涙が出るのか解らなかった。

解らないふりしている自分に気付いた。

好きと自覚しても……その想いは決して気付いてはいけないものだと感じていた。


「違う……こんなの違う!」
涙を零しながら、頭を何度も振った。
違う、こんな感情は自分のものじゃない。本当の気持ちなんかじゃない!

「違うんだ、服部。……この気持ちは本物じゃないんだっ」
引きずられているだけなんだ、あんな事があったから。

「工藤…」
「イヤなら言えよ。他人に奪われた身体なんか欲しくないって、キライになったならそうはっきり言えよ。──どうしてっ…」
どうして、こんな方法でオレを遠ざけようとするんだよ……!

「くど…っ」
「気にならないはずがない事は分かってる。何も聞いてこないのは、お前の優しさだと思った。……事実、オレはほとんど何も覚えていない。もちろん、想像する事は容易だったし、たぶんそれは事実だろう。でもオレは…!」
記憶のない事実より、目の前の男と培ってきた日々の方が大事だった。
この男を失いたくなかった。あんなコトで、全てをなくしたくなかった。

あの、見知らぬ魔法使いに全ての記憶を封印してもらったのに──何故、こんなにもあっさりと思い出してしまうのだろう。
どうしてお前は、……こんなに簡単にオレの内部(なか)に侵入してくるんだ──!!


泣きじゃくる。まるで手のつけられない子供のように泣く新一に、平次はただ優しく背中をさすった。
泣いて、泣いて、泣き疲れて止むまで、平次は辛抱強く待った。

平次は告げなければならないのだ。
新一が本当は何を望んでいるのかを。隣に住む、彼の幸福を願う科学者によって気付かされた、新一の想い。
本人はまだ気付いていなくても……心の奥底にはちゃんと息づいている『彼』への想い。
それは、平次が想いを告げるずっと前から、新一の心に住み着いていたのだと。

「工藤……オレはお前の事好きやで?お前に好きと言う前もその後も……今もお前が好きで、一番大事や」
好きで好きで、堪らなく好きで、誰にも渡したくないし、触れさせたくもないくらいに好き。それは時に醜い独占欲となって頭をもたげる時もある。
しかし、今気付かせてあげなければ、新一はどんどん深みに填ってしまうだろう。
このまま平次が彼の全てを支配したとしても、いずれ破綻を来す。人の心は何時までもその胸の内に押し込めておけるものではないのだ。
それに、これほどまでに自分を見失ってしまった新一を……もう見ていられない。

「大事やから言うんや。……辛い想い胸に抱えて生きるのは苦しいもんやから」
せやから、気付かなあかん。

「余計な事考えんと思った事言ってみ?……お前、KIDの事どう思とる?」
「……あいつは犯罪者だ」
頑なな態度の新一に平次は辛抱強く説いた。

「そんな事はお前の気持ちに関係ないやろ?……惹かれとったんとちゃうんか?」
「……んな訳っ」
「殺人事件が専門の工藤が、何故あないに頻繁に怪盗KIDの警備に参加しとったん?……どんな意味であれ、お前は少なからずあの男が気になっとったはずや」
「それは……当然だろ」

只の怪盗なら、新一も首を突っ込まなかった。しかし、謎めいた予告状や、警察を手玉に取る鮮やかな盗みのテクニック。……そして、それを追いつめる瞬間を味わう事に、何時しか夢中になっていた。
予告状の謎を解き、怪盗の逃走経路を推理する事は、探偵としての自分を十分に満足させた。

「お前だって、目の前に謎があれば解こうとする欲求は抑えられないはずだろ……」
「……せやな」
気になるのは謎。あの怪盗は、自分を駆り立てて止まない複雑な謎や、衆人環視をも欺く大胆な行動で標的をいとも容易く奪ってみせる。その鮮やかさに興味を引かれた。

そして、その事が新一の本当の気持ちを覆い隠していたのだ。
たとえ気付いたとしても、お互いの立場は全く違う。怪盗と探偵。犯罪者とそれを捕らえたいと願っている者にどのような交わりが存在すると言うのだろう。
少なくとも、新一が望むような関係にはなれない。……なら、その気持ちに気付かずにただ怪盗を追いつめれば良い。


彼の弄した謎や策。そういったものを今まで培ってきた全てのデータと自分の勘とで瞬時に判断を下す。その時に味わう緊張感や高揚感……それが探偵である新一を作り上げたと言っても過言ではない。


──だから、それに徹する。


その手応えを欲して……その奥に隠された感情を隠す事はきっと容易だったのだろう。
まるで細い糸の上で対峙するあの瞬間は、胸の奥からわき上がる熱で満たされ、一種の疑似恋愛に似ている。


「せやけどな……そんな気持ちで自分の心に嘘付いたってあかんで?」
平次とて犯人を追いつめる時は、軽い高揚感を覚える。パズルのピースをはめ込むように解き明かされていく過程には興奮が混じる。その一瞬を感じる事が、これほどまでに探偵に惹かれる原因だろう。
しかし、そんな感情で自分を騙し続けるには限界がある。

だってそうではないか。……自分が一方的に想っているだけならばそれは只の片思いで終わるが、相手にも同じように想われていて、それで心を背けていられるいられるほど、人間は強くない。

平次は、あの夜屋上で対峙したKIDを思い起こした。
あの時平次が見たのは、己に対する明らかな殺意。怪盗としてではなく、一個人として彼は平次を葬り去りたかったのだろうか。

殺意を抱く程……彼を愛しているのだろうか。


「自分の気持ち、分からん振りして嘘付くヤツは嫌いや」
「はっと……」
「確かに、オレと一緒に居る方があの男よりずっとマシやろな。世間体や常識を乗り越えて現在のオレらは存在しとるけど……あの男とはそれ以上に犯罪者として生きとる。そんなヤツと探偵やりたがっとるお前とじゃ、好きも嫌いも言えたもんやないわな。………けどな、────そんな周囲の状況や立場や、そんなモンは自分を偽る理由にはならんのや。大事なのは、ここやろ…?」
平次は静かに新一の胸を指した。

「五月蠅い外野も…オレも、全部取り払って自分を見つめ直してみ?……気持ちは一つしかあらへん」
損な性分なのは百も承知だ。お人好しと言われたって構わない。

平次は、新一をこの腕の中に抱かなくても愛していける自信があった。
それは新一にとって、ありがたくない事なのかも知れない。未練がましいと思うだろう。
しかし、新一がキッドを想うように……心はどうしようもないから。


「……じゃあ、オレがお前を好きな気持ちはどうなるんだ?」
オレがお前の事、好きじゃないとでも言うのか!?
好きでもないヤツと恋人の振りが出来るような人間だとでも言うのか!?

「そんな事あらへんよ。……工藤はオレの事も好いてくれとるん、よう知っとるから」
「なら───」
「せやから言えるんや。工藤が好いてくれとるのなら……お前が何処に行ったって、心は離れへんから」
平次自身の幸せはもちろん、新一と共に生きる事だった。しかし、彼の真実(ほんとう)の心の充足を願う気持ちもある。

何時までも、同じ愛のかたちのまま生きてはいけない。
一緒にいたって、いずれは変色し、色褪せた関係にならないとも限らない。

なら、何時までも心の中に暖かいものを残して生きるのも……一つのかたちなのではないか。


「分かんねぇ。……そんな事言われたって、全然分かんねぇよ」
「今、頭ん中で考えたって混乱するだけやもんな。………大丈夫や、逢えば理解る」
「逢う……?」
戸惑いの含んだ声で尋いてくる新一に平次はしっかりと頷いた。


「せやから、約束してくれへん?」
「約束?」
揺れる瞳を見つめて平次は微笑んだ。


「迷う事も…アイツから逃げる事もせんといて」











「なぁ、服部」
「…………何や?」
「お前……オレがお前よりアイツの事の方が先に惹かれていたって言ったよな」
「ああ…………」
平次の頷きに新一は首を振った。

弱々しくではあったけれど───決意を込めて。

「違う……いや、そうかも知れない。
でもオレは………やっぱり最初はお前を好きになってたんだよ」

そう思いたいんだ……。

「お前の事……好きだから」
一番最初に愛したから………。

──真実、だろ?………これもまた、そうなんだ。


恋を自覚して、愛して、愛してくれて…。その刻は確かに満たされて…幸福だった。
その日々は紛れもなく、偽りのない真実。


だからやっぱり……最初に愛したのはお前だ。


躊躇いもなく、そうはっきりと言い切った彼の表情は自信に満ちて輝いていた。


「おおきに」

その微笑みで新一は前に踏み出す勇気を与えられる。



だからもう、絶対に逃げる事はしない。
もう迷わない。
逃げたりしない。
今夜こそは、絶対に。


──捕まえるから……!






決心しなければならない。動き出さなければならない。
機会を与えてくれた平次と……そして新一自身の為に。
そして、動き出すのは、新一の方からでないと。
彼の気持ちに報いる為。………彼の心を受け取ったから。


──それでも、それで全てが望み通りになるという可能性は少ない。


それは、久方ぶりの現場。
暫くなりを潜めていた怪盗KIDからの予告状に、警察の動きは慌ただしい。そして、いつものように工藤新一は、ありとあらゆる逃走ルートを的確に割り出し、警部にアドバイスする。
逃走経路に抜かりはないが、ただ一点だけ、警備の一瞬の隙を隠して告げた事に罪悪感はない。


これは、賭け。


怪盗KIDが再び東の名探偵の前に姿を現すかどうか。
涼しげな顔で現れるか、それとも、もう二度と新一の前には現れないか。

KIDの胸の内は推し量れない。だが、ほんの少しの可能性でもあれば、躊躇わない。

躊躇ってはいけないのだ。



標的の保管されているビルから直線距離にして、約100m。築数十年は経過した、古いRC造の屋上に新一の姿はあった。
数日前に明けた梅雨。これから益々暑くなっていくであろう気候であったが、今夜は肌に心地よい風が吹いている。


──来るだろうか、彼は。


新一は、脳裏にその姿を思い浮かべた。
頭から足の先まで白一色に染め上げた衣裳に身を包んで、隙のない身のこなしで優雅ともとれる動きで、人々を魅了する。犯罪者であるにも関わらず、何故か彼には罪を犯しているようには見えなかった。

何故だろう、何故?

そう自問してみても、答えは見付からない。

その時。ふわり、と風が舞った。
今まで感じていたものとは違う別の空気の煽り。新一は風が靡いた方向へと、ゆっくり振り返った。


そこに居たのは……彼の待ち人。
「……KID」
呟く声は、夜風に運ばれKIDへと届いたのだろう。彼は僅かに唇の端を上げて笑みを形取った。

「これは名探偵……ごきげんよう」
慇懃無礼な態度は、いつものKIDとさして変わらない。

ただ一つだけ何時もと違うのは……まだ予告時刻には暫し間があるということ。

何時もは、宝石を奪った後。逃走途上で出会っていたのに。もちろん、新一は彼の逃走経路を予測して、このビルの屋上で待機していた。
だから、侵入する際のKIDと出会う予定ではなかった…。

KIDの不遜な態度は変わらない。しかし、その彼の取った行動は少々不自然だ。
これでは、予告時間に標的を捕らえる事は出来なくなる。


「こんなに早く会えるとは思わなかったぜ?……KID」
KIDの真意を測りかねて、それでも動ずることなく新一は言い放つ。
その言葉にKIDは軽く眉をひそめた。

白いマントが夜空にはためく。

「貴方の姿が見えましたので……一応、ご挨拶をせねばと思いまして…ね」
嘘か誠か、感情を表に現さない平坦な台詞が新一の元に届く。
その声音の中にKIDの冷酷な部分を感じ取って、知らずに新一の心も冷えた。

胸の奥に、寂寥が去来する。


──何故だか、とてつもなく苦しかった。


そんな新一の心の内など知らないであろうKIDは、相変わらずの瞳で新一を斜に見つめている。
その瞳の奥は暗くて、何も見えない。
息詰まる空気の中、新一は心を落ち着かせるように目を伏せた。負けないように……精一杯の勇気を溜めて。


「……どうした名探偵。今夜は元気がないじゃないか」
からかいを含んだ声に、新一は顔を上げた。

「んなコトねーぜ?……こんな所で時間潰していると、予告時刻に間に合わなくなるんじゃねーかと心配してやってただけだ」
「これはこれは……探偵らしからぬお言葉ですね。ですが、心配はいりませんよ。ここに貴方が居る限り、宝石を盗み出すことなど容易い事……」
KIDはその唇に微笑を浮かべると、新一の方に一歩踏み出す。

月明かりを受けて、白く輝く姿に思わず後ずさりしそうになる身体を新一は必死に押さえた。
身を引こうとしたのは恐怖の所為ではない。
KIDが今までと同じ態度で接してくる事への………不安。それは、当然の態度なのだろうけれど、それが堪らなく寂寥感を誘う。

身勝手な気持ちだ。
それを自覚しつつも、打ち捨てられない感情に新一は戸惑いを心の中に押し込めたまま、近付くKIDを睨み付けた。

そんな視線でKIDを止められるとは思わなかった。新一がどんなに強く睨み付けても、目の前の男はいつも飄々としていたから。小馬鹿にするような口調で、効果ないと言い放っていたKID。
しかし、今夜のKIDはまるでその視線に応じるかのようにふと足を止めた。

「……?」
新一の思い通りのKIDの行動に満足しつつも、しかし納得仕切れない彼の態度に言葉にならない不安が過ぎる。

KIDの……モノクルに隠された瞳が揺れている。躊躇うように視線を逸らし、そしてまた新一を捕らえる。
それは、ほんの僅かに起こした仕種であったけれど、新一にははっきりと見て取れた。

不遜な態度に隠れた、戸惑いの表情。


短い、沈黙の刻が2人の間に流れた。


突如、新一の腕にはめていた時計のアラームが小さく鳴り響いた。それは、怪盗KIDの予告時間を告げる音だった。
ふと我に返る新一に目の前のKIDが苦笑を漏らす。

「どうやら……予告した時間は過ぎてしまったようですね」
予告したカードは無意味なものになってしまった。と、そう言う。

「貴方といると……ついペースが乱れてしまう」
「なら、会わなければいいだろ」
「そうですね」
新一の言葉にKIDは笑って頷いた。

月下に咲く大輪の花のような存在である新一に、引き寄せられないはずはないと内心呟きながら。

「貴方が警備に協力しなければ、こんな事にはならないのでしょうが」
「そんな都合のいいこと……」
「本当に……そうですね。貴方のおっしゃる通りですよ」

冷涼とした雰囲気の中に隠る一つの決意。


新一が気付かないはずはなかった。
KIDは、ずっと新一を見ていた。
見つめていた。

……しかし、その瞳には──新一の姿は映していなかった。

まるで硝子玉のように無機質な瞳。
それは、新一と視線が合う瞬間だけ、色を無くしていた事に……。



だから……。


「もう二度と、貴方にはお会いしませんよ」
色のない瞳でそう告げられて……それで納得なんて、出来る訳ない──。



「──KID!……いい加減に、ちゃんとオレを見ろよっ!!」
それは、咄嗟に口をついて出た、背を向けたKIDに向かって思わず叫んだ言葉。このまま、目の前から居なくなってしまう事に対する、それは恐怖にも似た想い。
まともに目も合わせてくれない、あまりにも不実な行いに対するやり切れない想い。

二度と会えないなんて──そんなのは、絶対にイヤダ!!


それは、新一が叫んだと同時に起きた。
その瞬間。
……KIDは身を翻すように新一の方に振り返ったと同時に、強い力で新一の身体を引き込んだのだ。

「キッ……!」
新一は、とっさの動きに抵抗も出来ぬまま、KIDの腕の中に……その中に激しく抱きしめられる。

息が……出来ない。

それまで、KIDは何度か新一を相手に戯れた事はあった。
しかし、こんなに強引に……激しいまでの強さで抱きしめられた事なんて、今までにただの一度だってなかった。

「新一……」
突然の激しさに声も出せない新一に、KIDは絞り出すように名を呼ぶ。囁くような、吐息混じりの熱い声が新一の耳元にかかって思わず息を飲んだ。
心が……揺さぶられる。粟立ち……胸が痺れる。

堪らなかった。
胸が苦しいのは、強く抱きしめられているからじゃなくて、彼の切なすぎる程の気持ちが新一の心の中に入り込んで来るから。
心臓が、けたたましいほどに波打って、止められない。KIDの腕の中の自分も、これ程までに強く音を立てる心臓にも耐えられなくなって、新一はぎゅっと目を瞑った。

逃げたい訳じゃない。
でも、どうして良いのか分からない。
このままでは自分の心が壊れてしまうのではないかと、そう思い始めた時。


「新一」
KIDの呟くような声と、それに続いた掠れた声が……新一の眼を見開かせてた。

「新一……好きだ」
「キッ……ド……?」
顔を上げて、KIDの顔を見上げる。

モノクルに隠されていても……そこには真剣に見つめる眼差しがあった。

「キッド……」
呆然とした声しか出ない自分が悔しい。

「宝石なんて、どうでも良かった。……オレは、お前に逢えさえすれば……それで良かったんだ」
絞り出すように告げるKIDに、新一の心が更に突き上げられる。制御出来ない気持ちが、溢れ出してしまいそうになる。

何か言わなければ……。
KIDの言葉に自分の気持ちを伝えなければ……!

新一の両腕が持ち上がり、KIDに触れようとした時だった。まるでそれを察したかのように、KIDの腕から力が抜けた。
新一の身体は解放され、その反動で少しよろめく。
突然自由になった体より、相手のぬくもりの消えてしまった事に訳もなく不安になった。

切なそうに見つめてくる瞳に新一は思う。
怪盗KIDがこんな表情しているなんて──こんな彼は見たこと無い。
しかし、新一が何かを言おうと口を開きかけた時、それに拒絶するかのようにKIDの身体は反転した。

一変した態度を取るキッドに困惑気味な表情をした新一だったが、直ぐに解った。


この男は、………新一に背中を見せて──逃げようとしているのだ。
いつもはスマート過ぎるほど華麗に優雅に振る舞って、こんな切羽詰まった背中を見たことない。


だから──このまま行かせたくないと、新一は強く思った。





空中へと身を躍らせようとする彼に……新一の身体は条件反射のように素早く動いた。それは、頭が判断するよりも早く。自分の前から居なくなって欲しくなかったから。
新一が伸ばした指先に純白のマントが掠めて、次に彼の服の袖口をぐっと掴んだ。そのままおもいっきり引っ張って、KIDの動きを止める。

「新一──?」
引き止められた事に、目を見張って振り向くKID。
新一は彼の視線を逸らす事なく受けると更に引き寄せ、空いているもう片方の手をKIDの目の前に翳した。
そのまま、彼の表情を隠しているモノクルへと向かう。身じろぎもしないでそのまま呆然と佇んでいるKIDから、それは容易に取り去る事が出来た。

驚愕の表情で新一を見つめてくるその瞳。
新一は、そんな顔のKIDに訳もなく微笑んだ。

今まで、『怪盗KID』には見せたことのない表情で……。


「捕まえた。──もう逃がさない」
もう絶対に離さない。

「しん………」
信じられない──そう告げてくる表情のキッドの腕を更に強く掴んで。隠す物のない、素顔をさらけ出したその顔を新一はじっと見つめた。


そして、心の中で何度も自問する。

──間違っていないよな……絶対に。



この胸の中で生まれた想いは初めてじゃないけど。
今、一番大切なのは……この目の前の人。
きつく抱きしめたい衝動を抑えて、新一の瞳はキッドから視線を離すことなく告げる。


「オレを置いて、……何処へも行くな」
掴んでいる腕のその指の隙間から、こぼれる程伝えてくる新一の想い。
キッドはそれを受け取るかのように腕をおずおずと彼の背へと回した。


「……しん……いち」
再び手にした温もりに、キッドは大切な人を抱いているのだとようやく実感する。都合の良い夢でも、幻でもない………真実を抱きしめているのだと。

「新一……」
「何だ…?」
腕の中で呟くように尋ねてくる愛しい声にキッドは囁く。

「愛してる……愛してる、新一」
掠れた声は真実の重みを持って、新一の心に届く。
いつもの彼らしくなく、全然キマってもなくて、───ただ真摯に告げてくるだけのキッドに、新一は悲しくもないのにまるで泣いてしまいたいかような声音で応えた。

「ばーろ、……んなコト、最初から──」
……解っていた、知ってたぜ……?

言葉は最後まで声にならなくて、ただ互いに手放す事が出来ない温もりを……何度も確かめるように強く抱きし合った。
それだけで充分だった。
それだけが、全てだった………。


今夜の『怪盗KID』の仕事は失敗に終わる。
予告時間に現れることもなく、当然目的の宝石も盗まれる事はなかった。

しかし、そんな事はもう些細な事柄でしかない。
本当に欲しかったモノは、この腕の中にある。真実、目を見開いていれば容易に解っていたはずの……大切な『たった一人の人』。


夏の夜風が二人の周りを取り巻いて消える。


その穏やかな空気の流れの中、幸福に抱き合う二人を、月が優しく照らし出していた。










Fin





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My Only One
2000.8.21〜2000.11.12
Open secret/written by emi
19 2000.10.03
20〜21 2000.10.03
22 2000.10.05
23 2000.10.27
24 2000.10.28
25 2000.11.03
26 2000.11.12

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