リボン







鬱陶しい空気に包まれた夜。身体にまとわりつくような湿った空気も、梅雨時なら仕方ない。
とんでもない日を仕事に選んでしまったと悔やむが、今日が明日になったって、天候はさほど変わりはしない。

一度降り出した雨は、強弱を楽しむかのように降ったり止んだり。ご大層な出で立ちのその格好は、夏場など見ているだけで暑苦しいのだが、それはそれ。着ている本人が涼しい顔していれば、雨も避けて降ってくれる、と思わせることが出来る。
防水処理が施されていて、且つ通気の良い衣装は雨の中でも決して枷にはならない。軽やかに飛んで跳ねて相手をからかって、それでも彼は一分の隙を見せずに目的の宝石を奪う。
本来姿を見せるはずの丸々と太った月も、この天気ではどうしようもない。
今夜の戦利品を片手に、取り敢えずは急いで現場を後にした。


急がないと、日付が変わってしまう。
いつもならば、あまり時間に拘らない彼だったが、今日は特別。
何の為にわざわざ今日に仕事を入れたというのだ。それはもちろん、彼にとって特別な日を特別な相手と共に過ごす為。

星一つ見えない曇天の、しかもパラパラと小雨の降り続ける中、彼は嬉々として愛しい恋人の元へと向かう。
仕事帰りに何時も寄っているので、屋敷の主人も今夜彼が来る事は分かっている筈。
もちろん、その日がどういう意味を持つのかも。




「pm11:56……ギリギリセーフ」
目的地である屋敷の真ん前で時計を確認する。

恋人の私室の場所はちゃんと把握している。もう何度となく通った。呼び鈴も押さず玄関からも訪問しない彼にとって、その行為がマナー違反であると言うことは全く気にしていない。恋しい人にそんな手間をかけさせる方が失礼だ。

だから、彼はいつものように屋敷の敷地内に入り込むと、彼の部屋の前に辿り着き、軽々と飛んでバルコニーに足を降ろした。
音もなく窓を開け放ち、静かに中へと踏み込む。


室内は静まり返っていた。灯りはなく、外とは反対の乾いた空気が漂っているだけ。
「……?」
キッドは内心首を傾げた。
何時もなら、この部屋は淡い光に満たされていて、窓が開くと同時に恋人は困ったような、でも嬉しそうな顔で出迎えてくれる。

なのに、この静まり返った空間は何だろう。
……誰もいない?
いや、そんな事はないはずだ。昨日の彼の行動は全て把握している。夕方に警視庁に呼び出されたものの、夜には解放されて、課の人間にわざわざ車で屋敷の前まで送ってもらっていた。キッドは彼が家の中に入っていく所を確認してから仕事に向かったのだ。
だから、新一が居ない筈はない。

キッドは徐に顎に手を添えて考える。
もしかしたら階下にいるのかも知れない。午前0時は、眠る時間には違いないが、夜更かしするにはまだ早い。
訪いを忘れ去られていた事には傷付くけれど、ここで挫ける自分ではない。
気を取り直して、ドアに向かおうと一歩踏み出した時。
小さな衣擦れの音と共に、人の気配を感じた。

「……」
動きを止めて気配のした方向に視線を向ける。

ベッドの上が蠢いていた。キッドが居る時はほとんど存在感のない寝台にそっと近付く。
果たして捜し人は居た。
何時もなら、軽装とは言え服装はきちんとして起きてキッドを出迎えてくれていた恋人が、今夜は珍しく、既に夢の世界の住人と化している。
6月と言っても今夜は少し冷える。フェザーケットを頭まで被って丸くなっているその姿に少し笑った。
考えてみれば、今までこんな風に無防備な姿を見せた事は一度もない。そう思うと新一のキッドに対する想いも多少は推し量れるというものだ。

しかし。

「……よりによって、どうしてこの日に眠ったままで出迎えられなければならないんだ?」
今日はキッドの誕生日だ。
キッドはこの日、新一に会う為に仕事を前日に設定した。彼に会う口実を作る為だけに。

新一も今日がキッドの誕生日であることは知っている。
先月、彼の誕生日を祝った時に訊かれたのだ。だから、わざわざ前日に仕事を入れたキッドに新一は呆れたように笑った。
「そんな事しなくても、堂々と来れば良いのに」
そう言った新一だったが、キッドは譲らなかった。

普通の恋人同志のように、互いの家を訪問するのも悪くない。しかし、そうなると二人の間には「常識」という壁が立ちふさがることになる訳で。
いくら何でも、真夜中に恋人の家に忍んで行くなんて真似は、キッドには出来なかった。

だって、まだ清い関係だし。……と、心の中で付け加える。

新一は、キッドからの告白を真剣な面もちで受け入れてくれた。
差し出した手を取ってくれた。
「怪盗KID」であるというリスクなど気にも留めずに応えてくれた。

もうそれだけで奇跡のようで。
それ以上、強く求めたいなんて気持ちよりも、嬉しくて嬉しくて嬉しくて。
仕事帰りにこうして寄り道しても、嫌な顔せずに、むしろ喜んで迎えてくれる。
もうそれだけで幸せ。

真夜中を過ぎた逢瀬でも、恋人らしい行事はこなしている。クリスマスを一緒に過ごし、時計の秒針を見つめながら、年が明けるのを待ち続けたり。バレンタイン、ホワイトデー、そして、彼の誕生日。新一はキッドのやる事に何一つ嫌な顔せずに付き合ってくれた。

恋人達には特別なイベント。そして、その中でも特に外せないのが誕生日。

世間の、誰が作ったか分からない特別な日より、一人一人が持っている、年に一度の大切な日。
別に多くは望まない。ケーキもプレゼントも、所詮はイベントを引き立てる彩りでしかない。
キッドは望むのは、この世で一番大好きな恋人から贈られる祝いの言葉だけ。
誰よりも早く、一番に祝って欲しい。だから、回りくどい真似までして此処に来たのだ。

なのに当の本人ときたら、そんなキッドの心情を知ってか知らずか、すやすやと小さな寝息を立てて熟睡中。
少し……いや、かなり残念だ。キッドは思う。
夏用に変えたのか、軽いフェザーケットをそっと捲ってみる。
着ていたのはパジャマだった。キッドはそれを確認して溜息をつく。

つまり……これは「単に待ち疲れてうたた寝」とか「ちょっと横になって待っていよう」とか、そういうのではなくて、明らかに「おやすみなさい」なのだ。

今日という日何を意味するのか、知った上でこの行動なら……哀しいと思っても責められないだろう。
至極残念そうな表情で、安らかな寝顔の新一を見つめる。

……ちょっと目覚めてくれないだろうか。

キッドの指が、新一の白くて柔らかな頬を軽くつついた。
しかし、その程度で覚醒させるのは無理。
キッドは少し考えて、もう一度新一を見た。

ほんの少しなら、起こしても文句言われないだろうか。
何より今日はキッドの生まれた日だし。ほんの少しの我が侭くらい受け入れてくれたって罰は当たらない筈だ。
キッドも新一の誕生日には、うんとたくさん「おめでとう」と「愛してる」を言った。
甘くないのに美味しいと評判のケーキにシャンパン。プレゼントは、相手に負担を掛けさせない程度の品物でありながら、とても凝った作りの品をあげた。
どれもこれも新一は嬉しそうに微笑っていた。

キッドは、何もそんなご大層なモノをせがむつもりはない。
ただ、ちょっと起きてもらって「誕生日おめでとう」と言って欲しいだけだ。
それだけを欲するのはとても謙虚だと思った。だから、やっぱりちょっと起きてもらおう。

キッドは漸く決心すると、新一の肩を軽く揺さぶった。
「……新一、起きて」
囁くように声を掛けるキッドに、しかし新一の瞼は開く気配が無かった。
今度は少し強く揺さぶってみた。しかし、ほんの少し眉を寄せるだけで、すぐに元に戻ってしまう。

無視されている。と、そんな気分になった。
少しだけ理不尽な怒りのようなものがこみ上げてくる。
何が何でも目覚めさせたくなって、新一の頬を少し強めにペチペチ叩いた。
すると彼は、いたく煩わしげに腕を上げてキッドの手を払うと、体勢を変えて仰向けになった。

「……」
キッドは暫く呆然として立ち尽くした。

手を払われたからではない。……仰向けになった彼の胸元が開いているのに目を奪われたからだ。
新一の透けるような白い肌が惜しげもなく開かれて、キッドを誘っている。
灯りのない闇の中でも、その白さははっきりと浮かび上がっていた。


その姿を見た時。
──もしかしたら、自分はとても美味しい状況に居合わせているのではないかと思い至った。


「……新一が……誘ってる?」
無意識に。だけど、それは彼の落ち度であって、キッドに責任はない。
そう意識すると、急に心臓の鼓動が速くなった。トクトクと胸が鳴っている。

キッドは、先程とは明らかに違う仕種で、恐る恐る彼の頬を撫でた。滑らかな肌をキッドのしなやかな指が滑る。その後ふと気付いて慌ててグローブを外した。こんな無粋なものを着けたまま触れるなんて、新一に対して失礼だ。
もう一度そっと触れて、きめの細かい滑らかな肌を撫でるとダイレクトに感じる。……指が官能に震えている。

今までも何度かその肌に触れた事はあった。絹糸のような黒髪に触れたりキスしたり、華奢だが均整の取れたその身体をそっと抱き締めた事もある。
だけど、今夜の彼は完全に無防備で。彼の深く澄んだ蒼い瞳は見えないが、その代わりにあどけないくらい愛らしい寝顔を惜しげもなく見せつけて。

眠ってるなら、こんな事しても構わないかな?なんて思って、キッドは大胆に彼の身体を掻き抱いた。
背中に腕を回し、ぎゅっと強く抱き締めてみる。完全に力の抜けている新一の身体はまるで人形のようにくったりしていたが、キッドは全く気にならなかった。

「……しあわせ」
恋人の体温が心地良くて、うっとり呟く。微かに残ったソープの香りが鼻孔をくすぐった。
ぱさりとシーツの上に落ちた腕をすくい上げる。キッドは、その細く繊細な指先一つ一つに口づけを落としていく。

何時もなら、こんな事をするとくすぐったそうに身を捩って、全ての指にさせてくれない。でも、今夜はそんな中断をさせられる事もなく、一歩ずつ丁寧にキスを施していく。
左手の指から始まって、次に右手。触れていた左腕を名残惜しそうに離して、もう片方を持ち上げる。しかしその時、ふと違和感を感じた。新一の腕をさらりと流れる「それ」にキッドは気付く。

「……?」
新一の手首に何かが巻かれていた。
包帯と言うには豪奢だ。しかも、その肌触りはベルベットを思わせる。何だろうと気になってパジャマの袖をたくし上げる。

それは、リボン。

女性が使うアクセサリーにしては妙に長く、ラッピング用の物にしては些か豪華すぎる生地。幅も厚みもたっぷりあるそれが新一の手首を緩やかにくるくる巻いて、フレンチボウをアレンジしたような形で綺麗に結ばれている。

「……何で……こんなモノが?」
訳が分からなくて首を傾げる。眠っている新一はもちろん答えてくれない。

新一は何故、こんなモノを巻いているのだろう。おまじない?願い事?新一が中学生の女の子なら、その手の可能性もなきにしもあらずだが、流石に男で、しかもこの性格でそれはないだろう。新一は恐らく縁起もかつがない

なら、ならば。

「まさかこれは…………す、捨て身のプレゼント…?」
いや、捨て身と言うとちょっと自分が哀れだから……さしずめ「身体を張ったプレゼント」という所か?

……まさか。

工藤新一という人物がどういう人間なのかを全て知り尽くしていると自負しているキッドにとっても、これは理解外だった。
千歩譲ってそうだとしても、素面でこんな事が出来る人間じゃない。
出来る人間なら、キッドと新一はとっくの昔に「心も体も恋人同志」になっていても何ら不思議ではないだろう。

取り敢えず、キッドは動揺しつつも目に見える範囲で室内を物色した。
そして数分後、明らかに贈り物である、と言うようなラッピングを施した物体が見つからなかった事で、益々新一の手首のリボンが真実味を帯びてくる。

……やはり、これは「そういう事」なのだろうか。

もしコレが新一からキッドへのプレゼントならば、……こんなに嬉しい事はない。感涙に咽いでしまう。
無防備に眠っているというのが解せないが、素面でこんな真似出来ない新一なら……この態度を理解出来ない事もない。
もう一度リボンの意味を考えるが、「それ」以外にしっくりといく答えが見つからなかった。

「……取り敢えず」
貰えるモノなら、有り難く戴いておこう。
最終的に自分の都合の良い様に結論付けると、今度は嬉々とした表情で新一を見つめる。

「折角のプレゼントなんだから……まずは中身を確認しないと」
綺麗にラッピングされたプレゼントを開ける時は何時だって期待に膨らむものだ。しかし、今回はそれまで貰った何よりも心臓がドキドキしてる。

新一の身体を覆っている邪魔なフェザーケットを剥いで、まずは右腕を捧げ持つ。
ベルベットのようなリボンの一方をそっと引くと、何の抵抗もなくするりと解けた。
少し寝乱れたラッピング(パジャマ)も全部剥がさないと、どんなものを貰ったのかちゃんと判らないから。なんて心の中で言い訳しながら上着のボタンに手を掛ける。滑るように動かしただけで、全てのボタンが外されて。
シルクのような光沢を放つ滑らかな肌が惜しげもなく晒され、キッドは感動のあまり、思わず双眸が潤んでしまった。

「一生大事にするからね」と心の中で何度も繰り返し、吸い寄せられるかのように、その白い肌に口づける。首筋の滑らかさを味わうように、ゆっくりと口唇を落としていく。
露わになった新一の脇腹をそっとくすぐるように撫でて、掌いっぱいに彼の肌の感触を楽しんだ。
キッドの指先が、彼の胸に息づく小さな彩りを掠めると小さなうめき声を漏らした。

「……新一?」
気付くかなと思いつつ、恐る恐る声を掛ける。目覚めてくれた方がキッドとしては嬉しい。意識のない身体は何をしても抵抗されない代わりに一方通行だ。
覚醒して、己の立場を顧みて、そうしたらきっと怒るだろうなと思う。何に対して怒りを表すかは、選択肢が多すぎて一つに絞りこめないが、まず微笑ってはくれない気がする。

しかし、キッドの心情を知ってか知らずか、新一の瞼は押し上げられることは無かった
触れる指に僅かに反応は示すものの、覚醒する気配は微塵も見られない。
こんなにもアレコレと手出ししているのにも関わらず、相手は相変わらず夢の中。

キッドは、半ば感心した声で呟いた。
「新一って……一度寝入ると朝まで起きないタイプなんだ」
これは知らなかった。
何となくイメージ的に眠りは浅い方かと思っていたのは、キッドがそうだからだ。
仕事上、家で眠っていても周囲に敏感で物音一つですぐに目覚める。
ある意味、新一が羨ましいと思った。こんなにもぐっすりと眠れるなんて……まるで一服盛られたみたい。

「……」

その瞬間、ふと何かが脳裏を過ぎった。
……一服盛られてる?

途端に嫌な考えが生まれて、キッドは慌てて彼のはだけたパジャマの前を重ね合わせた。



「……謀られてるのかも」
その呟きは新一の穏やかな寝息と共に空中に溶けて消えた。











昨夜の湿った空気を払拭するかのような爽やかな風が室内に流れ込む。カーテンの隙間から零れる朝日にキッドは目を覚ました。
瞬時に覚醒すると慌てて飛び起きる。

昨夜新一は目覚めなかった。そして、結局KIDは、あれ以上何もせずに、只彼を抱き枕のように抱き締めて眠りについた。
普段なら、朝まで居座る事などないキッドだったが、今日は特別。何が何でも一番に祝って貰いたくて、結局帰れずじまい。
……帰りたいなんて、本当は今まで一度も思った事ないけど。

しかも、隣で眠っていた恋人の姿がない。シーツにも温もりは残っていない。

気配には超敏感だから、新一が起きたらすぐに目覚める予定だったのに……どうして気付かなかったのだろう。
「……失態だ」
何時だって一分の隙もないくらいに綺麗に決めている衣装も、着たまま寝ていたからぐしゃくじゃだ。
コバルトブルーのシャツは皺だらけ、スラックスも変な折り目がいくつも付いている。はっきり言って格好悪い。……と言うか、このままでは相手に不快感を与え兼ねない気もしたが、生憎と着替えなんて持ち合わせてはいない。

何より、今のキッドにとって一番重要な事は。

「新一」
キッドは、自分の格好など全く構うことなく、バタバタと部屋を飛び出した。
慌てて階段を下りて、彼が居るであろうリビングへと向かう。

と、キッチンから香ばしい香りが漂ってきた。急遽方向を変えてキッチンに飛び込む。

捜し人は居た。

キッチン横のコーヒーメーカーがコポコポと音を立てて香ばしい芳香を放っている。新一は入り口に背を向けて、シンクの中でレタスの水切りをしていた。その姿がキッドの気配を感じてゆっくりと振り返る。
「おはよう」
涼やかで爽やかな声で、彼はキッドに挨拶の言葉を投げかけた。

寝顔もあどけなくて可愛かったけど、朝日が射し込む中、こうして微笑んでくれた方がずっと清々しくて幸せだとキッドは思った。





「ゴメンな。昨日は起きて待っていられなくて」
風邪気味で体調を崩していたのだと新一は言った。でも、居てくれて良かった。と、はにかむように微笑う。

「風邪?……大丈夫なのか?」
心配気に訊いてくるキッドに新一は笑って頷いた。
「ああ。もう大丈夫」
そう言って一旦手を休めると、キッドの傍に歩み寄る。

「今日は大切な日だから、風邪なんかに邪魔されたくなかったんだ」
新一はテーブルの脇に置かれていた小さな包みを取り上げると、それをキッドに手渡した。
「誕生日おめでとう。……これ、大したモノじゃないけど」
プレゼント。とそう言って、少し照れたように目元を朱に染めた。

「……あ、開けて良い?」
此処で。と言うと、新一はふわりと微笑って頷いた。
細いリボンをもどかしげに解いて、綺麗に包装されたそれを開くと、中から現れたのは小さな小箱。

天鵞絨貼りの箱をそっと押し上げると、そこには銀細工の美しいタイピンとカフスのセットが鎮座していた。
青みかがった乳白色の石は月長石。それがそれぞれのピンの上を清楚に飾っていた。新一が選んだと思わせる品の良い逸品だった。

「お前に似合うんじゃないかと思って買ったんだ。……悪くないだろ?」
些か不安そうに訊いてくる恋人に、キッドは極上の微笑みを浮かべた。

「……すごく嬉しいよ。ありがとう、新一」
言葉にすれば本当に陳腐な台詞だけど、感情はそれまでにないくらいたっぷりとこめる。

そこでキッドはふと考える。
これが、新一がキッドに用意していたプレゼントならば──必然的に昨夜のあれは、やはり……。

「朝メシ食うだろ?うちは英国式ブレックファーストだけど、構わないよな?」
新一はうきうきしながらキッチンに戻っていく。

カリカリに焼いたトーストに目玉焼きとソーセージ。そして、栄養面を考慮してシャキシャキの野菜サラダ。
「新一手ずからの朝食なんて、恐れ多いよ」
超御機嫌なキッドだが、新一も負けてはいない。
「ケーキも用意してあるんだぜ?お前好みの甘くて美味しいヤツ。……でも、賞味期限が切れてんだけど、大丈夫かなぁ」
「?」
首を傾げるキッドに新一は手を動かしながら言葉を続けた。

「本当は、起きているつもりだったんだ、昨日。お前がうちに来る事は判っていたし、一番にお祝いしてあげたかったし。それに、やっぱり誕生日と言ったらバースディケーキ、これだろ?お前、甘いモンには目がないから。……けど、薬飲んだらすぐに眠気に襲われて……何か入ってたみたいなんだよ。結局、そのまま朝までぐっすり眠ってしまって」
「……薬?」
「只の風邪薬だよ。オレの身体、あまり市販薬服用するの良くないらしいけど、ちゃんと宮野に処方してもらってるから、大丈夫」
「宮野……?ああ、隣の」
聞き慣れない名前に眉を寄せるが、すぐに誰なのか思い当たった。
少し前まで別の名前を名乗っていた少女。

「あの、例の科学者さん。でも、彼女は医者じゃないだろう?」
「ああ。……でもアイツ、マルチだから」
元々の元凶作ったのもアイツだし。と、大して気にする風でもなく言う。

キッドは奇妙な表情をしたが、背中を向けている新一は気付かない。
「ケーキだけどさ、新一」
「何?」
「アレだろ?『生ものですから本日中にお召し上がり下さい』ってやつ。大丈夫、半日ズレ込んだって全然平気。だからそれは10時のお茶の時間に食べよう。で、夜にもう一個新しいの買ってきて食べる。今度はうんとロマンティックに、ムード満点に、ね」
楽しげに笑って言うと、
「……胸焼けしそう」
新一はそう言って苦笑したが、満更でもなさそうだった。

「じゃあ、オレちょっと出掛けてきても良い?朝食の準備が出来る頃には帰ってくるから」
「もう出来るぜ?」
振り返って怪訝な顔をする新一に「ちょっとお隣まで」と言い置いて身を翻すキッドに彼は素早く呼び止めた。
「外出るんなら、着替えて行け。……お前のそのカッコ、ちょっと非常識すぎる」





よれよれの衣装を脱いで、新一に借りた服に着替え隣家に赴くと、出迎えたのは家の主だった。
キッドの姿を見て一瞬新一と間違えた阿笠博士だったが、彼の向こう側にいた科学者はすぐに気付いた。

宮野志保は躊躇する博士など気にする事なく彼をあっさり迎え入れると、彼を自室に招き入れた。

扉が閉まると同時真っ先に口を開いたのはキッド。
「新一にあんな悪戯したのは君?」
悪戯というのは、彼の手首に巻かれていたリボンの事だ。優雅に結ばれていたそれ。

冷静になって考えればすぐに判る事だった。
推理は器用にこなすクセに手先は不器用な新一が、自分の手首にあんなに美しく結べる訳がない。
蝶々結びだって怪しいモノだ。

あの家にフリーパスな人間など限られている。特にこの家の主人は彼の屋敷のスペアキーを所持していた。
……つまり、彼の屋敷に勝手に侵入する事も可能な訳で。

キッドの言葉に志保は軽く眉を上げた。
「あら、悪戯だなんて心外ね。……あれは私からあなたへの『バースディプレゼント』のつもりだったのだけど」
なかなか素敵なプレゼントだったでしょう?とそう言って笑う。

「でも、折角のプレゼント……貰っていただけなかったようね」
残念そうな口調も、その目元は笑ってる。

そうなのだ。
あの何とも慎ましやかな恋人が「自分がプレゼント」だなんて、大胆な真似に出られるとは到底思えない。
全ては、目の前の科学者の策略。

「……薬も、少し睡眠薬の量が多すぎたんじゃないのか?」
「そんなことないわ。初期の風邪の症状には充分な睡眠が一番だもの」
コロコロと笑う志保を眇めた眼で見やりつつ、気付いて良かったと、心の底からキッドは思った。もしあの時、理性が飛んで本当に「戴いて」しまっていたら……今朝のあの極上の微笑を湛えた新一には逢えなかったかも知れない。

「プレゼントは恋人からのもので充分満足してますので、私のような者に余計な気遣いは無用ですよ、お嬢さん」
惚気を充分含ませて言い放つと、相手も少し面白くなさそうな顔をした。

「……本当に……好きなのね」
感じ入ると言うより、完全に呆れた顔でそう溜息をつく。
「恐ろしい事に、工藤もあなたの事が信じられないくらい好きらしいの。……でなきゃ、無関係の私があなたの誕生日なんて知り得るわけないもの」
本当に困ったものね……と彼女は呟いた。











その日は、梅雨の晴れ間の爽やかな初夏の午後。

「勘が良いのか悪いのか、ちょっと悩む所だわ」
コーヒーをなみなみと注いだマグカップを新一に手渡す。それ受け取ると新一は小さく礼を言って口を付ける。
志保も同じような形のカップを携えている。自分用のそれを新一に見習って一口飲んだ。
「でも、結果としてはどうなのかしら」
「……分かんねぇ」
志保の問いに新一は肩を竦める。

先月。
新一の誕生日を一番に祝ってくれたのはキッドだった。相変わらずの仕事帰り。その手にはケーキの箱とシャンパン。それと真っ赤な薔薇の花束。大荷物で新一の部屋の窓を叩いた彼は、一瞬にしてその場をパーティ会場に変貌させてしまった。

男相手の誕生日にすらケーキは必需品と言って憚らない彼が大の甘党なのを新一は知っていた。
真っ白にデコレートされたバースディケーキを切り分けて、差し出されたそれを一切れ口に入れると、想像以上に甘くなくて、なのにとても美味で、凄く嬉しかった。
新一の味覚を優先させたそれは、キッドには少し物足りなかったかも知れない。でも、だからこそ嬉しかったのだ。

シャンパンも極上だった。口当たりの良いアルコールは何だかケーキよりも甘く感じられて、ふわふわと好い気持ちに浸れた。
恋人のそっと肩を抱いてくる腕も、耳朶に感じる吐息も全てが心地好くて堪らなかった。

ありったけの優しさと愛しさを感じて、幸せで幸せで堪らない時間。
だけど、甘受するだけの自分は、そんな気持ちを上手く表現出来ないもどかしさに悩む。

身体中に触れてくる掌はとても気持ち好くて、頬や口に触れてくる口唇に幸せを感じていた。
だけど新一の優しい恋人は、決してそれ以上を越えて新一を蹂躙するような真似はしなかった。

新一はそんなキッドの態度に、ずっとずっと甘えてた。
こういう関係の方が新一には好ましい。

だけど、……相手もそれで満足しているとは限らない。

新一はキッドの事を良く知っているつもりだった。だけど所詮二人は他人。以心伝心で何でも心が通うなんて思っていない。
新一の気持ちとキッドの気持ち。どんなに頑張ったって、混じり合わない。交じることはあっても溶け合う事はないのだ。

キッドが時折、切なそうな表情をするのを知っている。
強く抱き寄せて、暫くじっとそのままで離さない。まるで抑えきれない想いを必死になって押し込めているみたいに。
だから、新一は決心した。
別に恋人に対して、そんな抑制する必要なんてない。出会っていくつもの季節が巡った。二人の時間はたっぷりあって、ちゃんと気持ちの疎通だって出来ている。

全てが欲しければ、奪ってくれれば良いと思う。……新一だって、決して嫌な訳ではないのだから。




自分をプレゼントしようと、店で適当なリボンを買い込んで、志保に事情を話すとあっさりと睡眠薬を渡された。
流石に起きて待っているなんて真似が出来なかったからだ。意識があったら、きっと恥ずかしくて死ぬ。
手首にリボンを結んでくれたのも彼女だ。どれだけ必要か判らなくて一巻き買ったそのリボンを見て呆れた顔をしたが、それでも綺麗に結んでくれたから、お礼に残りのリボンはあげた。

決心している割には消極的なアプローチだと志保に言われたが、新一にとっては充分積極的だった。
眠っている恋人をこれ幸いと襲うような人間なら、とっくの昔に「そういう関係」になってるはずだと重ねて言われたけれど、やってみなきゃ分からないと言ったら、「気まずくなりそうだったら、フォローしてあげる」と楽しそうに笑った。


結局、朝起きたら新一を抱き込むように隣でキッドが眠っていたけど、自分の身体は綺麗なものだった。
寝る前と変わっていると言えば、手首に巻いたリボンが解けて床に落ちていたくらい。
キッドが解いたのか、自然と解けてしまったのか。もしくは、煩わしくなって無意識に自分で解いたのか。
別にそれはもう重要ではないので、どうでも良かった。

痕一つない、至って綺麗で元気な身体が嬉しいやら残念やら。
でも、優しく抱き締めてくれる恋人の腕を感じて、こういう関係なままでも悪くないと再度思い直したのも事実。

何もなかったのなら、新一も何も仕掛けなかった事にしてしまおうと、その場合の事も考えて色々準備しておいて良かったと思った。
たまたま店で見かけて気に入ったタイピンのセット。アイツに似合いそうだと思った時には、既に包装してもらっていた。
別に誕生日のプレゼントにするつもりは無かったのだが、これ幸いと贈ったらとても喜んでくれて、こっちまで嬉しくなった。

平日だと言うのに、勝手にスケジュールを空けてキッドと一日過ごそうとした事に、恋人もまるでそれが当然と言わんばかりに一日を新一と一緒に過ごした。
キッドは新一の家で一夜を過ごした事もなければ、丸一日付き合ってくれたことも無かったから、それはとても新鮮で幸せな一日だった。だから、これで良かったと思っている……多分。

「ちょっと胸焼けしたけど、楽しい一日だったから……悪くは無かったな、うん」
訂正する新一に、志保は意地悪く問いかける。

「で。これからも清らかな関係のまま、ずっとお付き合いしていく訳ね?」
ままごとみたいな関係って素敵よね、羨ましいわ。と、からかうと、新一は少し気分を害したような顔をした。

「じゃあ……次の誕生日には、いっその事、首にリボンを巻きつけて迫ってみようか」
そうすれば、絶対に気付いてくれるだろうし……手首なんかよりずっと官能的な気がした。
……でも、やっぱり起きて待っているなんて恥ずかしい真似は出来そうにもないが。

それを聞いた志保はうんざりしたように首を竦めると、引き出しから先日貰ったリボンの残りを取り出し、新一に放り投げた。
「また必要になるでしょ」なんて呆れた声で言いながら溜息をつく。

「……でも結局、その大切な恋人をまた一年も待たせるのね」

言外に相手の立場に同情する志保に、新一は何も言い返すことは出来ずに黙り込む。
受け取ったリボンの束をじっと見つめつつ考え込む新一に、志保はもう一度、殊更大きな溜息をついたのだった。






2003/6/21 →


NOVEL


2002.06.21
Open secret/written by emi

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